透明な結婚
貴方のことを愛していました。
嘘じゃありません。
たしかに私には、后として、貴方を愛さなければならないという義務がありました。
けれど義務などなくとも、私は貴方を愛したでしょう。
この愛は、本物でした。
いつも貴方を想っていました。
ずっと好きでした。
心から愛していました。
貴方が私のことを愛することはないとわかっていたけど、それでも、愛していました。
□□□□□
私は誰のことも愛しちゃいけなかった。
だって、わたしは王女だったから。
国中の人を平等に愛さなくちゃいけなかった。博愛の精神を持っていなくちゃならなかった。
そして同時に、誰のことも信じてはいけなかった。
国を、民を、守るために。
私は、すべてを疑わなければならなかった。
常に警戒して、どんな称賛もお世辞として聞き流して、操り人形にされないように、手玉にとられてしまわないように気を張っていた。
私の軽率な一言で、
振る舞いで、どれだけ多くの人に不幸がふりかかるのかわからなかったから。
□
私の母は、后妃は、政敵が差し向けた吟遊詩人にまんまと踊らされて、身を滅ぼした。
不貞を働き、浪費の限りを尽くし、使用人をつまらない理由で折檻し、娘の私を政敵と繋がりのある隣国へと嫁がせようとした。
間一髪のところで、政敵の目論見が露見し、婚約は白紙に戻されたが、政敵はもちろん母も厳しい処分を受けた。
政敵であった侯爵家の目論見は、王家と隣国との関係を深めさせたうえで謀反を起こすことだった。
侯爵家と繋がりのあった隣国は領土の一部を得る代わりにその謀反に協力する手はずだったらしい。
侯爵家は取り潰され、一族郎党一人残らず処刑された。
何も知らない赤子も、召し抱えられたばかりの下僕にいたるまで、全員。
隣国とは国交が断絶し、母の生家であった公爵家は最下級である男爵まで爵位を落とされた。
母は后妃と言う身分こそ剥奪されなかったものの、自室に幽閉され、二度と人と話すことを許されなかった。
窓は漆喰で埋められ、扉は固く施錠された。
日に二度の食事さえ、扉の隙間から無言のまま供されるのみだった。
ほどなく母は首を吊った。
光の無い部屋で、一人きりで。
母は最期に手紙を残していた。
それは夫である国王へ向けたものでも、一人娘である私に向けられたものでもなかった。
手紙は吟遊詩人にあてられたものだった。
母が人生の終わりに想ったのは、自分を誑かし、地獄へ突き落した男だった。
『全部嘘だったの?
それでもいいわ。
嘘でも、あなたに愛されていたあのとき、わたし、幸せだったもの
長い人生のなかで、あのときだけが、
わたしにとって、真実だったわ』
しかし母が残したその手紙が、吟遊詩人に届くことはなかった。
吟遊詩人は、母の知らぬところですでに殺されていたから。
国王自らの手で、最も残忍な方法で処刑され、骸は犬の餌とされていたから。
そして手紙が届いたところで、吟遊詩人はそれを、きっと読みもせず破り捨てだろう。
私は父の命令で、彼が死にゆく様をずっと見ていたから。
彼は鞭打たれ、皮膚のほとんどなくなった顔を精一杯歪ませながら叫んでいた。
やりたくてやったわけじゃない、と。
おれは脅迫されて、やむなくああしたのだ、と。
あんな女のこと、好きでもなんでもないのだ、と。
愛などどこにもなかった、と。
私はそれを聞いて、かわいそうだな、と思った。
母にも、侯爵家にも、同情の余地はなかった。
母は享楽に溺れ、侯爵は欲望に飲まれた結果の惨劇だった。
自業自得だ。
自ら招いた惨劇だ。
けれど彼らに振り回されて命や立場を失った人たちはどうだろうか。
吟遊詩人は本当に侯爵家に脅されて母を口説いたのかもしれない。
母の軽率な行いがなければ、公爵家が落ちぶれることはなく、財産の多くを失ったり、勤めていたたくさんの使用人がクビにされることもなかった。
侯爵家が王家にとって代わろうなどという分不相応な野望を抱かなければ、使用人が主人の巻き添えをくって処刑されることも、罪のない赤子まで首を落とされることはなかったはずだ。
母は自身の身勝手で多くの人を不幸にした。
あってはならないことだった。
王家には国を繫栄させる責務がある。
民を守る義務がある。
それなのに母は、身勝手に愛を求め、身を滅ぼした。
多くの人びとの命と生活を道づれに。
私は母のようにはならない。
なってはいけない。
自分でもそう思ったし、国王である父にも、そう強く言い聞かせられた。
父は王として正しい人だった。
自らの后にも容赦はせず、厳罰を与えた。
対外的には病死ということにし、周辺諸国へこの騒動が知られないよう、葬儀は慣例通り盛大に執り行った。
国王の対外アピールは功を奏し、王妃と大貴族の粛清、没落という事変があってなお、近隣諸国に付け入られるようなことはなかった。
葬儀が済むとすぐに父は側妃を正妃として立て、二人の王子をもうけた。
城の裏手に建てられた母の墓は立派だったが、使用人に最低限の掃除をさせるだけで、自身が足を運ぶことは一度もなかった。
忘れ形見である私は、山脈を隔てた先にある無害な小国へと嫁がせた。
「母親のようにはなるな」
嫁ぎ行く娘に父が送った言葉はただこれだけだった。
でも、私は、こうあるべきだ、と思った。
王族に生まれたからには、常に公明正大でなくてはならない。
妻であっても、子であっても、私情を挟んではならない。
国のためになることだけを考えるべきなのだ。
私たちはわがままひとつで簡単に誰かの人生を奪えてしまうのだから。
自分のために生きてはいけないのだ。
愛など求めてはいけないのだ。
「はい。私はお母様のようにはなりません」
私もまたそうとだけ言って、遠い小国の、会ったこともない王子のもとへ嫁いでいった。
□□□
王子は素朴な人だった。
馬が好きで、暇さえあれば遠乗りに出かけるような人だった。
しょっちゅう国のあちこちへ遊覧に出かけているからか、多くの国民に親しまれ、信頼されていた。
穏やかな人柄で、面倒見が良かった。
困っている人がいれば、放っておくことは決してなかった。
畦道に後輪を落とした馬車があれば、御者と一緒になってそれを押すし、田舎の村へ慰問に出かけた時は、接待は受けずひたすら子どもたちと遊んでいた。
男の集まる酒場や、女の集まる市場へ顔を出し、彼らの不満を、情勢に対するものから夫婦の営みについてまで、真剣に耳を傾けていた。
私は彼に好感を抱いた。
彼は王子になるべくして生まれた人間だった。
国民を平等に愛し、国民にもまた愛されていた。
彼の庶民への迎合ぶりは、市井での振る舞いは、貴族としていささか目に余るものではあったが、彼は分をきちんと弁えていた。
彼はただ遊びまわっているだけでなく、遊覧で得た知見を、きちんと国営に繁栄させていた。
不作の兆しがみられる土地には早くから税の優遇措置をとり、治安の乱れが噂される地域へは演習と称して軍隊を派遣した。
また彼は外交でもその手腕を発揮していた。
小国でありながら山脈越えに不可欠な街道を持つため、諸外国との関りが非常に多かったのだが、彼は優れたバランス感覚で中立を維持していた。
もちろん彼一人の力ではなく、国王から宰相、各大臣全員が外交の重要性を理解し、力を入れていた。
どんな列強にも屈することなく、中立の立場を保ち続けること。
それが失われた瞬間この国は火の海となり滅ぶことを、誰もが理解していた。
小さいが、豊かな国だった。
素朴だが、たくましい国だった。
王子はそんな国を体現したような人物だった。
親しみやすく、有能で、誰からも愛され、尊敬されている人だった。
お手本のような王子様だった。
そんな彼の妻となった私もまた、彼と同じように、お手本のようでならなければならないと思った。
□
「この国には慣れましたか」
国境の視察を終えた、帰り路のことだった。
王子は珍しく愛馬ではなく、私と共に馬車に腰を下ろしていた。
「はい。おかげさまで、すっかり」
私はそう言って、にっこりとほほ笑んだ。
嫁いでからもう一年ほどになる。
王子はこうして視察という名目の遊覧へ、私をもう何度も連れだしていた。
おかげで私はたった一年で、国のほとんどの場所へもう足を運んでしまっていた。
正直、まだちっとも慣れてはいなかった。
王城にいる間はひっきりなしに訪れる外国からの賓客に対応しなければならなかったし、式典や国内貴族との茶会、夜会など、目の回るほど忙しい毎日だった。
「城に帰れば、また息をつく暇もなくなりますね」
そんな私の心を読んだかのように、王子は言った。
「今回も、本当はもうすこしゆっくりしたかったのですが、近頃どうも街道をゆく商隊の動きが妙で――――近く戦があるかもしれません」
私は今回視察に赴いた、国の南端を走る街道の様子を思い出した。
国の南端には深い渓谷があり、それを跨ぐ巨大な橋があった。
橋は近隣諸国にとっても交通の要所であり、軍隊による厳重な警備が敷かれている。
そこを行き交う商隊は、たしかに羽振りがよさそうだった。
特に米や麦といった食料品を運ぶものと、武器弾薬やその原料を運ぶものたちの顔つきは、みな一様に明るかった。
それらの商人の動きが活発になるということは、どこかで戦の兆しがあるということだ。
「戦、ですか……」
私は不安げに顔を曇らせてみせる。
王子は慌てて私の手をとる。
「いえ、ご心配には及びません。山向こうの話です。我が国が渦中となることは決してありませんし、そんなことにはさせません。火の粉のひとつだってここには落とさせませんよ」
「まあ、頼もしい」
私はまた笑みを浮かべる。
先ほどとは色の違う、控えめな微笑を。
「貴方がいれば、怖いことなんてなにもありませんね」
事実、私はなにも恐れていなかった。
王子の外交手腕は確かなものだ。
隣国で内乱があろうとも、複数の国を巻き込んだ大戦が起きようとも、この国はうまく中立を保ち続けるだろう。
微力ながら、私自身の働きかけもある。
いずれはこの国の后になる人間として、私は不足ない社交を行っている。
決して前にでしゃばることはなく、常に周囲を立てる。
不都合な話題はうまくかわし、陰謀渦巻く茨の舞踏会を、笑顔のままですり抜けていく。
私はいまのところうまくやっている。
人当たりはいいが、つけ入る隙のない女だというのが、現王妃含めた貴婦人たちの私に対する印象だ。
代わって民衆には、王子と回った視察を通して、控えめで影の薄い女であるという印象を付けた。
いずれは王子と同じように、民を愛し、民に愛される存在にならなければならない。
けれど、まだ尚早だ。
遠い大国から嫁いできた小娘を簡単に受け入れるほど、民衆は愚かではない。
私がどんな女であるか、称賛から罵倒まで、さまざまな流言飛語が飛び交っている。
そんな状況で愛想を振りまいても、民衆は一層警戒心を強くするだけだ。
幼少から国中を回っていた王子と違い、よそ者である私が民衆に受け入れられるには時間がかかるだろう。
私は当面の間、民に、少なくとも無害であることを示し続け明ければならない。
貴族として品格を失わない程度に倹約し、夫を立て、慈善活動に尽力する。
民の心は、そうして少しずつほぐしていかなければならない。
時間をかけて受け入れてもらったほうが、信頼は確固たるものとなるのだから。
民に認めてもらわなければ真の王妃とはいえない。
どれだけ貴族社会が頑強であろうとも、民衆の心が離れていれば、その国は簡単に瓦解してしまう。
私は真の王妃となる第一歩目として、無害な女である印象付けを成功させた。
少なくとも悪人ではないと知ってもらえた。
これは王子の人徳によるところも大きかった。
王子も私の重要性は理解しているようだった。
正しき王子であるところの彼は、私を正しく扱った。
愛すべき妻。
いずれは王妃として自分と共に国に尽くす同志。
彼が私を視察に連れ出すのは、早いうちに地盤を固めるためだ。
自分と同じ、民に愛される王妃とするためだ。
私はそれを理解していた。
だから、彼になにを言われても、なにをされても、決して浮かれたりはしなかった。
「私、この国が好きです」
私は控えめな微笑みを浮かべたまま、御者の耳にも届くように、よく通る声で言った。
「こんな素敵なところに嫁げて、本当によかったと思っています」
「……そうですか」
王子はなぜか、どこか失望したような、落ち込んだような表情を浮かべた。
「僕も、貴方のような人を后として迎えることができて、本当によかったと思っています」
胸が、ちくんと痛んだ。
私は彼がどうしてあんな表情をするのかわからなかった。
私たちは仲睦まじい夫婦を演じなければならないのに。
それじゃあまるで、苦しい嘘をついているみたいだ。
「……光栄です」
私は微笑みを崩さなかった。
控えめで、品のある、貴族として完璧な笑みだ。
けれどそれを見て、彼の表情はますます歪んでいった。
「僕らの結婚に僕らの意志はありませんが、僕は、相手が貴方で、本当によかったと思っています」
彼はそう繰り返し、私の手を離した。
私は彼の後ろにある、馬車の小窓に視線を送った。
御者はまっすぐ前を向いていたが、右耳がわずかに小窓の方へ向けられていた。
やはり、聞いているのだ。
いまの会話を聞いただけなら、私たちのことを仲睦まじい若夫婦だと思うだろう。
まだ気まずさと気恥ずかしさのある、初々しい二人に。
「嬉しいです」
私は視線を足元に落として言った。
「私たち、同じ気持ちですね」
私には王子の意図がちゃんとわかっていた。
王侯貴族がふだんどんな生活をしていて、どんな人柄をしているのか。
そういった噂話の発端は私たちに仕える使用人であることがほとんどだ。
裏を返せば、彼らに見せたい姿を見せれば、それが事実として流布することになる。
王子は私とのやりとりを御者に聞かせることで、私たちの関係が良好であることを広めようとしているのだ。
私は視線を足元から王子に戻した。
王子は相変わらず、苦しそうな表情をしていた。
とても妻に愛を謳われた男のする表情ではなかった。
胸がまた、ちくんと痛んだ。
御者に表情は見えていない。
だから彼がどんな表情をしていても、関係ないのだ。
会話の内容さえ、声色さえ台本通りであれば、なにも問題はないのだ。
沈黙が降りた。
この沈黙を、御者はどう捉えるだろうか。
きっと彼の頭の中で、私たちは黙って見つめ合っていることだろう。
熱い視線を交わし、手を取りあっていることだろう。
けれど現実私たちは違う。
最低限の睦言を済ませて、ほっと息をついている。
彼が嘘をついていることは、彼の顔を見ている私にだけわかる。
彼は、私を愛していないのだ。
今日初めて知ったことではない。
私は息を止めて、胸の痛みを誤魔化した。
彼は王子として正しい。
私たちは一国を預かる身として、正しくあらねばならない。
彼の言葉は、振る舞いは、私ではなく妃へと送られているものだ。
そしてそれは私も同じだった。
私は妃として、彼を、王子を愛さなければならない。
私たちはただ義務をこなしているに過ぎない。
責務として互いを愛し、仲の良い夫婦を演じている。
わかっている。
わかっているのに、私はそれが時折、ひどく苦しくなる。
彼が不意にのぞかせる疲れに、悲しみに、胸が張り裂けそうになってしまう。
彼は私を愛していない。
でも、私は、彼を愛していた。
彼は本当にいい人だった。
優しくて、思いやりがあって、笑った顔が子供のように無邪気で。
尊敬は、敬愛は、あっという間に恋慕へと変わっていた。
演技なんてする必要はなかった。
すべて本心だったから。
私は彼と違って、心から彼を愛していたから。
私から彼に送る言葉はすべて本物だった。
だからこそ、彼から返事が嘘であることが、苦しくて、辛かった。
でも、私は愛を求めてはいけない。
私は王女だ。
愛欲に溺れることなどあってはならない。
母のように、罪のない人々の人生を奪ってはならないのだ。
私はただ王女として、自分の役割を果たすだけだ。
私は顔をあげた。
王子と目が合った。
彼の表情は穏やかだったが、その瞳には、諦めの色が浮かんでいた。
ごめんなさい。
私は心の中で謝罪する。
愛せるような女じゃなくてごめんなさい。
でも私、せめて、貴方の負担にはならないようにします。
妃としての役割を、きっと全うしてみせます。
私は窓の外を見た。
遠くに、雪の冠をはいた山々が見えた。
「きれいですね」
私は窓の外を眺めたまま言った。
「ええ。とても」
王子は静かな声で答えた。
「貴方はいつも、遠くを見ていますね」
「そうでしょうか?」
「ご自分では、お気づきじゃありませんでしたか?」
「はい、ちっとも」
「そうですか。でも、見ていますよ。――――貴方の目は、いつもどこか遠くに向けられています」
そう言う彼は、いまどこに視線を向けているだろう。
きっと足元を見つめたままだろう。
私は怖くて、彼の方を見ることができなかった。
□□□
隣国から婚姻の申し出があったのは、私が嫁いで二度目の秋のことだった。
懸念していた通り、今年に入ってから周辺諸国で小競り合いが頻発し、いつ戦争が起きてもおかしくない状態となった。
私たちの国はどうにか中立の立場を維持していたが、それもかなり綱渡りの状態にあった。
各国に跨る山脈越えに欠かせない街道を持つ私たちの国との関係を、どの国も躍起になって深めようとしていた。
あるいは敵対する国を倒すために、まず私たちの国を占領しようとする動きさえあった。
私たち国の軍隊はよく訓練されていたが、小国故に、その規模は近隣諸国の一師団程度でしかない。
本気で攻め込まれたらひとたまりもないのだろう。
街道が使えなくなれば、多くの国で流通不全が起こる。
それを避けるために、私たちの国は暗黙上の非武装とされていたが、もはやそれも風前の灯となっていた。
私たちの国の安全を保証してくれるものはなにもない。
私たちは怯えていた。
状況は逼迫している。
私たちの享受する平和は、いつ瓦解してもおかしくない。
迫り来る軍靴に、王侯貴族も、民衆も、ただ祈ることしかできなかった。
そんな折だった。
ある大国から、婚姻による同盟が持ちかけられたのは。
□
それは大陸で最も大きな帝国からの申し入れだった。
帝国は大陸の中では辺境に位置するこの南部諸国の小競り合いを止めたいと考えていた。
この山脈では大量の鉱物が採掘されている。
帝国は戦争によりその産出が滞ることを望まなかった。
しかし彼らはまた別の大陸にある戦争状態にあり、この南部諸国を制服する余力はなかった。
彼らは南部諸国のうち一国を自分たちの傀儡とする事で、戦争を止めようとしていた。
そしてその一国に選ばれたのが、私たちの国だった。
帝国の提示した条件はこうだった。
こちらの姫を王子と結婚させること。
その後王は退位し王子を新王として、姫を王妃として据えること。
現在王子と婚姻関係にある妃は離縁させるか、或いは側妃へ降ろすこと。
これら条件を受け入れるのであれば、両国の間に同盟が結ばれ、帝国は私たちの国へ軍隊の派遣、軍事的支援を行うという。
渡りに船だった。
拒否する理由はなかった。
長期的には帝国の支配を受けることになってしまうかもしれない。
扱いもほとんど属国となるが、帝国が今後大陸の支配を進めていくであろうことは火を見るよりも明らかだった。
であれば、今から関係を深めておいて損はない。
いざ帝国の侵攻が始まった折にも、同盟国として侵略の対象にはならないかもしれない。
最悪国としては解体されても、属州として自治を認められるかもしれない。
国はなくなっても、民の生活は守られ、王侯貴族の地位もある程度保証されるだろう。
なにより目下悩みの種である近隣諸国から身を守ることができる。
断る理由はなかった。
私もまた大国の姫だったが、帝国の国力の足元にも及ばず、なにより今日に至るまで窮地に立たされたこの国に援助の申し出ひとつない。
無視を決め込み、完全に沈黙している。
そんな国の姫を正妃に置いておいたところで、なんの特にもならない。
国王たちは形だけの審議を行い、帝国の申し出を受け入れることに決めた。
賢明な判断だった。
私も、覚悟はできていた。
「絶対に受け入れられません」
しかし、王子はそれを拒否した。
「彼女を離縁など絶対に致しません。側妃に下ろすこともです。私は彼女以外の女性を娶る気は一切ありません」
国王や大臣が居並ぶ議場で、王子はそう宣言した。
場は騒然とした。
誰も予想していなかったのだ。
優れた外交手段を持つ、聡明な王子が、こんなわがまま言い出すとは。
「帝国の助けなくして、どうやって国を守るつもりだ」
国王からの問いに、王子は毅然として答えた。
「帝国と婚姻以外の方法で同盟を結びます。できなければ、近隣諸国に和平の調停を呼びかけます」
「綺麗事を。帝国が我々のような小国からの交渉に応じると思うか?あちらから申し出があった時点で、同盟はもう結ばれたも同然なんだ。我々にはじめから選択肢などなかったのだ」
「やってみなければわかりません」
「青二才め。お前をそんな日和見主義に育てた覚えはないぞ。和平の調停だってもう何度行ったかわからないが、ほとんど門前払いじゃないか」
「まだ八回行っただけです。九回目はうまくいくかもしれません」
「九回目がダメな十回目か?馬鹿馬鹿しい。今度こそ返事として砲弾が返ってくるぞ」
その通りだ。
私は王子の隣で、硬直したまま成り行きを見守っていた。
私は当事者だけど、口を挟む権利はないから。
「――――そなたはどう考えている」
そう思った矢先に、国王は矛先を私へ変えた。
王子相手では埒が明かないと思ったのだろう。
私は狼狽した。
けれど表情には出さず、悠然と、頭を垂れて答えた。
「ご随意に」
「そなたの意見を聞いているのだ」
「私は国の繁栄と民の幸福願っています」
「その結果、側妃に落ちようとも?」
「それで国の平和が保たれるのであれば」
私は頭を垂れたまま即答した。
穏やかな、けれどはっきりとした声色で。
「側妃どころか、后の座を失ってしまうかもしれないのよ」
国王に続いて、王妃が問うた。
かまいません、と私は答えようとした。
「認められません!」
けれど私が口を開く前に、王子が声を荒げた。
「彼女が后を辞する必要はありません。誰がなんといおうと、私の伴侶は彼女ただ一人だけです!」
穏健な王子から発せられたとは思えない、怒りのこもった声だった。
議場は静まり返った。
国王と王妃は絶句し、大臣たちは困惑した目線を交わし合った。
「議論の余地はありません。――――失礼します!」
王子は私の手をとり、議場の外へ連れ出した。
「すみませんでした」
二人きりになるなり、王子はひどく弱りきった声で言った。
「どうか許してください。みな、侵攻に怯えているのです。父も母も、大臣たちも、気が動転して、あのようなめちゃくちゃな条件を飲もうとしているのです。ですが、僕は、貴方に犠牲を強いるつもりは毛頭ありません。安心してください。貴方のことは、私が、命に代えても守ります」
私は彼の意図をすぐに理解することができなかった。
どうして条件を飲まないのだろう。
どうして私を庇うような振る舞いをするんだろう。
これではまるで、私を手離しがたいと思っているみたいじゃないか。
私を、愛しているみたいじゃないか。
「――――なんて、ありえませんね」
つい漏れてしまった私の呟きを聞いて、王子は首を傾げた。
「すみません、よく聞き取れなかったのですが……?」
「いいえ、なんでもありません」
私はさっと周囲に視線を走らせた。
いつの間にか、私たちを追って議場から出た護衛官と召使が数人、すぐ側に控えていた。
彼らは私たちのやり取りを、固唾を飲んで見守っていた。
「ありがとうございます」
私は王子の両手を、そっと握った。
「そんなふうに言っていただけて、私、本当に嬉しいです」
王子は一瞬虚をつかれたような表情を浮かべたあと、頬をわずかに染めた。
「当然です。貴方は今まで、本当によく尽くしてくれましたから」
消え入りそうな声だった。
その瞳は、今にも泣き出しそうに、ぐらぐらと揺れていた。
ああ、本当に、優しい人だな。
私、やっぱりこの人が好きだな。
この人のことを愛せて、よかったな。
「貴方のような人のもとに嫁げて、私、本当に幸せです」
私は王子の手を力強く握った。
そして握った手を通して、王子に語りかけた。
大丈夫ですよ。
私、ちゃんとわかっています。
確かに、これまで仲睦まじい夫婦として振る舞ってきたのに、いきなり他国の姫を正妃に迎えたら、外聞が悪いですからね。
貴方の評判に、民衆からの信頼に、傷がついてしまいますからね。
私、これから自分がどうするべきなのか、ちゃんと理解しています。
円満にことを進める方法は、たったひとつだけですから。
最期まで、きちんと、后という役割を全うします。
それが王子にきちんと伝わったのかどうかはわからない。
彼はただ、震える声で、そうか、と呟いただけだった。
数日後、私は病に倒れた。
そして二度と起き上がらなかった。
□
議会での騒動があって、数日後のことだった。
私は王子と共に再び議場に呼び出されていた。
今度こそ、王子を説得するつもりなのだろう。
「僕は屈しません」
しかし王子の態度はなおも頑なだった。
「喉元に刃を突きつけられようとも、立場を追われようとも、国が戦火に飲まれようとも――――貴方自身が望んでいなくても、僕は貴方を、離しません」
議場に向かう道すがら、王城の長い廊下を歩きながら、王子は言った。
ぎゅっと、心臓が握りつぶされるように感じた。
目もとが熱くなった。
嘘だってわかってた。
今も私たちの周りにはたくさんの人がいる。
臣下や、召使や、護衛たちが。
彼らは王子の物騒な発言に、驚いていた。
でもその驚きに王子を責めるような色合いは見られなかった。
むしろ、一途に妻を想う王子に、感動さえしているようだった。
王子は自分の役割を忠実にこなしている。
今回の件を通して、民衆からの支持はいっそう熱いものとなるだろう。
私も、倣わなくては。
自分の役目を、きちんと果たそう。
「いけません、殿下」
私は王子をそっと窘める。
嗚咽を必死にこらえて、貴婦人らしく、目を伏せて呼びかける。
「この国は自分にとって宝だと仰っていたではありませんか。民はみな家族だと。私のために、その真心を捻じ曲げるようなことはなさらないで――――」
最期まで言うことはできなかった。
私の視界はそこで暗転した。
どさりと、なにかが倒れる音がした。
悲鳴と、私の名を叫ぶ王子の声が響いた。
ああ、よかった。
ちゃんと倒れることができた。
私は安堵して、意識を手離した。
□
高熱と全身の痺れで、私は起き上がることもままならなくなった。
倒れてから三日が経過しても、回復の兆しはまるで見られない。
情勢が情勢だけに、毒を盛られたのではないかと危惧する声もあったが、それはすぐに、王城勤めの医者によって否定された。
私の症状はどんな毒の効果にもあてはまらない。
毒下しもまったくきかず、それどころか日増しに悪化していく始末だ。
そもそも私の食事は飲み物含め全て毒見が行われている。
毒を盛られた可能性はなきに等しい。
神経性の過労による衰弱、というのが、医者の見立てだった。
それは多くの人にとって納得のいく、そして都合のいい診断だった。
帝国との同盟に反対しているのは王子だけだった。
王子は私のために、新たな后を迎え入れることを拒否している。
私さえいなくなれば、王子も同盟に反対する理由がなくなるのだ。
私さえいなくなれば、帝国との同盟が成立し、この国はひとまず窮地を脱することができる。
帝国の庇護下に入ることができる。
誰も傷つくことはない。
罪のない人びとが犠牲になることもない。
私が倒れたことは、多くの人びとにとって、僥倖だった。
このまま私が后としての役割を全うできなくなれば、王子も新しい后を受け入れざるを得なくなる。
国中の人が、私が再起不能となることを、あわよくばこのまま死ぬことを願っていた。
そしてその願いは叶えられる。
なぜなら私はみずから毒杯を仰ぎ、死の谷へと身を投げたからだ。
□
毒は、母の遺品から見つけたものだった。
宝石箱の底に仕舞われていたそれは、恐らく父からの贈り物だったのだと思う。
自殺も、刑死も、決して名誉のあるものではなかったから。
父が母へ向けた最後の温情だったのだと思う。
毒には小さなカードが添えられていた。
『これを飲めば病を得て、数日で死に至ることができる』
カードには武骨な父の字で、そう記されていた。
けれど母はこれを使わなかった。
父の温情を捨て、首を吊った。
醜い死に様を、一目で自殺とわかる不名誉な死を選んだ。
私はその毒薬を、母からの唯一の形見として、肌身離さず持っていた。
どうしてそれを大切にしていたのか、自分でもよくわからなかった。
お守りのつもりだったのだろうか。
毒薬に、父から母への愛を垣間見たからだろうか。
或いは、予感があったのかもしれない。
自分はいつかこれを必要とするだという、予感が。
□
聡い国王や王妃、一部の臣下は、私が自ら毒を飲んだと気づいていたことだろう。
病を患うにしては、あまりにもタイミングがよかったから。
彼らは私に、当たりさわりのない見舞いの言葉をよこした。
冷たいとは、思わなかった。
国難にあって、床に伏した異国の女の心配など、二の次になるのは当然だ。
きっと水面下では、同盟の締結に向けて動き出していることだろう。
交渉が進められ、王子と帝国の姫君との結婚準備も始まっていることだろう。
病床の身では確かめようもないが、私は確信していた。
だから、寝所に王子を入れないよう言いつけた。
彼は私が生きている限り、お芝居を続けなければならない。
妻を想う善き夫としての姿を、周囲に知らしめ続けなければならない。
これまでの振る舞いを考えれば、彼はきっと私を、付きっきりで看病しなければならなかっただろう。
同盟や婚姻で忙しい彼に、そんなことをさせるわけにはいかなかった。
だから私は彼との面会を拒絶した。
みずほらしく弱った姿を見せたくないから、などと理由をつけて。
これなら彼の名誉に傷をつけることも、これまでの振る舞いに矛盾を生むこともなく、彼を遠ざけることができる。
彼に、次の結婚準備への時間を与えることができる。
不幸な一回目の結婚から、幸福な二度目の結婚へ、誰に後ろ指を指されることもなく舵を切ることができる。
私はきちんと役目を果たすことができた。
安心した。
よかった。
私は母のようにならずに済んだ。
誰を傷つけることもなく、責務をまっとうすることができた。
愛する彼の役に、立つことができた。
あとはただ死を待てばいい。
彼のこの先の人生が、明るいものであることを祈りながら。
どうか、彼が次の結婚相手とは、心から愛し合えますように。
胸が痛んで、涙がとまらなかった。
でもそれもきっと、毒のせいだろう。
そうして、毒薬を飲んで一週間ほどで、私は臨終を迎えた。
□□□
臨終の折には、さすがに王子の来訪を拒絶できなかった。
やせ衰え、虫の息となった私を、王子はひどく痛ましそうに見つめていた。
ああ、嫌だな。
最後にこんな醜い姿を見せることになるなんて。
見た目だけでも、美しい思い出として、彼の中に残りたかったのに。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
私はかすれた声を絞り出した。
せめて表情だけでも、と、品のある笑みを浮かべながら。
「短い間でしたが、本当にお世話になりました」
王子は力なく首を振った。
「貴方は最後まで、そうなんですね……」
温かい滴が、私の頬に降り注いだ。
それは王子の涙だった。
「どうして貴方がこんな目に……」
王子は泣きじゃくっていた。
彼の涙は雨となって降り注いだ。
温かかった。
体温を失い始めた私の頬には、熱いくらいだった。
どうして?
私はぼんやりとした頭で考える。
どうして彼はこんなに泣いているんだろう。
やっと私が死ぬから?
重荷をひとつ、降ろすことができるから?
……いや、きっと違う。
彼は本当に優しい人だから、愛のない結婚相手でも、その死に安堵の涙を流したりはしないはずだ。
とすれば、きっとまだ、周りにだれかいるんだろう。
臨終の妻に、涙を流す夫という姿を見せなければいけない誰かが。
……きっとそうね。
召使か、それとも医者か。
そうじゃなきゃ、彼がこんなに嘆くはずないもの。
私は首を回して、その誰かの姿を確かめようとする。
すると、王子が、突然大声をあげた。
「こんなときにまで、貴方は誰を探しているんですか!?」
私は驚いて、王子を見つめた。
「今ここには僕しかいません!」
王子は滂沱の涙を流したまま、これ以上ないくらい悲痛な声で叫んだ。
「最期くらい、僕のことだけを見てください!」
そう言う王子の顔は涙でぐしゃぐしゃで、まるで癇癪を起した子どものようだった。
そんなに泣いていたら、彼の方こそ、私のことなんて見えないだろうに。
「本当に?」
私は彼に手を伸ばした。
「ここには、誰もいないのですか?」
王子は私の手をとって、大きく頷いた。
「誓って誰もいません。僕と貴方、二人だけです」
「……そうですか」
ではなぜ、貴方は泣いているのですか?
そう続けようとしたが、やめた。
それを聞くのは野暮だな、と思った。
わかってる。
王子は優しい人だから、私が安らかな気持ちで逝けるよう、心を砕いてくれているんだ。
それに、この部屋には誰もいなくても、扉の向こうで、誰かが聞き耳を立てているかもしれない。
だから、最後まできちんと、嘘を突き通そうとしているんだ。
私は彼に手を伸ばした。
彼は私の手を取った。
その手は、私の手を同じくらい、冷え切っていた。
「教えてください」
彼は言った。
「貴方の心には、誰がいるんですか?」
「……え?」
「貴方は、本当は、誰のことを想っていたのですか?」
「なにを、言っているんですか?」
「もう隠さなくていいんです」
王子は、これ以上ないほど優しく笑いかけた。
「貴方の心は、いつも遠くにありましたね。目の前にいる僕ではなく、遠くにあるなにかをずっと見ていましたね」
なんの話だろう。
私は頭が真っ白になる。
読み進めていた台本が、突然白紙になってしまったみたいだ。
「貴方と僕の間には透明な壁があるようでした。僕はそれを取り払いたいと思っていました。――――けれど、できませんでした。できるはずがなかったんです」
私たちの物語は、静かに愛を語り合って、閉じるのではなかったのだろうか。
「だって、貴方の心は、すでに別の方のものでしたから」
予期せぬ言葉に、展開に、それでも必死についていこうと、私は頭を働かせる。
最期の力を振り絞って、彼を理解しようとする。
「怒ってはいません」
彼の声は優しい。
「憎んでもいません」
けれどその瞳には、深い悲しみに揺れている。
「ただ、僕は、悔しく思っています。貴方の愛を一身に受けるその人が、羨ましくてなりません」
彼の手は冷たい。
「僕は貴方を、心から愛していました」
震えるその手は、痛いほど強く、私の手をつかんでいる。
「貴方に別の想い人がいることは知っていました。それでも僕は、ずっと貴方が好きでした」
胸が、ずきんと、痛んだ。
私は理解した。
彼の意図を。
彼が望む、物語のおしまいを。
「最期に、その人に言い残したいことはありませんか?」
彼は私たちの物語を、美しい悲劇として終わらせるつもりはないのだ。
「安心してください。僕は貴方が心を捧げたその人を、決して傷つけたりしません。ただ、貴方に心残りがあってほしくないのです。だから、なにか言伝があるなら、預かります。一言一句違えず、その人に届けることを誓います」
やはり誰かが、この部屋に聞き耳を立てているんだろう。
だから王子は、こんなことを言うのだ。
まるで私に、誰か別の想い人がいるかのようなことを。
私がお母様と同じような、馬鹿な女であるかのようなことを。
でも、そうね。
後ろめたさ無く再婚するためには、これが多分、一番いい筋書きね。
私たちは相思相愛などではなかった。
私の心は他の男のもとにあった。
王子はそれを知っていた。
知っていたうえで、それでも夫婦だからと、懸命に愛を捧げ続けた。
しかし私はついにそれに答えることがなかった。
死の淵に立ってなお、私は王子の献身に報いなかった。
対する王子は、最後まで、私に心を砕き続けた。
美談だった。
それは心優しい王子の物語として完璧だった。
これなら私が死んですぐに次の后を迎えても、非難する者は出ないだろう。
優しいけれど、抜け目のないお方だ。
外交上手なだけある。
「言伝は必ず伝えます」
王子はまっすぐ、私を見つめた。
「だから、その代わりに、貴方の最期の時間を独占することを、どうか許してください」
私は笑おうとしたが、うまくできなかった。
今の台詞を聞いたら、きっと誰もが涙して、貴方に同情するでしょう。
可愛そうな人だと思うでしょう。
でも本当は、貴方はとても残酷な人。
優しくて、正しくて、嘘の上手な人。
それでも、そんな彼でも、愛おしいと思った。
彼のためなら、きれいじゃなくていいと思った。
そう、死にゆく私がきれいである必要はないのだ。
大切なのは、最期まで彼の役に立つことなのだ。
「では、伝えてください」
私は決意する。
お母様と同じになることを。
愛すべき人を愛さなかった、馬鹿な女になることを。
「――――愛していました」
私は彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「――――本当は、愛するべきじゃなかったんです。私は王女だから、誰か一人を特別に想うことなんて、あってはいけなかったのです」
笑顔を作ろうとしたけれど、やはりうまくいかなかった。
ぎこちなく、口の端が歪むだけだった。
「それでも、愛してしまいました」
悪いことではなかった。
だって、貴方を愛することは、妻である私にとって義務だったから。
でも私は、その義務に対して、見返りを求めてしまった。
「――――貴方は、私を愛してくれていたでしょうか」
貴方に愛されたいと、思ってしまった。
「――――優しい貴方はきっと、愛していたと、答えてくれるでしょう」
優しい貴方はきっと、私を愛してくれていた。
「――――他の誰に求められてもそう返すように、私を愛してくれるでしょう」
父母や臣下、民を愛するように、私を愛してくれていた。
……でもね。
「――――でもね、私は」
それじゃ、足りなかった。
私は貴方の唯一になりたかった。
「――――私は貴方の特別になりたかった」
私が貴方を愛するように、貴方に私を愛してほしかった。
「ああ……」
私は目を閉じた。
「貴方に、愛されたかったなあ……」
王子はそっと、私の手を離した。
「――――必ず伝えよう」
ひどく震えた声で、王子は私に訊ねた。
「その人の名は?」
名前。
私は口を薄く開いたが、言葉を紡ぐことができなかった。
適当な名前を、咄嗟に思いつけなかった。
「教えてくれ。でないと、伝えられない」
王子は私の口元に耳を近づけた。
ああ、これなら、部屋の外で聞いている人の耳には届かないだろう。
私は安堵した。
全身の力が抜けるのを感じた。
「マクシミリアン」
私は呼んだ。
愛する彼の名を。
「マクシミリアン、私、貴方を愛していました」
この声は他の誰にも聞こえていない。
そう思うと、押し殺していた想いが、あふれ出した。
「貴方に、愛されたかったなあ」
ぐらりと、身体が揺れた。
身体の感覚はすでにほとんど失われ、閉じた目蓋を持ち上げることもできなかったので、私は自分の身になにが起こったのかすぐにはわからなかった。
「マリー!」
耳元で、王子の声がした。
「マリー!僕もです!僕もずっと、貴方を愛していました……!」
聞き間違い、だろうか。
きっとそうだ。
せっかく思い描いたとおりの形で閉じようとしていた物語を、どうして自らひっくり返すような真似をするんだろう。
私は貴方以外の男を想って、この世を去る。
貴方は悲嘆にくれる。
そんな、静かな終わりを迎えるのが、マクシミリアンの望みだったはずだ。
「だめだ――――いっちゃだめだ――――僕らは愛しあっていたのに――――」
ああ、やっぱり。
これは幻聴だろうな。
こんな切実な愛の告白を、彼がするはずは、ないんだから。
私は最期に、夢を見ているんだ。
でも、よかった。
例え夢でも、最期に、一番欲しかった言葉を、貴方からもらえた。
「マリー……」
寂しい人生だったけど、終わり方は、悪くなかったなあ。
■■■■■
「愛しています」
腕の中で、次第に冷たくなっていく彼女に、僕は呼びかけ続けた。
「愛しています。ずっと愛していました。僕の心は、ずっと貴方のものでした……!」
彼女の目蓋は、固く閉じられたまま動かない。
その口は、悲し気に引きつったまま、吐息のひとつもらさない。
「目を開けてくれ……マリー……」
彼女はすでにこの世を去っていた。
僕がどれだけ愛を伝えても、彼女に届くことは、二度とない。
いや、今まで一度だって、僕の愛が彼女に届いたことはなかった。
■
政略的な結婚だった。
当人の意志は一切介在していない、国のために結ばれた婚姻関係だった。
それでも僕は、后となる女性に対して、精いっぱい尽くそうと思っていた。
互いに慈しみ合う心があれば、政略結婚でも、良き伴侶となれるだろうと信じていた。
そして実際に、僕と彼女は良い夫婦だったと思う。
彼女は聡明で、謙虚で、努力家で、とても美しい人だった。
王族としての責任感が強く、己の立場をよく弁えていた。
生まれの国とは比較にならないほど小さなこの国を、ことあるごとに素晴らしいと褒め称えていた。
腰が低く、礼儀正しく、何事にも動じない人だった。
泰然とした女性だった。
国母となるべくして生まれてきた人だ、僕は思った。
僕は彼女のことを尊敬していた。
彼女のようになりたいと思ったし、彼女と並び立てる立派な王になりたいと思った。
二人なら、よりよい国が作れると思った。
平和で、豊かで、誰もが幸福な国が。
僕らは同じ理想を持つ同志だった。
僕らの心は通じ合っていた。
同じところを見ていると、同じ気持ちでいると、そう思っていた。
けれど彼女の心は、いつも、僕の知らないところにあった。
それに気づいたのは、結婚してしばらくたってからのことだった。
彼女にはどうやら、想い人がいるようだった。
■
彼女はいつも人目を気にしていた。
さりげなくではあったが、彼女には視線を泳がせる癖があった。
注意深く観察してはじめて気づいた。
彼女はその場に誰がいるのか、誰が自分たちを見ているのか、自分たちの会話に耳をそばだてているのか、常に気にしている様子だった。
慣れない土地で緊張しているのだろう、とはじめは気にしていなかった。
ここは平和な国で、彼女は政治的に中立な立場にある。
貴婦人たちともうまくやっていたし、民衆からも好意的に受け入れられている。
なにも心配いらないはずだった。
だから彼女の警戒は、単に緊張からくるものだと思っていた。
この国に慣れれば、彼女も次第に警戒を解いていくだろうと思っていた。
けれど彼女は、いつまでたっても警戒を解かなかった。
使用人や、小さな子供と話しているときでさえ、どこか遠慮があった。
彼女は他人との間に見えない壁を作っていた。
それは僕に対しても違わず、二人で馬に乗っているときも、寄り添い合ってダンスをしているときにも、夜伽の最中でさえ、彼女は本心を見せようとしなかった。
すべてを覆い隠すような、非の打ちどころのない完璧な笑みを浮かべるだけだった。
彼女は僕に心を開いてはくれなかった。
それを知ったとき、僕の胸は、ひどく痛んだ。
いつか彼女と芝居を観劇したことがあった。
まだ彼女が嫁いできて間もない頃だ。
劇の内容は、愛する二人が苦難を乗り越えて結ばれる、ごくありふれたラブストーリーだった。
正直いって、僕は退屈してしまったけれど、彼女はいたくのめり込んでいた。
いつもは控えめに伏せられた目蓋をめいっぱい開いて、少女のように瞳を輝かせて、彼女は芝居に見入っていた。
かわいい人だ、と僕は思った。
いつかその輝く瞳を、僕にも向けてくれるだろうか、と。
僕は彼女を愛していた。
尊敬していたはずが、いつの間にか、一人の女性として愛するようになっていた。
けれど彼女が僕を愛することはなかった。
彼女はよくぼんやりと遠くを眺めていた。
物思いに耽る彼女の瞳は、いつもきらきらと輝いていた。
観劇をしていたときのように。
芝居の中で、愛を謳う男を眺めていたときのように。
彼女に想い人がいることは、薄々気づいていた。
それが誰かは見当もつかなかったが、僕でないことは確かだった。
なぜなら僕がどれだけ愛を説いても、身体を合わせても、彼女はいつもそれを受け流す
ばかりだったからだ。
ときにはなにかを堪えるように俯き、僕から目を逸らした。
彼女があの輝く瞳を僕に向けることはなかった。
悔しかった。
苦しかった。
悲しかった。
名も知らぬ彼女の想い人が、憎くてたまらなかった。
一途に愛し続ければ、きっと心を変えてくれる。
僕のことを愛してくれるようになる。
僕はそう信じて、彼女を愛し続けた。
僕は彼女に愛されたかった。
いつか必ず、彼女と心を通わせることができる。
そう信じてきた。
それだけが僕の支えだった。
■
けれど僕が帝国の姫との婚姻を迫られたとき、彼女はあっさりと身を引いた。
正妃という立場に、僕の妻であることに、彼女は微塵の執心も見せなかった。
側妃に降ろされるかもしれないというのに、離縁されるかもしれないというのに、彼女の態度は平然としたものだった。
屈辱も、怒りも、彼女にはなかった。
瞳にかすかな虚しさを滲ませただけだった。
悲しみで、全身が張り裂けそうになった。
それでも僕は、彼女を愛していた。
彼女以外を后とすることなど、想像することもできなかった。
「貴方のような人のもとに嫁げて、私、本当に幸せです」
僕の決死の想いに、彼女はそう答えた。
誰にでも見せる、非の打ちどころのない笑顔を浮かべながら。
ああ。
僕はその瞬間、悟ってしまった。
彼女が僕を愛することは、未来永劫ないのだろうと。
僕は愚かにも、諦めてしまった。
笑顔の裏に隠した彼女の本心に気づくこともなく。
彼女がこぼした小さなサインに、なにひとつ気づくことなく。
それでも、彼女への執着だけは捨てられず。
僕は本当に愚かだった。
だから、天罰が下されたのだ。
■
病に伏した彼女を、僕は見舞うことも許されなかった。
彼女は医者や使用人を嫌がることなく寝室へ入れた。
床に伏せたままではあったが、親交の深かった婦人たちの見舞いにも応じた。
けれど彼女は、僕に会うことだけは頑なに拒否した。
病に冒された醜い姿を見せたくない、というのが理由だった。
それでも僕は、彼女が寝入った頃合いを見計らって、日に何度も彼女の顔を見にいった。
熱に浮かされた彼女の姿は痛々しかったが、その美しさは少しも損なわれてはいなかった。
顔が浮腫んでいるわけでも、発疹が浮いているわけでもない。
彼女はまた、僕に嘘をついた。
彼女はただ、僕に会いたくなかっただけなのだ。
弱っているときに、愛のない伴侶の顔など見たくなかったのだろう。
或いは、使用人の中に、彼女の想い人がいたのかもしれない。
僕を締め出し、二人で密かな逢瀬を重ねているのかもしれない。
証拠はなかった。
憶測に過ぎなかった。
けれどその考えに、僕の頭は支配されてしまった。
やるせなかった。
虚しかった。
それでもやはり、僕は彼女を愛していた。
何度裏切られようが、見返りなどなかろうが、彼女に尽くし続けようと思った。
一向に回復の兆しを見せない彼女のために、僕は方々を走り回った。
病の正体がなんなのか。
毒を盛られた可能性はないか。
彼女の出生国に同じ症状の風土病はないか。
最後には呪いの類にまで手を広げた。
近隣諸国の緊張は日増しに高まっている。
一刻を争う国難にあって、僕は職務の一切を放棄していた。
周囲からどれだけ非難されようが、白い目で見られようが、彼女のためだけに、駆けずり回っていた。
しかしついぞ、彼女を侵す病魔の正体を突き止めることはできなかった。
■
やがて彼女は臨終を迎えた。
「短い間でしたが、本当にお世話になりました」
彼女は最期まで、僕に他人行儀だった。
弱音のひとつ漏らすことなく、恨み言のひとつ吐くことなく、ただ粛々と、感謝した。
痛々しかった。
髪が乱れても、やせ衰えても、唇が渇き、目が窪んでいても、彼女は美しいままだった。
だからこそ余計に、凄惨だった。
こんなに若く美しい女性が、どうして死ななければならないのか。
なんの罪もない彼女に、どうしてこんな不幸が降り注いだのか。
「どうして貴方が、こんな目に……」
代われるものなら代わりたいと思った。
死ぬのが僕の方だったら、どんなに楽だっただろう。
死ぬのが僕の方であれば、すべてがまるく収まるのに。
后の立場を失えば、いっときは、苦境に立たされるかもしれない。
けれどこの国の人びとは、皆彼女を敬愛している。
王妃も、貴婦人たちも、彼女を高く評価している。
未亡人になったからといって、出生国に送還されるようなことはなかったはずだ。
僕が死ねば膨大な持参金は彼女のもとに戻る。それを使えば生活は容易だっただろう。
真に愛する人と、今度こそ愛のある結婚生活を送ることができただろう。
死ぬべきは僕だった。
彼女は愛する人と幸せになるべきだった。
僕は確かにそう思っていたのに、口をついて出た言葉は、正反対のものだった。
「こんなときにまで、貴方は誰を探しているんですか!?」
彼女は僕を見ていなかった。
彼女の視線は、誰かを探すようにさ迷うばかりで、決して僕を見てはいなかった。
「今ここには僕しかいません!」
耐えきれなかった。
優しい言葉をかけるべきなのに、僕は自分の内に渦巻く感情を、彼女にぶつけてしまった。
「最期くらい、僕のことだけを見てください!」
言ってから、ひどく後悔した。
彼女はようやく僕のことを見てくれたが、その顔には、驚きと困惑があるばかりだった。
この人はどうしてこんなことを言うのだろうと、心底不思議そうな顔をしていた。
僕は絶望した。
ああ、そうか。
彼女は僕を愛さなかっただけじゃない。
僕に愛されているとも、思っていなかったのだ。
僕の愛は、彼女にすこしも、伝わっていなかったのだ。
涙が止まらなかった。
情けなかった。
みっともなかった。
死にゆく彼女に、なにを願っているのだろう。
口にしたところで、彼女を困らせるだけなのに。
願いを聞くべきは、僕の方なのに。
「教えてください」
僕は彼女の手をとった。
彼女の手は、ひどく冷たかった。
「貴方の心には、誰がいるんですか?」
もう、すべてに、取り返しはつかない。
だから最後に、できる限りのことをしようと思った。
「貴方は、本当は、誰のことを想っていたのですか?」
落ちくぼんだ彼女の瞳が、大きく見開かれた。
「なにを、言っているんですか?」
最期まで、嘘がお上手な人だ。
でも、もういいんです。
もう隠す必要はないんです。
僕は全部を、知っていますから。
僕は精一杯、優しく笑って見せた。
「貴方の心は、いつも遠くにありましたね。目の前にいる僕ではなく、遠くにあるなにかをずっと見ていましたね」
彼女の顔から、表情が抜け落ちた。
僕はいま、彼女を傷つけている。
それがわかっていてなお、僕は続けた。
「貴方に別の想い人がいることは知っていました。それでも僕は、ずっと貴方が好きでした」
彼女を困らせるだけだと、苦しめるだけだとわかっていながら、僕はそれでも愛を伝えた。
一方的で、身勝手な愛を押し付けた。
「最期に、その人に言い残したいことはありませんか?」
代わりに、彼女の想いを伝えようと思った。
それだけが唯一、僕が彼女にしてあげられることだったから。
「なにか言伝があるなら、預かります。一言一句違えず、その人に届けることを誓います」
彼女は悲痛に顔を歪めた。
目を逸らしたかった。
心臓をナイフで刺されたような気分だった。
でもそれは、彼女も同じだっただろう。
僕らは最期に、はじめて同じものを共有していた。
悲しみを。
苦痛を。
そして途方もない虚しさを。
「では、伝えてください」
やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。
悲嘆にくれる表情とは裏腹に、ひどく穏やかな声だった。
「――――愛していました」
彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。
「――――本当は、愛するべきじゃなかったんです」
僕が憎いのだろう。
言いながら、ますます、彼女の表情は歪んでいく。
「――――私は王女だから、誰か一人を特別に想うことなんて、あってはいけなかったのです」
耳を塞ぎたかった。
嫉妬で気が狂いそうだった。
「それでも、愛してしまいました」
彼女は、まるで僕が想い人であるかのように語りかけた。
苦痛に歪みながらも、彼女の瞳は、眩く輝いていた。
いつか、舞台に見入っていたときと同じ。
曇りのない満月や、木漏れ日の下の野花を見つめていた時と同じ、いじらしい眼差しだった。
「――――貴方は、私を愛してくれていたでしょうか」
僕は、貴方を、愛していました。
「――――優しい貴方はきっと、愛していたと、答えてくれるでしょう」
僕がもっと優しければ、その人より僕を愛してくれただろうか。
「――――他の誰に求められてもそう返すように、私を愛してくれるでしょう」
僕だったら、貴方だけを愛したのに。
「――――でもね、私は」
どうして、僕じゃだめだったんですか。
「――――私は貴方の特別になりたかった」
僕にとって、貴方は特別でした。
貴方がすべてでした。
貴方が唯一無二でした。
「ああ……」
彼女は目を閉じた。
「貴方に、愛されたかったなあ……」
私は彼女の手を離した。
僕の手は彼女と同じくらい冷たかった。
僕らはどれだけ手を取りあっても、互いの体温を分け合うことは出来なかった。
「――――必ず伝えよう」
僕はこみ上げる嗚咽を飲み込んで、訊いた。
「その人の名は?」
知りたくなかった。
けれど知らなければ、彼女の最期の言葉を伝えることはできない。
「教えてくれ。でないと、伝えられない」
彼女は口を開いたが、言葉を発しようとしなかった。
僕は彼女の口に耳を近づけ、辛抱強く待った。
彼女の想い人は、誰だろうか。
使用人か。臣下か。
母国にいる誰かかもしれない。
そういえば、聞いたことがある。
病死した彼女の母親は、その死の間際に、さる詩人に心を奪われていた、と。
そして娘である彼女もまた、母親と同じような不貞を犯している、と。
よくある下世話な流言だ。
遠い大国から嫁いでくる彼女を貶めるための、品のない飛語だ。
そう思って、気にも留めていなかった。
けれど、もしかしたら、あの噂は本当だったのかもしれない。
彼女は母親と同じように、自由気ままな吟遊詩人に恋をしているのかもしれない。
王子という立場に縛られた僕には、太刀打ちできない相手だ。
僕は彼女に、国という重荷を背負わせる。
けれど詩人は、その重荷を取り除く。
言葉の魔法で、彼女をどこまでも連れて行く。
それはきっと、身一つで馬を駆るような心地だろう。
誰に憚ることもなく、全身で風を受け、大声で笑って、泣いて、怒って。
自由で、希望に溢れていて。
詩人であれば、きっとそんな幸福を、彼女に授けることができるだろう。
僕にはできないことだ。
ああ、僕は結局、彼女になにもしてもあげられなかったなあ。
もし僕が詩人だったら、彼女は僕を愛しただろうか。
最後の最後まで、惨めに、僕は想像する。
もし僕が詩人だったら、彼女をどこまでも連れて行くのに。
言葉だけではない。
実際にその手をとり、共に馬に跨って、どこまでも駆けていくのに。
そんな夢想に浸っていた僕に彼女が突きつけたのは、あまりにも無常な現実だった。
「マクシミリアン」
ふいに、彼女が呟いた。
「マクシミリアン」
それは僕の名だった。
「私、貴方を愛していました」
彼女がなにを言っているのか、すぐには理解できなかった。
僕は彼女に、想い人の名を訊いたはずだ。
それなのに、なぜ彼女は僕の名を口にするのだろう。
なぜ、僕に、愛を告白するのだろう。
「貴方に、愛されたかったなあ……」
彼女は、顔をくしゃくしゃに歪めて、笑った。
痛々しい笑顔だった。
閉じた目蓋の端に、涙が浮かんでいた。
僕は、反射的に彼女を抱きしめた。
頭が真っ白だった。
「マリー!」
それなのに、僕は叫んでいた。
「マリー!僕もです!僕もずっと、貴方を愛していました……!」
マリーは僕を愛していないはずだった。
彼女には別の想い人がいるはずだった。
マクシミリアンというのは、僕のことではないのかもしれなかった。
同名の別人かもしれなかった。
彼女の意識が混濁していて、名前を間違えただけという可能性もある。
あるいは、彼女が、この哀れな男に、最後にかけた温情か。
最後に託した、優しい嘘かもしれなかった。
彼女が僕の名を呼んだ理由は、いくらでも思いつくことができた。
けれど僕は、その中で、もっとも可能性の低いものを選びとった。
無意識のうちに、それを真実として思い込んだ。
彼女が愛していたのは、僕だった。
僕らはずっと、すれ違っていただけだった。
本当は、相思相愛だった。
「だめだ」
けれどそれが真実だとしたら、僕らはなんて滑稽だったのだろうか。
互いを愛していながら、それは一方的なものだと思い込んで。
不要な嘘を重ねて、取り繕って、蓋をして。
この愛は一方的なものだと、思い込んで。
「いっちゃだめだ、マリー」
もう二度と会えない別れの際になってはじめて、僕だけがそれに気づくなんて。
「僕らは愛し合っていた。愛し合っていたのに……!」
マリーの顔から力が抜けた。
「マリー」
僕は彼女を揺さぶった。
目蓋の縁にたまっていた涙が、こぼれ落ちた。
「マリー……」
僕はマリーを固く抱きしめた。
マリーは僕を抱き返してはくれなかった。
「マクシミリアンとは、誰のことですか?」
僕は冷たくなった彼女にささやいた。
「それは本当に僕のことですか?」
マリーは答えない。
「貴方がずっと想っていたのは、僕だったんですか?」
僕らの間に透明な壁はもはやない。
ただ、永遠の沈黙が横たわるばかりだ。
「なぜ……だって貴方は、いつも僕を見ていなかったじゃないですか。貴方はいつもどこか遠くを見つめていたじゃないですか。それなのに……」
涙はすでに乾いていた。
彼女に愛されていたと知っても、僕の胸は少しの喜びも沸き立つことがなかった。
「僕を愛していたなら、どうして僕だけを見てくれなかったのですか」
口を衝いて出るのは、身勝手な思いばかりだった。
彼女を責めてどうなるというのだ。
本当に悪いのは、僕なのに。
「貴方は、僕に愛されていないと思っていたんですか?」
そう思わせてしまったのは、僕だ。
「僕は貴方を、ずっと愛していましたよ」
それを信じさせることができなかったのは、僕だ。
どれだけ言葉にしようとも、どれだけ想っていようとも、伝わらなければ意味なんてないのに。
「ずっと、貴方だけを……」
取り返しはつかない。
どれだけ懺悔を重ねても、彼女は帰ってこない。
愛していると、何度言葉にしようとも、それが彼女の耳に届くことはない。
僕らの間に、透明な壁なんてなかった。
僕らの間には、ただ愛だけがあった。
なぜ気づかなかったのだろう。
どうして、もっと伝えなかったのだろう。
諦めたりしなければよかった。
縋りつけばよかった。
僕はただの臆病ものだった。
自分が傷つくのが怖くて、彼女に踏み込もうとしなかった。
ひとりよがりな想いを膨らませて、彼女のためだと言いながら、自分が傷つかないために、一歩引いたところで彼女を見ているだけだった。
それがどれだけ彼女を傷つけていたのかも知らずに。
「愛しています」
これほどの絶望があるだろうか。
こんな形で貴方を失くして、僕はこのあと、どうやって生きていけばいいのでしょうか。
ああ、こんなことならいっそ。
愛なんて、ないほうがよかった。
貴方に愛されていない方が、まだ楽だった。
貴方は、僕のことなんか、愛するべきじゃなかったんだ。
□□□□□
彼女との透明な結婚生活が終わっても、僕の人生は続いた。
後を追うことは出来なかった。
彼女は死の間際まで后としての役目を全うしたのに、僕だけが責務を放棄することはできなかった。
帝国の姫との縁談は断った。
先々のことを考えれば、デメリットの多い婚姻であると臣下たちを説き伏せ、半ば無理やり破談に持ち込んだ。
帝国からの報復はなかった。
別大陸の大国との戦争が激化し、僕らのような小国にかまっている状況ではなくなってしまったのだ。
帝国からの後ろ盾を得られなくなったからといって、他国の侵攻を許したわけではない。
僕は宣言通り、近隣諸国に和平協定を結ばせた。
多くの時間と、膨大な金がかかった。
国の貴重な収入源である、街道の関税の撤廃を餌に、緊張高まる各国の首脳を集めた。そして帝国の影をちらつかせながら、申し出に応じないのであれば、経済的、武力的報復も辞さないと脅しをかけた。
彼らはしぶしぶ協定に応じた。
これが一時的な休戦状況に過ぎないということは、もちろん僕も承知していた。
帝国の後ろ盾がないことは遠からず露見してしまうし、協定の必須条件である関税の撤廃で我が国の経済的損失は甚大だった。
数年で国庫は尽き、国は疲弊するだろう。
またこの協定は、各国が抱える諸問題を解決するわけではない。
真の和平を獲得するためには、近隣諸国を建前上ではない真の和解に導く必要があった。
僕は各国を飛び回り、各国が抱える問題をひとつひとつ解消して回って行った。
簡単なことではなかった。
絡まりあった糸をほぐすような、時間と根気のいる仕事だった。
それでも、僕は成し遂げた。
軍靴は遠のき、各国の関係は良好となった。
僕たちの国は幾度か危機的状況に陥ったものの、国民の生活に大きな変わりはなかった。
彼女が愛したままの形で、あり続けていた。
すべてが終わったとき、マリーの死から、すでに十年もの月日が流れていた。
僕は戴冠し、王位を引き継いだ。
周囲は喧しかったが、新しい后を持つ気はなかった。
僕の心は未だに、マリーただ一人のものだった。
彼女への愛は、むしろ年々、深く、大きくなっていくばかりだった。
□
マリーの周囲に、「マクシミリアン」という名の人間はいなかった。
臣下の中にも、使用人の中にも、彼女と関わりのあった人物のなかで、僕と同名の者はいなかった。
彼女の祖国にも調べを広げたが、結果は変わらなかった。
当人が偽名を使っていた人物、それこそ吟遊詩人のような流れ者が、彼女の想い人の正体であるという可能性も、頭から否定された。
彼女は吟遊詩人のような流れ者と関わりを持つことを避けていた。
母親の死が起因しているのだろう。
それは彼女の祖国では有名な話で、彼女を知る誰もが、彼女を貞淑な人だったと評したほどであった。
愛想はいいが、地味で、お堅くて、感情をほとんど表に出さなかった方だった、というのが、彼女に最も長く仕えた侍女の証言だった。
まるで本心を出すのが罪であるとでもいうかのように、常に周囲に気を配り、場に即した言葉だけを口にしていた、と。
僕が抱いていた印象と合致していた。
彼女は僕のもとへ嫁いでああなったのではない。
彼女は、はじめからああだったのだ、と。
彼女が最期に呼んだのは僕だった。
彼女が生涯唯一心を開こうとしたのが、僕だった。
侍女からの話を聞いて、僕はようやく確信した。
もう、逃げ場はなかった。
僕は彼女のいない色あせた世界を、行き場のない彼女への想いを抱えて生きなければならない。
絶望の中で、僕は長い余生を送らなければならないのだ。
「これはきっと、天罰なのでしょうね」
彼女の墓の前に傅いて、僕は言った。
彼女の墓は、小さく、素朴だった。
王城の裏手の、日当たりはいいが目立たない一画に建てられている。
后の墓には相応しくないだろうが、この方が、きっと彼女の好みであるはずだ。
それに、人目につかないこの場所なら、毎日通おうとも、なにを語りかけようとも、自由だ。
「いつか僕が死んだとき、同じ墓に入ることを許してください」
僕はこの先も再婚する気はない。
王位は、従弟の子にでも譲ろうと思っている。
「愛しています、マリー」
冷たい墓石にそっと指先を這わせた。
最期に握った彼女の手も、同じように冷たかった。
そして僕の手も、あの日からずっと冷たいままだ。
「どうか許してください」
近隣諸国との和平を築いたことで、僕は国内外から称賛を浴びた。
僕の行動はさまざまな脚色がなされた上で、広く流布している。
渦中に病没した后、マリーとの関係も、美談としてもっぱらの語り草だ。
「この先も貴方を愛し続けることを」
けれど、僕と彼女の物語は、美談でもなんでもない。
ただの悲劇だ。
彼女の愛を信じようとしなかった、救いようのない、愚かな男の滑稽譚だ。
「マリー、愛しています。今までも、これからも、ずっと」
僕は不幸の底で目を閉じる。
どうかこの言葉が、彼女の安らかな眠りの妨げになりませんようにと、祈りながら。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
誤字報告とても助かっております。