【夏の愚者】-10 悔恨~歌と薄紅~
…――――――――――
響いているのは、歌だった。
花の香が匂うように春風にのってどこまでも広がってゆく、美しい歌。
歌っていたのは、女だった。
白亜で作られ、すり鉢状になった広場。花と人で埋め尽くされたそこで、まさに花の精のような少女が歌っていた。
珍しい、染めているわけでもないらしい薄紅色の髪に、春の湖のような青翠色の双眸。
華奢でいかにも柔らかそうな身体を白いドレスが包み、それが少女の清楚さを一層引き立てていた。
なるほど、“花のような”歌姫フレイア。
だが、俺がどうしようもなく心を揺さぶられたのは、彼女の容姿でも声でもなく、やはり“歌”だった。
――――――柔らかな、甘やかな、少女のソプラノ。
十人に聞いても十人がそれは美しい歌だ、というだろう。
楽しげな、小鳥の、祭の、羊追いの、春の歌だ、と言うだろう。
だが、それは懺悔の歌だった。
ただ一人、俺にだけは理解できた。
それは、許しを乞う歌だ、と。
旋律が変われど詩が変われどそれは変わらない。
甘い声で、淡い微笑で、幸せを降り注ぐように手をのべながら。
許して、赦して、ゆるして、子供のように訴えかける歌。
それ以上に、見つけて欲しい、認めて欲しい、愛して欲しいと主張する歌。
一目で恋に落ち、歌の一節でそれはどうしようもない盲愛に変わった。
( 一目――――――…!! )
一目で良い、こちらを見てくれたら。
一節で良い、俺のためだけに歌ってくれたら。
熱病にうかされたような頭で、唯一明晰な視界の中で、ふと、彼女が此方を向いた。
心臓が跳ねるあがる。
何故。どうして。そんなことはどうでもいい。
一目で良いと思った、それは嘘だ。できるなら微笑みを。
歌の一節で良いと思った、それも嘘だ。できるならその唇から零れる全てを。
―――――そんな傲慢な願いが叶う事など、あるわけがない。
だというのに、彼女は、此方に顔を向けたまま、にっこり笑った。
淡く上気した頬。
小さな花弁のような唇から紡がれたのは、“愛”の歌だった。
優しく、高らかに。春に花開く乙女の、愛の歌。
たった一人のために咲き、馨り、散る、その幸せを歌った、全てを捧げる愛の歌。
愛しさに燃え立つような心臓に、大きく脈打つ鼓動が煩いほどだ。狂いかけた心臓によって、熔けた銅のような血が全身に運ばれる。
今、俺の偽りの赤金の双眸は、真に溶鉱炉の黄金の色をしているだろうか。
( ――――――欲しい。 )
思ったのは、ただ、一言。原始の、獣のような欲求。
「イルヴァ。」
傍らの少女に囁いた言葉は、微かに掠れていた。変わらず疑いなく傍らにあるひんやりした存在に、俺はただ冷たい硬貨を落とし
「花冠を。」
とだけ、続けた。
やがて、戻った従順な道具の手には、春の花全てが編み込まれた花冠。
彼女に相応しく、もはや彼女以外の何物にも冠せられることはないだろう花冠。
『歌姫フレイア。この北の果てに咲いた至上の花よ!
春の女神の祝福が貴女の上にあらんことを。』
一つの歌が終わった時、花祭の道化である俺は、花冠を手に進み出た。
国王か道化にのみ許される祝辞と共に、恭しく捧る花冠。
喉はひりつき、腕は震えかけた。どのような貴顕を前にした時も、暗殺者を前にした時でさえも、これほど緊張した事はなかった。
花束も、衣装も、装身具も、甘菓子も、王都を訪れてより、誰からの贈り物も受け取らなかったという無欲な歌姫。
周囲の民衆が微かにざわめいた。
皆が固唾をのんで見守る中で、ふと、視界に薄紅色の髪が流れた。
大貴族の姫君よりも優雅にドレスの裾をひき、恭しく頭を垂れる歌姫。
王妃への戴冠そのままの手順で、俺は厳かに彼女の頭に花冠を載せ――――――……
顔を上げた彼女の表には、溢れ出るほどの幸福感があった。
頬に血がのぼる。俺は、今までこれほど美しい微笑を見たことがない。
これほど幸せそうな微笑を見たことがない。
民衆が歓声を上げる。けれどそんなものはどうでもいい。
今、目の前で花の様な彼女が笑っている、それだけでどこまでも幸せになれた。
俺は、確かに幸せだった。幸せな道化、幸せな愚者だった。
三日後。
ほとんど眠れぬまま迎えた春祭り最後の日、淡い蒼穹の下、俺は再びあの道化の祝辞を言祝ぐこととなる。
「歌姫フレイア。この北の果てに咲いた至上の花よ!
春の女神の祝福が貴女の上にあらんことを。」
その時、道化の男は赤金の瞳の王として。
差し出される黄金の花飾りは王宮への招待状として。
真紅の玉座。そのすぐ傍ら、侍る藍色に、花冠を贈る約束をしていたと思い出したのは、もう春の花も摘まれつくした様な後だった。