本当の親ばなれの夜
「お母さん…ダメだったって…。」
長い取り調べが終わり、家に帰ってすぐのことだった。
目を真っ赤にした三つ下の弟は、意を決したように口を開いた。
「…そうか。頑張ろうな」
弟の顔が、一瞬ゆがんだ。
本当は抱きしめてやりたい気持ちだった。けれど、照れが邪魔をした。
それが僕の演じられる精一杯の、頼れる兄だった。
取り調べを受ける間も、誰も母の安否を教えてはくれなかった。
(何も言ってこないという事は、ひょっとして奇跡が起きて、治療を受けてる最中なのかな。)
脳裏に焦げ付いた、あの、「もう戻れない姿」をかき消すように、現実逃避していた。
取り調べで不自然なほどに淡々と証言できたのも、まだかすかな希望を抱いていたからだった。
何となく結果を察していた僕は、確認することで事実が確定するのが怖かった。
しかしついに、現実を突きつけられたのだった。辛い役割を、弟に背負わせてしまった。
その夜、一人で母が運ばれた大学病院へ向かった。
街の景色は、普段と変わらないようで、全く違う星のものに見えた。朝から何も食べていないのに、空腹も忘れていた。
ここにお母さんは、もういない…
その言葉が頭に浮かぶと、突然涙が溢れて止まらなくなった。
きっとこの世に産まれてきた時と同じくらい、
訳も分からずに、僕はただ泣いていた。
「お兄ちゃんなんだから、ちゃんとしなさい」
「高校生なんだから」「大学生にもなって…」
いつまでも子ども扱いしてくる母の小言。
そのうち反発するのも面倒になり、距離を置くようになった。
いじめられて帰った小学生の僕を、黙って抱きしめてくれた日のことなど、いなくなるまで忘れていた。
本当は感謝を伝えたい日もあった。
けれどもう、叱ってくれることもない。
「おやすみ」
いつも通り素っ気なく返したその言葉が、最後の会話だった——
病院へ着き受付の女性に声をかけると、待合室の椅子で待つよう促された。薄暗い中、座り心地の良くない椅子にしばらく座っていた。
やがて母の治療を担当した若い医師から、診察室へと招き入れられた。
「一度、蘇生の薬に心電図が反応したのですが…力及びませんでした。」
神妙に、深々と頭を下げる彼に、僕は腫れた目でかろうじて感謝を口にした。
事件の場合は、一緒に帰ることは出来ないとも、申し訳なさそうに告げられた。
例え原因は明らかであっても司法解剖をする必要がある。
大学の講義で聞いたようなルールが母に向けられるなんて、思ってもいなかった。
これ以上、母の体を傷つけないで欲しい
そんな言葉をグッと飲み込んだ。
病院を後にすると、やはり何一つ変わることなく回る世界がそこにはあった。
あまりに残酷で理不尽な現実。無意識に、母にメールを打とうと携帯を取り出しかけて、手を止めた。
自分の人生を生きていくなんて息巻きながら、心の中ではまだ母の手を探す子どものままの自分がいた。
よくいる愚かな息子だった。
本当の「親ばなれ」は、その日、突然にやってきた。