【夏の愚者】-15 二番目の願い
――――――あの老婆以来、フレイアの“病”の元に気付く医師すらいないまま、瞬く間に秋は過ぎ無情な冬が来る。
身体の芯まで凍えさせるような厳しい冬。花祭の折には花に埋もれていた街が、冷淡な白一色に染まる。
冷たく澄みきった大気は肺に痛いほどだ。生物の存在を許さない酷薄さ故の清浄、それは俺が連れる藍色の少女の純粋さに通ずるものだ。
病に臥せて以来、流石に微笑みの陰りが増してゆくばかりのフレイアに、俺はついに見舞いにかこつけてイルヴァを引き合わせることにした。フレイアの目に触れさせるのは、実に約半年ぶりか。
「イルヴァ様……!」
フレイアがその藍の色彩を目にした瞬間零した笑顔は、本当に輝かしいものだった。
その一瞬で病など癒えてしまったのではないかと、馬鹿馬鹿しい願望を抱いてしまえるほど。
持たせた果物籠を手に、常の装った無表情で、それでも微かに沈痛に目を臥せるイルヴァ。
それにのみ目を注ぐフレイアの目を向けさせたくて、俺が求めてやまないものを得ながら淡々とした様子のイルヴァへ意趣返しをしたくて、そっと、フレイアの手を取った。
ミルクに一滴花の紅を落としたような色の、柔らかな手。
俺がその手を取ったのに、イルヴァに気を向けていたフレイアは一瞬反応が遅れた。
微かに見開かれた春の湖面のような瞳に、懇願する。
「具合はどうだ?フレイア。
寒くはないか?暑くはないか?喉が乾いてはいないか?苦しくは…ないか?」
何か、ひとつでも望むものは。俺に叶えられるものは。俺に求めてくれるものは。
けれど。
「なりません、陛下。わたしは何によるものともつかぬ病を抱えた身。
うかつに触れて、陛下の御身にもしものことがあっては、わたしは……!」
返って来たのは、そんな柔らかい言葉に包まれた拒絶。
一回り以上大きい手のひらから手が引き抜かれ、俺は何も残らない自身の掌に絶望した。
「フレイア……私は―――――…!!」
空になった手のひらをギリリと握りしめる。
言ってしまいたい。違うんだ、フレイア、お前の病は病などではない。堕胎の毒の所為だと、産まれる前の呪いの所為だと。だから、俺がお前に触れていけないことなど何一つないのだと。
たった一つ、お前が俺を拒む心さえ除けば!
――――――それら全てを辛うじて飲み込むと、俺は一つ苦しげな吐息をついた。
そして自身の後背に目をやる。それだけで、藍色の少女も、白銀の鎧姿も、姿を消す。
飼い馴らす事の出来る聡明さをもった道具。
やがて、此処には、本当に二人きり。
「私は……無力だ。苦しむお前の、手を取ることすらできないのだから。」
我ながら悄然とした声で、顔で、俺は呟いた。
実際、俺は打ちのめされていたのだ。運命と彼女の無情なことに。
こんな様では同情さえも引けないかもしれない、そう思った時。
「いいえ、陛下。わたしは本当に陛下に良くしていただいています。
心地よい寝台も、よく仕えてくれる侍女達も、気分の良くなる薬草達も、みんなみんな陛下の慈悲によるもの。
あの、果物籠も――――本当に、嬉しゅうございます。」
ふわり、嬉しげにフレイアは微笑んだ。
匂い立つような微笑。何より嬉しいのはイルヴァを伴って来た事だろうが、それでもその笑顔が嬉しくて、俺も苦笑混じりながら笑った。
「お前は本当に欲がないからな。
果実ぐらい、いくらでも持って来てやる。遠国のものでも、時季外れの物でも。
なんでもいい。
なにか欲しいものはないか?フレイア。」
皮肉を混ぜ込んだ柔らかな台詞を差し伸べ、けれど手を伸ばすことはない。触れようとすることはない。フレイアが拒んだからだ。
誠実さなどではない。自分が傷つくのが怖いだけ。
血が滲むほど手を握り込んだ俺に、数秒考え込むと、フレイアは予想だにせぬ凛とした声で、言った。
「“一番欲しいもの”は、決して人から与えてもらう事はできない―――――…
わたしの、姉…のように思っていた娘が言っておりました。
それは、自身の手で掴まなければ意味がないから。」
自身の手で掴むことができなくても、他人から与えられたものでは意味がなから。
強い言葉。
嗚呼、彼女は諦めていないのだ。そんな身体で、こんな状況で。
打ちのめされた俺とはあまりにも違う。彼女の美しさの根源。
思わず瞠目した俺は、その一瞬後、思わず微笑みを浮かべた。
「―――――ならば、私はいつかお前に、“お前が二番目に欲しいもの”を捧げよう。
愛しいフレイア。」
そうだ。まだ終わらない。彼女は生を諦めていない。例えそれが俺以外の物へ向ける恋慕故のものだとしても。
ならば俺も諦めない。いつか、俺が彼女の望む第一に成れるよう。
―――――もしそれが叶わずとも、彼女が、欲して手に入れられなかったものを、俺のこの手で捧げられるよう。
微かな衣擦れの音と共に立ち上がる。花の香りのする鳥籠から、冬の匂いのする世界へ。
伸ばした背を、彼女が珍しくもいつまでも眺めていたのを、俺は感じていた。