あなたが産まれてこなければ——それでも僕は生きていた
母の葬儀や事務的な手続きがひと段落し、不思議と「母の命を父が奪った」という衝撃は少し薄れていた。
僕は両親のいない日常を受け入れ始めていた。
いやーー受け入れたことにしようとしていた。
弟と二匹のミニチュアダックスフントだけの暮らしに、悲壮感は無かった。
むしろ、かつて両親が二人きりで旅行にでかけた時のように、「自由」を満喫していた。
母の手伝いをしたかすかな記憶と、慌てて買った複数のレシピ本。
それを頼りに料理を作っては
「美味すぎる。お母さんより、上手じゃない?才能あるのかも」
なんて、冗談をいいながら笑って見せた。
久しぶりに、ふたりで遊びに出かけたりもした。
昔、約束を破り母を激怒させて二人して家を閉め出されたこと。
母に内緒で父にお菓子やおもちゃをねだった日のこと。
弟ばかり可愛がられることに拗ねて、散々小さな意地悪をしてしまったこと。
何かを振り払うように、どちらからともなく家族の思い出話が自然と口をついた。
母に似て、活発でなんでも器用にこなし、人に囲まれる弟。
父に似て、内気で物事を難しく考えがちで一人で過ごすのが好きだった僕。
僕たち兄弟は、そんな自我の芽生えと共に会話することも減ってきていた。
皮肉なもので、家族の記憶を唯一共有できるふたりを、本当の兄弟にしてくれた時間だったのかもしれない。
けれど四十九日も過ぎない頃、僕宛に1通の手紙が届いた。
差出人は母方の祖母ーー母の旧姓に垣間見える不穏な予感は的中してしまった。
それは起こってしまったことの重大さを、改めて僕に突きつけるものだった。
「あなたがお母さんをどう思っていたのかわかりませんが」
そう書き出された短い文章には、僕に父の幻影を重ねているような、静かな憎しみが滲んでいた。
そして、読み進めていくと、こう綴られていた。
「あの時、嫁にやらなければ」
その一文は、僕の心を深くえぐった。
「あなたが産まれてこなければ」
ささくれだった僕の心には、そう言われているように思えた。
僕がこの世に生まれたこと。今、そこに存在するまでの過程。
その全てを否定されたようだった。
涙を流さず淡々と葬儀を進める僕は、冷たい息子に映ったに違いない。
初孫として愛された記憶さえも、静かに、粉々に砕け散った。
俳句が趣味だった祖母。
綺麗な字で最後まで、最愛の娘に対する悲壮な想いが綴られていた。その手紙は誰にも見せる事なく、今でも引き出しの奥にしまってある。
母を失い、父は逮捕された。
一言で書けばそれだけの事。けれど確かに、僕の中で何かが終わった。
近くに住み、親しくしていた親戚たちも、遠ざかっていった。
誰もが当たり前だと思っている日常は、本当は、数時間先も保証がない。
簡単に崩れてしまうものだと、学んだ。
僕を形作ってきたルーツは、静かに消えていった。
自分は一体何者なのか。
僕は父を憎んではいなかった。
父もまた、病気の被害者だとわかっていたから。
それでも、人から見れば犯罪者の血を引く子になったのだと、思い知らされた。
どんな想いで生きていけばいいのか、地に足がつかない感覚。
僕はここにいて、この先幸せになってはいけないのだろうか。
それでも、二匹の犬は変わらず側にいてくれた。
人の声に敏感で、少し臆病な姉。お転婆で、人懐っこい妹。
まるで、どこかで見た兄弟のように。
姉犬の方が、ぼんやりしている僕の顔を不意に舐めた。
その瞬間、家族の思い出の香りが、ふわっと胸に広がるようだった。