【冬の娘】-9 初雪と断絶
ふと、眼を覚ました。
窓の外は奇妙に薄暗い。未明――――にしては、仄明るいのだ。
二度目の瞬きで、私は薄闇にちらちらと降る白い輝きに気付いた。
雪だ。今年初めての、雪。
例年よりは幾分遅い。けれど。
( ついに―――――… )
人々は、知るだろう。本格的な冬の訪れを。
そして何よりそれを恐れていた彼は――――――
「イルヴァ。」
小さな声に、私は跳ね起きた。
幻聴だと思うわけもない。扉越しの囁きだろうと、私が彼の声を違えるものか!
「アル!?」
履物に足をつっこむことすらせず、裸足のまま扉へ駆け寄る。口から漏れ出たのは、本当に久しぶりの彼の愛称。幼いころは、私にだけ許されていた呼び名。
重いオーク樫の扉を開ければ、そこにはたして赤い色彩がいた。
暗がりに沈み込むような朱色の髪。常に強い光を放っていた赤金の瞳は、今は俯きまるで今にも消えそうな蝋燭の灯りのようにゆらめいている。
父王の崩御の際にも見せたことのない憔悴しきった様子。
「アル、どうぞ、中へ。」
今日は冷えます、という言葉を飲み込んで、私は彼を部屋の中へいざなった。
彼も私も、薄い夜着のままだ。
暖炉へ火を灯そうと彼に背を向けたのを遮るように、彼は再び
「イルヴァ」
と私の名を呼んだ。
なんの感情もこもらない、どんな声をあげていいのかわからない、泣けない子供の声。
「はい、アル。私はここに。」
ここにいます、あなたの傍に。あなたの手の届く傍に!
私は彼に寄り添うと、柔らかな長椅子へ腰かけさせた。長身が沈み込む。頭ひとつ分あいてしまった身長も、座れば少しは差が縮まる。できたら、心の距離も縮まってほしい。
しばらくは無言が続いた。
身を切るような冷えた静謐。はらはら降る初雪の音すらきこえるような静寂の中で、私が微かに震えた時。
「フレイアに、会ったそうだな…」
口に出された名に、私は小さく頷く。動揺などない。はじめから分かっていたことだ。
「はい。」
「あれは、なんと。」
「――――“今もわたしがあるのは陛下のおかげです”、と。」
自分の死期をはっきりと悟っていた歌姫。
その言を、私は曲解して伝えた。
私が口にしたいのは真実ではなく、彼の為の言葉だった。
彼は吐息を抑えるように唇を噛んだ。
赤金の瞳が瞼に隠される。
狂気も、焦燥も、一時隠される。それでもその胸の内で渦巻いているだろう苦悩を鎮めたくて、私は続けた。
「………変わりませんね。
彼女は――――変わらず、美しいのですね。」
ぽつり、と。
今度は本心からの言葉だった。病に苦しみ、痩せ衰え、けれど確かに彼女は美しい。
その言葉に、彼は眼を開いた。
ふ、と淡く笑う。たとえ少し苦しげでも、哀しみをたたえていても、それは久方ぶりの穏やかな―――――私に向けられた笑顔だった。
「アル……」
痩せて鋭さを増した貌を見上げる。冷えきった部屋の中。
今なら、今なら彼の手を取ることもできるかもしれない。かつて彼が私に差し出してくれたようには温かくはなくとも、それでも―――――…
「 歌ってくれ、イルヴァ。 」
しかしそんな穏やかな空気も、次に彼の発した言葉によって砕け散った。
身体が凍りつくのが分かる。
「……ア、ル」
「歌ってくれないか?イルヴァ。」
変わらず穏やかな声。愛しい愛しい声。それが、胸に突き刺さるほど痛い。
辛い。
苦しい。
「でき…ません……」
そう答えることしかできないことが。
「イルヴァ?」
尋常でない私の様子に気づいたのか、彼が困惑の声をあげる。
初めての拒絶。彼と出会って十年間。初めて、彼の要求に応えられない。
「歌え、ません……私、わたし、は……」
だって、私は魔女なのです。忌まわしい言霊使いなのです!
ただの人でさえ人の心を揺り動かすことのできる“歌”。そんなものを言霊の魔女たる私が歌ってしまえば、どうなることでしょう。
それは絶対の禁忌。純血の異形たる父祖すら怖れた絶対の理。
歌えない、歌ってはならない、魔女はあなたの心を慰めることすらできない。
「ごめん、なさい……!」
「イルヴァ。」
聞き苦しく掠れた声を遮ったのは、私の名だった。
続く、嘆息。
「もういい。」
そして、息の根を止めるような一言。
冷たく硬質な狂王の声。寒々しいこの部屋よりも冷えた、私をあの雪の原に放り出す声。
「ッ、陛下!!」
彼が立ち上がり、背を向ける。私は動くこともできず、掠れた声は叫びにもならない。
「陛下、アルヴィド、待って……っ
―――――ッ『アル』!!」
言葉は、重たい扉に遮られ、消えた。