【春の女】-2 唄歌いカティア
飢えることもなく上等な衣を纏い微笑む日々。
――――――必死で吐き気をこらえる、そんな日々に唯一わたしを救ってくれたのは、わたしより八つほど年上の少女の存在だった。
麦の色をした髪に、りんごのような頬。
決して器量はよくないが、闊達で明るい女の子。
娼館付きの医師であった母と共に居着き、そしてその母が死に身寄りがなくなったその子は娼館の雑用係兼わたしの守り役となった。
わたしを育てた、姉のような、母のような存在。
カティア。歌の上手い、歌を愛する少女だった。
手首に巻き付けた金色の小さな鐘は流浪の民である彼女の血族に伝わるもの。ぐずった時もわたしはその音色をきけば機嫌を直したし、彼女が歌い踊るときに鳴らすその鐘の陽気さは本当にわたしを元気づけた。
――――あの強欲な娼館の主が彼女に娼婦の役を割り振らなかったのは、その身体に流浪民として追われた傷が残っている所為だと、女達の陰口から漏れ聞いた。
けれどそんなことはどうでもいい。
大好きなカティア。優しい優しいカティア。
たまにお菓子をくすねてくれる、歌と踊りがとても上手な、でも叱る時はとっても恐い、わたしのカティア。
泣けば頬をぬぐってくれ、不安になれば抱きしめてくれた。母に抱かれたことのないわたしは彼女に、抱きしめられることの柔らかさと温もりを教えられた。そして、歌の優しさも。
彼女のようになりたくて、彼女のように歌いたくて、わたしは歌を覚えた。
眠れない子をあやす歌、柵に入らない羊を追う歌、旅の空に自身を励ます歌、ひたすら陽気に踊るための歌、そして哀しい別れの歌。
すぐにわたしはどんな歌も歌えるようになったけれど、たったひとつ、どうしても“愛の歌”だけは歌えなかった。
春に花開く乙女の恋の歌。貴方が恋しい、愛しい、と切なさと幸福感に満たされて歌う歌。
わたしには歌えなかった。
この徒花の咲き乱れる庭では、愛など汚らわしいものにしか思えなかった。
――――わたしには、ただ彼女が大切だという気持ちだけで十分だったのだ。
「小鳥がね、何故鳴くか知っている?」
ある日、わたしの髪を機嫌よく梳かしながら、彼女は言った。
「あなたが好きよ、って鳴いてるのよ。」
わたしは目線だけで鳥籠を見た。わたしたち以外誰もいないテラスには、娼婦の誰かが気紛れで飼い始めた小鳥の鳥籠は置き去りになっていた。
虚空に向かって、それでも澄んだ声で囀る小鳥。その侘しい姿に眉を寄せたわたしに気付いたのか、彼女はふとわたしの耳元に唇を寄せると、囁いた。
「それからね、“自分はここにいる”、って鳴いているのよ。」
今でも覚えている、真剣な声。
思えば、彼女ら流浪の民が、そして彼女が歌と舞踊を殊更好むのは、そのためなのかもしれない。
土地も持たず、家ももたず、明日も知れず、それでも歌う。
わたしたちは此処にいる!と。
その日彼女が教えてくれたことは、わたしの心の宝箱に大切に仕舞われた。
ただ彼女の真似をしたがっていただけのわたしが歌い続けようと決めたのは、その時だ。
歌う、歌い続ける。わたしは此処にいると高らかに。
なにより、自分のために。
歌が誰かの慰めになることは、よく知っている。わたしは彼女の歌に随分救われたから。
けれど、わたしの歌は自分のためのものだった。例え誰かに歌うとしても、それはカティアのためだけだった。
勝手に漏れ聴いた人がわたしの歌声を褒めちぎろうと、わたしはただ曖昧に微笑するだけだった。
そしてカティアを失ってからは、わたしは本当に“誰かのために歌う”ということを忘れた。
彼女を失わせたのは、わたしの傲慢。わたしの幼稚さ。
――――――林檎の木の枝の上で歌っていた彼女。
いつになく美しい、嬉しげな、そしてどこか切ない歌声。
彼女を探していたわたしは、そして見た。彼女の手の中にある花冠。
庭園に咲き乱れる薔薇ではなく、野に咲く目立たないが愛らしい白と紅の花で編まれたそれ。
誰かからの贈り物だろうということはすぐ知れた。勿論、気取った娼館の客が持ってきたものであるわけもない。素朴だが美しいそれは彼女になによりも似合うだろうと思われた。
わたしは、彼女の手からそれを叩き落としたかった。
今になれば分かる。それは幼稚で醜い嫉妬であったのだと。
わたしの母、わたしの姉、わたしの家族、わたしのカティア!!
わたしには彼女だけだったのに、彼女がわたしの全てだったのに。
彼女には、わたしが全てではなかったのだ!
だって、見たことがなかった。あんな夢見るような眼差し、物憂げな溜息。
わたしに見せるはずもなかった。恋する乙女の表情。それは確かに美しく、同時にわたしの嫌悪を煽ってやまないものだった。
幼く愚かな自分には理解できない衝動のまま、カティアが危ないと止めるのも聞かずわたしは林檎の木をよじ登った。彼女に近づきたかった。自分の手で触れられる存在だと、遥か遠い存在ではないと確かめさせて欲しかった。
その花冠を叩き落としたかった。
―――――――柔らかく弱い髪が枝に絡み、伸びきらぬ手足がバランスを崩し。
結果、叩き落とされたのはわたしの身体だった。
ああ、あれほど危ないからダメ、とカティアが必死に叫んでいたのに。
落ちる刹那に見たのは、必死に手を伸ばすカティア、放り投げられ墜ちる花冠。
わたしは覚えている。その刹那、確かに自分が微笑ったことを。
…――――――わたしが目を覚ましたのは、なんとそれから三日がたってからだった。
春の若草がわたしを救った。頭部に負った傷は、髪に隠れてまったく見えない。
よかったと―――見える位置に傷がつかないで本当に良かったと―――泣く娼館の主に、わたしはカティアはどこかと尋ねた。
いつも目を覚ませばいるはずの彼女が、いない。これは相当怒っているのだろうか。前に彼女の一張羅を香水まみれにしてしまった時は、丸一日口をきいてくれなかった。
これから受けねばならない無言の怒りに思わずクッションを抱きしめたわたしに、主は不機嫌そうに言い捨てた。
『ああ、あの流浪民か。まったく、女として役立ちもしないのを温情で雇ってやれば、幼子の世話もできない役立たず。野蛮人の血統め!フレイアに万一のことがあったら縊り殺していたところだ!!
結局、売り払ったところで碌なものにはならなかったしな。 』
卓に乗せられた小さな小さな革袋を弄う。
ジャラリ、軽薄な音。ちっぽけで冷たい革袋。
いくら幼いわたしでも、悟らざるを得なかった。
あの、優しい彼女が。明るい彼女が。温かい彼女が。
そんな、そんなちっぽけで冷たいものになり替わってしまったのか!!
自分の引き起こした取り返しのつかない現実に、わたしは泣くことも忘れてただ呆然とし
ていた。