【夏の愚者】-3 幸せな愚者
城に帰りつくなり、藍色の少女――――イルヴァを自分の側仕えとするように要求した俺に、さすがに国王や大臣らは困惑した。まあ、当たり前だろう。
それでも、俺が頑なに自分の言を曲げなかったこと、事のいきさつやイルヴァのか弱げな容姿――――何より世継ぎの王子が再び失踪してしまう事を恐れたお歴々の説得により、藍色の少女イルヴァは俺の側仕えとして迎え入れられることとなった。
単なる侍女でなく側仕えとしたのは、単純に“王子”たる俺に近ければ近いほど安全が保障されるだろうと考えた結果だった。だが、イルヴァはその実俺の予想をはるかにこえて優秀な側近だった。
宮廷作法や国の歴史、地理、兵法、周辺諸国の言語、王家と貴族の系譜、紋章学の基本、国際情勢、面倒な儀礼講義、学術講義、果ては剣の鍛錬まで。
イルヴァは、俺が向かう場所ならば、行うことならば、どのようなものにでもついてきた。
今まで同じ年ごろの学友を持たなかった俺はそれが異様に嬉しくて、楽しくて、結果どこへいくにもイルヴァ、イルヴァ、と藍色の少女を連れて歩くこととなった。
そうして、そう時間がたたないうちに少女――――イルヴァは、俺に最も近しい存在となった。
面倒臭い儀礼の話、父王陛下の愚痴にみせかけた尊崇の念、離宮の料理人の作る美味しいおやつの話、宴席での異国の客人の話―――いずれ王となる苦悩の断片。
俺が王子などではないという一つを除き、なんでも話した。冬の長い国で、王城自慢の常に花の咲き乱れる庭で。
「――――アル、アルはいずれこの国の王さまになるのでしょう?」
「ああ、なる。
なりたい。大事なものを全て守れる、正しき道をゆく、賢い王に。」
「ええ。……あなたなら、なれる。絶対、なれます。
アル。わたしの王さま。」
微笑む少女に、あの日、雪の原で見た憂いはもはやなかった。
そっと、約束するように今度は自分から俺の手を取った白い手は、ほんのりと柔らかく温かかった。
幸せだった。
だから、俺は信じたのだ。俺は正しかったと。
イルヴァの村を滅ぼしたのは、確かに過ちだった。俺は愚かな子供だった。
けれど―――――あの時、イルヴァの手を引いた事だけは間違ってはいなかったのだと!
「わたしの王さま」、そうはにかみながらも嬉しそうに微笑む藍色の少女に、俺は己の出自の不義を悩むことをやめた。
俺は愚かだった。俺は王の血を引いてはいなかった。
けれど、愚かならば賢くなれば良いことだ。不義の子であるというのなら、誰もそのような事に気付かないほど英邁な世継ぎ、君主になれば良いことだ!
イルヴァを、そしてこの国を守れるほどの、ノルヴィークの始祖に並ぶほどの賢王に!!
そのために、俺は必死に賢人の教えを乞うた。箴言を紐説いた。
曰く。「愚者は明日行い、凡人は今日行い、賢者はすでに終えている。」
曰く。「愚者は原因を裁き、賢者は原因を討議する。」
曰く、曰く、曰く……
そして
『 愚者は己が愚者であると知らず。己が愚かであると知る者は賢者である。 』
巡り合ったこの箴言をどれほど痛切に胸に刻んだか。己に言い聞かせたか。
それに慰めを見出した点で、己は変わらず愚か者であったけれど。
そして、ある日父王の元側近――――俺の家庭教師は、言った。
「 愚者は全てを鵜呑みにする。
けれど、賢者は全てを疑うものです。 」
“何故”、その言葉がなければ、全ての真理は見えてこない。
そう、もっともらしく言った男に、俺はすんなり頷いた。
誰をも疑え、そうだ。その事ももうとっくに知っている。
兄弟のように育った男さえ、思いやった妻さえ信じるに足りないということを、証明しているのが正に不義の子である俺の存在だったのだから。
母の命日、花の咲き乱れる庭園で零した俺の涙を、イルヴァは何も言わずぬぐってくれた。
彼女が哀しみの雫だと思っただろうそれは変わらぬ怒りによるものだったが、それでも良いと思えた。
イルヴァを守る、この庭園を守る、この国を守る――――全てを叶える、賢き者となる。
けれど、そんな夢想が現実に叶うわけがない。
俺は変わらず愚かなままである、そう気付いたのは、やはり全てが手遅れになってしまってからだった。