【春の女】-11 懇願
南、西、東。主だった国は全て滅びた。
どれほどの兵が、人々が死んだのかなど知らない。流石に兵達も疲弊しきっているようだ、と難しい顔のヴィートも知らない。不安しか囀らない侍女達など知らない。
南、西、東。主だった国は全て滅びた。
彼女は、やり遂げたのだ、王のために。けれど。
「っけふ…、か、は……ッ!!」
―――――けれど、結局この大陸のどこにもわたしの病を治す術はなく。
豊穣のエルス、聖都ラヴェスタ、豪放たるオースティン。
その全ての滅亡に、死んでいった人々に、結局意味はなかった。
「フレイア…!!」
血反吐のように赤い髪の男がわたしの名を呼ぶ。
北の大国の王、そして今やこの大陸全ての主、絶対の王、全能であるはずの王。
それでも、彼がわたしの名を呼ぶだけではわたしの病は止まらない。身体の肉は削げ落ち、熱はこもり、息をするのはとんでもない苦行になり果てた。
「フレイア…」
そして、アルヴィドの狂気も止まらない。嗚呼、思い出すのは歌声の代わりに鮮血を吐き出したあの日の、絶望に見開かれた瞳。相変わらずわたしに触れることはなく、それでも痛々しげにすがめる赤金の眼差し。
死にゆく身体で、それでもわたしが思うのは、ただ一人のことだった。
「……っ、
雪、は……まだでしょうか…?」
無様に掠れる声で、それでも久しぶりに発した言葉らしい言葉に、アルヴィドは目を見開いた。
「いや。―――いや、だが、すぐだ。
大気が冷たい。今日か明日には、必ず雪は降るだろう。
……雪が、好きなのか?」
必死に言葉を継ぐ王に、わたしは瞼を半ば閉じて答える。
「ええ……とても、綺麗ですもの。」
清冽な冷たさも、世界の全てを染め上げる純潔の色も。
手のひらに落ちれば萎れる花弁とは裏腹の、落ちれば透明に溶け消える潔さも。
あの人の眼差しにも似た静謐な大気も、とても綺麗。
「雪が…見たいな…。」
ぽつり、零れただけの言葉に応えが返る。
「見れるさ、すぐにでも。
その先、春の花が咲き乱れるのだって、すぐだ。」
強烈な願望をはらんだ声に、わたしはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、春は見れなくて良いのです。
…ただ、雪が見れれば良い。」
忌まわしい春など見たくない。何より、それまで身体がもつはずがないことを、自分が一番よく知っている。
「フレイア……」
何度目か、わたしの名を呼んだ男は、数秒の沈黙の後――――ふと、唇を引き結ぶと穏やかな声で言った。
「――――――お前が“一番欲しいモノ”は、その手に掴めたか?」
いつかの日の言葉。熱に魘された頭では、それがいつの日の事であったかまでは思いだせないが。
……いいや。そう、そうだ、あの日は、イルヴァ様もいて。けれど、ヴィートと共に控えの間にいってしまって。
――――…そうだ。
「―――――――いいえ。
けれど、ひとつ、お願いがあります…陛下。」
「叶えよう。言うがいい。」
即答する声に微笑をもらし、わたしは鈍痛を抱える頭で必死に続けた。
「わたしに…付けてくださった、白銀の鎧の、兵士……
彼は、わたしに、本当によくしてくれました…
これ以上、こんな病身の元に引きとめておくのは、忍びないのです。」
ヴィート。白銀の兵士。
最後まで、彼はわたしの外見や声に惑うことはなく、故にわたしが彼に嫌悪感を催すことはなかった。
常にわたしの傍にあった、白。
「彼は、ただ臥せる事しかできないわたしとは違います。」
懇願を込めて見つめれば、アルヴィドは確かに首を縦に振った。
「叶えよう、フレイア。お前の望みは、私が叶えうる限り全て――――…」
「ありがとう、ございます…」
ほぅ、とわたしは吐息を吐きだした。
たった数片の会話。けれど、こんなにも声を出すのは―――こんなにも声が続くのは久方ぶりだ。
珍しく発作が起こる様子がないことに、アルヴィドも気付いたのだろう。
それまでひたすらわたしに向けていた眼差しを、ふと、硝子一枚へだてた庭園へと移した。
遠い眼差し。触れがたい横顔。
現世の苦悩から逃れるような眼差しで、かつて彼は続けたものだ。
『 歌ってくれ、フレイア 』
と。
「………。」
―――――わたしは細く息を吸った。喉に手をやる。意味ある詩など紡ぎきれないことは分かり切っている。だから、わたしが発したのはただ“La”の一音だけだった。
響いた高音に、瞬時にアルヴィドの眼がわたしに引き戻される。
咎めるように開いた口は、しかし言葉を発することはなく。
わたしは、ただ旋律を紡ぐ。言葉などなくとも、声と意志があれば歌は成立する。
歌。歌。歌。
カティアがくれたわたしの慰め。
わたしの選んだわたしの寄る辺。
“歌姫”フレイア、それが彼女の知るわたしの全て。
小鳥の歌も、旅の歌も、別れの歌も、とっくに歌えなくなっていた。
ただ、この胸を占めるのは愛の歌。
(――――――会いたい。)
あの藍色の姿を一目見たい。
あの藍色の眼差しに見つめられたい。
一言、あの透明な声がわたしの名を呼ぶのを聴きたい。
正反対の赤金の色を眼前に、わたしはただ思っていた。
一目。一目。
それまでは死ねない、なんとしてでも。
「……ッ!!」
喉の奥が焼ける。血の匂いが肺にわだかまる。それでも。
この鼓動を止めてなるものか!!
…――――――歌が掠れ、止まる。
心臓をきつく握りしめ、耐える。瞑目し、荒れる吐息と不規則な鼓動を宥めすかし、どれくらいたっただろう。わたしが再び眼を開けると、そこにはもう赤い男の姿はなかった。
代わりに、いつの間にか佇んでいたのは白銀の兵士。
王宮内の儀礼用ではない長刀を刷き、近衛隊の徽章をマント留めに刻んだその姿。
別れの言葉などありはしなかった。
最後にヴィートが告げたのは、ただ一言。
「明日、凱旋将軍としてイルヴァ様が王都に帰還する。」
それで、十分。
(―――――嗚呼。)
弱々しかったはずの鼓動が、どくん、と一際強く脈打った。
唇が笑みの形を刻むのがわかる。死にぞこないの身体に灯る恋情の熱。
きん、と澄んだ冬の気配を引き連れて。
愛しい藍色がついに、帰ってくる。
それぞれの懇願。