母の心臓が止まった日
ある外科医の、喪失と再生のノンフィクション。
東京の郊外にある、普通の家庭で育った僕は、少し内気で、犬が大好きな少年だった。将来の夢はプロ野球選手。本気というより、ただぼんやりと思い描いていた。
転機が訪れたのは中学を卒業するころ。病気の祖母が手術を受ける姿を見て、外科医という仕事を知り、憧れを抱き始めた。
普通の公立学校でも、真ん中より少し下くらいの成績で、決して勉強が得意でも好きでもなかった。
周囲には無謀だとからかわれたりしながら、何とか浪人の末に医大に入学した。
しかし、夢へのスタートラインに立てたと思った矢先、当たり前の日常が崩れ去る事件が起きた。
そして母の命だけが、戻らぬものとなった。
誰よりも上手く、人に寄り添う外科医になる。
夢を応援してくれていた母に届ける思いで、走り続けた。
喪失を振り払うように駆け抜ける事で、得られたものと失ったもの。2度目の突然の別れ。
そして、一匹の犬と出会い——
僕が、今こうして物語を書こうと思ったのには理由があります。
一般的に弱い立場とは思われない苦悩を抱えつつ、一度はどん底まで沈みました。
それでも人とのつながり、生き物の尊さが僕を優しく、少しずつ生まれ変わらせ、今も「豊かに生きる事」を勉強中です。
そんな日々に、今を悩む人に何かを届けたい想いがつのり、一つの物語にしてみる事にしました。
人生の光と闇について、優しく生きるという選択肢について、何かを考えるささやかなきっかけになることを願います。
※note、カクヨムと同時連載中です
忌々しい記憶。21歳の冬の朝。
僕は自室のドアを強くノックする音で目を覚ました。返事をする前にドアが開かれると、そこに立っていたのは複数の警察官だった。
予想外の出来事に、普段朝に弱い僕でも一気に眠気が吹き飛んだ。
(何か、悪いことしたっけ?)
ぐるぐると、自分が問われそうな罪がないか頭を巡らせ黙っている間に、警察官が口を開いた。
とても長い時間向き合っているように感じたが、きっと一瞬だったのだろう。
「お父さんとお母さんの間でちょっと揉め事があったみたいでね。悪いんだけどそのまま、着替えずに、一緒に来てくれるかな?」
大人が、何か悪い知らせを伝える時にあえて平静を装うような、不自然に明るく穏やかな口調だった。その目は、口調とは裏腹な現実を物語っていた。
僕は訳もわからず、寝巻き姿のまま、足の踏み場のない部屋を恐る恐る出た。
そして玄関へ向かう途中、今でも脳裏に焼きついて離れない光景を目にした。
リビングの床に横たわり、救急隊に心臓マッサージをされている母。そばには緊迫した様子でどこかと連絡を取る別の隊員がいた。
医者になった今でも耳を塞ぎたくなる、気道から空気が漏れる独特の音。そのたびに母の胸は押し込まれ、力なく上下に揺れていた。
そして寝室では、うなだれながら複数の警察官に囲まれた父が、強い口調で何かを指示されていた。
あの時、駆け寄って手を握りながら呼びかけたら、
もしかしたらドラマみたいに目を開けてくれたのかな…
今でもたまにそんな事を考えては後悔してしまう。
けれど、人間は突然理解をこえる場面に遭遇すると、
声を上げることすら忘れ固まるのだと、その時僕は知った。
「これは、夢の続きなのか?」
「弟は、どうした?」「犬たちは?」
立ち止まり、混乱する頭を落ち着かせようと必死に連想ゲームをする僕を、警察官は静かに促すようにパトカーの後部座席に乗せた。
車内では、時折入る、何を話しているのか分からない無線連絡以外は誰もが無言だった。まるで、昨日まで僕がいた場所とは違う世界へ、連れて行かれるような感覚だった。