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鬱になったので勇者を辞めることになりました

作者: マコ
掲載日:2024/08/04

魔王を倒した。


世界は救われた。


王国は歓喜に包まれ、人々は勇者アルトの名を称えた。


しかし、その日を境に、アルトは何もできなくなった。


朝起きることも。

剣を握ることも。

誰かと会うことさえも。


世界を救うためだけに生きてきた彼には、魔王討伐後の人生が存在しなかったのだ。


王都では英雄として祭り上げられ、

かつての仲間たちは新たな人生へ歩き始めていた。


賢者は大学を設立し、

聖女は孤児院を経営し、

戦士は騎士団長となった。


誰もが前へ進んでいる。


ただ一人、勇者だけが立ち止まっていた。


「次の目的がない」


それが彼を少しずつ蝕んでいく。


そんなある日。


アルトは辺境の小さな村で、一人の少女と出会う。


少女は言った。


「世界なんて救わなくていいから、

まず明日の朝ごはんを食べなよ」


その言葉は、どんな称賛よりも彼の心に届いた。


勇者は再び旅に出る。


魔王を倒すためではない。


誰かに必要とされるためでもない。


自分自身を探すために。


かつて世界を救った男が、

今度は自分自身を救う物語。


これは、

『生きる理由を失った勇者』が、

もう一度人生を好きになるまでの長い旅の記録である。

勇者が鬱になりまして


第一話 世界を救った朝


朝の六時十二分に目が覚めた。


特に理由はない。


身体がその時間を覚えているのだ。


魔王討伐の旅をしていた頃は、いつもそのくらいの時間に起きていた。


野営地でも。


雪山でも。


砂漠でも。


目覚ましなんて必要なかった。


世界が滅びるかもしれないという状況は、意外なほど寝坊を防いでくれる。


アルトはしばらく天井を見ていた。


木目がある。


昨日も見た。


一昨日も見た。


たぶん明日も見るだろう。


そのことに何の感情も湧かなかった。


窓の外では鳥が鳴いている。


名前は知らない。


昔なら知っていたかもしれない。


賢者のリシアが教えてくれたからだ。


「あれはミズハネドリよ」


とか、


「春になると北から飛んでくるの」


とか。


彼女はいろんなことを知っていた。


アルトは剣のことしか知らなかった。


今になって思う。


もっと話を聞いておけばよかった。


鳥の名前とか。


花の名前とか。


好きな食べ物とか。


世界を救うことに比べればどうでもいいと思っていたことを。


彼は起き上がり、机の上の水を飲んだ。


ぬるかった。


冷たい方がいいと思った。


でも階下まで取りに行く気力はなかった。


だからそのまま飲んだ。


人生というものは、案外そういうものなのかもしれない。


本当は冷たい水が欲しいのに、ぬるい水で済ませてしまう。


そうしているうちに、何が欲しかったのかも忘れてしまう。


窓の外から子供たちの声が聞こえた。


「勇者様だ!」


「本当に魔王を倒したんだよな!」


「すげー!」


アルトは反射的にカーテンを閉めた。


自分でも驚くほど素早い動作だった。


静寂が戻る。


胸のあたりが少し楽になる。


同時に、どこかが少しだけ痛くなる。


彼は椅子に座った。


部屋の隅には聖剣が立てかけてある。


かつて世界で最も有名だった剣。


王国中の子供たちが憧れた剣。


彼はその剣を見た。


剣もまた彼を見ているような気がした。


もちろん気のせいだ。


剣はただの剣だ。


それ以上でもそれ以下でもない。


しかし三年前なら、その剣を持っただけで胸が高鳴った。


魔王軍四天王との戦い。


死霊王との死闘。


空中要塞への突入。


思い出そうとすればいくらでも思い出せる。


王都の広場を埋め尽くした歓声も。


王が涙を流したことも。


仲間たちが肩を抱き合ったことも。


全部覚えている。


不思議なことに。


昨日の昼に何を食べたかは思い出せないのに。


アルトは苦笑した。


人生は記憶の配分が少しおかしい。


英雄だった頃の自分は、今でも鮮明だった。


あまりにも鮮明だった。


だから困るのだ。


目の前にいる自分との落差が大きすぎる。


昨日の彼は昼まで寝ていた。


一昨日の彼もそうだった。


先週は一度も剣を振らなかった。


三日前は風呂にも入らなかった。


世界を救った男。


昼まで寝ている男。


その二人が同じ人物だという事実を、彼はうまく受け入れられなかった。


英雄だった頃の自分が、ときどき部屋の隅からこちらを見ている気がする。


何をしている。


立て。


剣を取れ。


進め。


そんな声が聞こえる。


もちろん本当に聞こえるわけではない。


ただの記憶だ。


ただの幻だ。


それでも声は日に日に大きくなっていた。


そして現在の自分は、その声に答えることができない。


どれだけ頑張っても。


どれだけ気合いを入れても。


身体が動かない。


心が動かない。


世界を救った男は、宿屋の階段を降りることさえ難しくなっていた。


その事実が何よりも彼を疲れさせていた。


彼は目を閉じた。


遠くで鐘が鳴っている。


王都の朝を告げる鐘だ。


平和な音だった。


皆が望んだ音だった。


何万人もの人々が命を懸けて手に入れた音だった。


アルトもその一人だった。


なのに。


その音を聞くたびに、自分だけが世界から置いていかれているような気がした。


夕方。


宿の主人が部屋を訪ねてきた。


「勇者様に会いたいという子がおりまして」


アルトは返事をしなかった。


主人は続ける。


「十歳くらいの男の子です」


沈黙。


「両親は魔王軍に殺されたそうです」


アルトの指先が少しだけ動いた。


主人はそれを見なかったふりをした。


「妹さんがいます」


「五歳だそうです」


窓の外では夕陽が沈み始めていた。


アルトは何も言わなかった。


主人もそれ以上は言わなかった。


翌朝。


六時十二分。


いつもと同じ時間に目が覚めた。


窓の外を見る。


宿の前に子供がいた。


痩せた少年だった。


隣には小さな女の子。


兄の服の裾を握っている。


眠そうだった。


少年は宿を見上げていた。


ただそれだけだった。


声を上げるわけでもない。


騒ぐわけでもない。


ずっと待っている。


アルトはカーテンを閉めた。


胸の奥が重くなった。


見なければよかったと思った。


昼になる。


まだいた。


午後になる。


まだいた。


夕方になる。


兄妹はようやく帰っていった。


妹の手を引きながら。


小さな背中だった。


夜。


宿の主人が部屋へやってきた。


何も言わず一本の木剣を机の上に置く。


「置いていきました」


主人は言った。


「勇者様へ、だそうです」


それだけ言って出ていった。


アルトは木剣を見た。


何度も削れ。


何度も補修された木剣だった。


柄には文字が刻まれている。


子供の字だった。


少し歪んでいる。


『ぼくはつよくなります』


それだけだった。


裏返す。


続きがあった。


『まものがきても』


『いもうとをまもれるようになります』


アルトはしばらく動かなかった。


窓の外では夜風が吹いている。


遠くで犬が吠えている。


平和な夜だった。


彼が守った世界の夜だった。


アルトは木剣を握った。


軽かった。


聖剣とは比べものにならない。


なのに。


なぜか持ち上げるのが辛かった。


少年の顔を思い出す。


待ち続けていた顔。


会いたかったのだろう。


勇者に。


世界を救った英雄に。


だけど実際にここにいたのは。


一日中部屋から出られない男だった。


アルトは目を閉じた。


少年も怖いはずだった。


両親はいない。


守るべき妹がいる。


明日どうなるかもわからない。


きっと毎日不安だろう。


逃げたい朝もあるだろう。


泣きたい夜もあるだろう。


それでも。


あの子は立っていた。


妹の手を引いて。


今日を生きるために。


前へ進もうとしていた。


一歩ではない。


半歩かもしれない。


それでも。


進もうとしていた。


アルトはふと窓を開けた。


三ヶ月ぶりだった。


夜風が部屋へ流れ込む。


草の匂いがした。


遠くで誰かが笑っていた。


胸が少し痛んだ。


でも呼吸ができた。


ちゃんと息が吸えた。


そのことに少し驚いた。


世界は何も変わっていない。


鳥も鳴く。


風も吹く。


人々も笑う。


ただ。


三ヶ月間閉じていた窓だけが開いた。


アルトは木剣を机に置いた。


そして部屋の隅に置いてあった鞄へ目を向けた。


旅支度は終わっている。


何日も前から。


それなのに動けなかった。


今も動ける保証はない。


明日の朝になれば。


また布団から出られないかもしれない。


宿を出られないかもしれない。


旅に出られないかもしれない。


それでも。


十歳の少年が半歩進んでいるのなら。


自分も半歩くらいは進まなければならない気がした。


世界を救ったからではない。


勇者だからでもない。


ただ。


あの少年が今日を生きているから。


その夜。


アルトは三ヶ月ぶりに、明日のために眠った。


そして翌朝。


六時十二分。


彼は目を覚ます。


天井は同じだった。


鳥の声も同じだった。


だが。


部屋の扉を開ける。


宿屋の階段が見える。


三ヶ月のあいだ降りられなかった階段だった。


アルトはしばらく見つめた。


心臓が少し速くなる。


足は重い。


怖かった。


魔王城へ向かう時よりも。


ずっと。


それでも。


彼は一段だけ降りた。


そしてもう一段。


たったそれだけだった。


世界を救った日よりも。


ずっと小さな出来事だった。


けれど。


勇者アルトにとっては。


魔王討伐の始まりよりも大きな一歩だった。




第二話 残された者たち


階段を降りた。


それだけのことだった。


宿屋の一階では主人が朝食の準備をしていた。


パンの焼ける匂いがした。


三ヶ月ぶりだった。


こんな匂いをちゃんと感じたのは。


「おはようございます」


主人が言った。


アルトは少し迷った。


それから答えた。


「おはようございます」


自分の声が思ったより普通だったので驚いた。


主人も何も言わなかった。


ただ少しだけ嬉しそうだった。


朝食を食べた。


パンとスープ。


特別美味しいわけではない。


でも最後まで食べることができた。


それだけで十分だった。


食事を終えた頃。


宿の扉が開いた。


冷たい朝の風が入り込む。


振り返る。


昨日の少年だった。


隣には妹がいる。


少女は兄の服を握っていた。


少年はアルトを見る。


そして固まった。


勇者が本当にいるとは思っていなかったのだろう。


アルトも固まった。


何を言えばいいかわからなかった。


数秒。


あるいはもっと長かったかもしれない。


先に口を開いたのは少年だった。


「すみません」


そう言った。


謝ったのだ。


会いたかったはずなのに。


「木剣、勝手に置いていって」


アルトは首を振った。


「いや」


それだけ言った。


会話は終わった。


二人とも話すのが得意ではなかった。


主人が苦笑する。


「せっかく会えたんですから、座ったらどうです」


少年と妹が席についた。


妹は眠そうだった。


兄の隣から離れない。


「名前は」


アルトが聞く。


「レオです」


少年は言った。


「妹はミア」


少女は小さく頭を下げた。


アルトも頭を下げた。


なぜ頭を下げたのか自分でもわからなかった。


しばらく沈黙が続いた。


不思議と嫌な沈黙ではなかった。


レオは木剣を抱えていた。


昨日とは違う木剣だった。


さらに古い。


柄には何度も補修した跡がある。


「騎士になるのか」


アルトは聞いた。


レオは少し考えた。


「わかりません」


予想外の答えだった。


「でも強くなりたいです」


そう言った。


アルトは頷いた。


レオは窓の外を見た。


「本当は」


と言う。


「父さんみたいになりたかったんです」


初めて聞く話だった。


「父さんは商人でした」


「いろんな町に行って」


「帰ってくるたびに面白い話をしてくれました」


レオは少し笑った。


初めて笑った。


でもその笑顔はすぐ消えた。


「だから僕も旅をしたかった」


沈黙。


「でも父さんは死にました」


その言葉は静かだった。


泣いていない。


怒ってもいない。


ただ事実を言っただけだった。


その方が痛かった。


「母さんも」


アルトは何も言えなかった。


言葉が見つからなかった。


魔王は倒した。


世界は救った。


でも。


レオの父親は帰ってこない。


母親も帰ってこない。


それはどうしようもない事実だった。


「僕」


レオは続けた。


「勇者様のこと、嫌いだったんです」


アルトは驚かなかった。


むしろ当然だと思った。


「みんな言うんです」


レオは言う。


「勇者様が世界を救ったって」


「勇者様がいたから平和になったって」


レオは拳を握った。


「でも僕には関係なかった」


窓の外を見る。


遠くで鐘が鳴っている。


平和な朝だった。


「父さんは帰ってこなかったし」


「母さんも帰ってこなかった」


「だから世界なんてどうでもよかった」


アルトは何も言わなかった。


言い訳もできなかった。


その通りだった。


世界は救われた。


でも救われなかった人間もいる。


それが現実だった。


レオはしばらく黙っていた。


やがて小さな声で言った。


「でも」


そこで妹を見る。


ミアはパンを頬張っていた。


少しだけ笑っている。


「ミアは生きてるから」


レオは言った。


「だから今は、まあいいかなって」


アルトは窓の外を見た。


風が吹いている。


世界は相変わらず平和だった。


そしてレオもまた。


失ったものを抱えたまま生きていた。


乗り越えたわけじゃない。


許したわけでもない。


ただ。


妹のために朝起きている。


妹のためにパンを買う。


妹のために明日を迎える。


それだけだった。


でも。


それだけのことがどれほど難しいかをアルトは知っていた。


「勇者様」


レオが言う。


アルトは顔を上げる。


「僕、まだ勇者様のことよくわかりません」


正直な言葉だった。


「でも」


少し考えて。


「会えてよかったです」


それだけ言った。


アルトは返事ができなかった。


胸のどこかが少しだけ痛んだ。


同時に。


少しだけ温かかった。


それが何なのかはまだわからなかった。


でも三ヶ月前には感じなかったものだった。


宿の外では春の風が吹いていた。


アルトはその風を見送った。


そして気づく。


昨日までは窓の向こうにあった世界が。


今日は少しだけ近くにあった。



第三話 町の門


翌朝も六時十二分に目が覚めた。


窓は開いたままだった。


昨夜閉め忘れたらしい。


朝の空気が部屋に入ってくる。


少し冷たい。


鳥の声が聞こえる。


遠くで荷車の音もする。


木の車輪が石畳を叩く音だった。


規則正しく。


ゆっくりと。


アルトはしばらく布団の中でその音を聞いていた。


以前なら聞こえなかった音だった。


聞いていなかっただけかもしれない。


起き上がる。


床板が小さく軋む。


洗面台の水は冷たかった。


指先が少し痺れる。


その感覚を確かめるように、もう一度水をすくった。


宿の一階へ降りる。


主人はパンを焼いていた。


小麦の匂いがする。


それから少し焦げた匂い。


アルトは席についた。


窓際だった。


自然とその席を選んでいた。


窓の外が見えるからかもしれない。


主人は何も聞かなかった。


何も言わなかった。


ただパンとスープを置いた。


スープには細かく刻まれた野菜が浮いている。


湯気が立っていた。


アルトはゆっくり食べた。


熱かった。


舌を少し火傷した。


食べ終わる頃。


扉が開いた。


レオだった。


その後ろにミアがいる。


今日は木剣を持っていなかった。


代わりに小さな籠を抱えていた。


中には卵が入っている。


「おはようございます」


レオが言った。


「おはよう」


アルトも言った。


自分でも驚くほど自然だった。


ミアは相変わらず兄の後ろに隠れている。


ただ今日は少しだけ顔を出していた。


「届け物です」


レオが籠を見せた。


「隣町まで」


アルトは頷いた。


それから気づいた。


レオの顔色が少し悪い。


「遠いのか」


「歩いて二時間くらいです」


レオは言った。


そして少し笑った。


「でも僕、一人じゃ町の外に出たことなくて」


その笑顔は長く続かなかった。


すぐ消えた。


窓の外を見る。


町の門が遠くに見える。


レオも同じ方向を見ていた。


「父さんたちが最後に通った道なんです」


誰に言うでもなくそう言った。


アルトは何も答えなかった。


答えられなかった。


レオは籠を抱え直した。


「行かなきゃいけないんですけど」


と言う。


「足が動かなくて」


その言葉にアルトは少しだけ顔を上げた。


足が動かない。


聞き慣れた言葉だった。


レオは気づいていない。


でも二人は同じ場所に立っていた。


違う景色の中で。


違う理由で。


同じように。


主人がカップを磨いている。


窓の外では風が吹いている。


ミアだけが退屈そうに椅子を揺らしていた。


やがて。


「行くか」


とアルトが言った。


自分の声だった。


でも少し他人の声みたいだった。


レオは瞬きをした。


「え?」


「門まで」


アルトは言った。


「その先は知らない」


レオはしばらく黙っていた。


それから頷いた。


三人は町を歩いた。


石畳の道だった。


朝の日差しが白い壁に反射している。


洗濯物が揺れていた。


魚屋の前を通る。


海の匂いがした。


パン屋の前を通る。


甘い匂いがした。


ミアが立ち止まる。


レオが引っ張る。


また歩く。


それだけだった。


本当にそれだけだった。


でもアルトは気づく。


三ヶ月前。


この町を歩くことさえできなかった。


今は歩いている。


理由はわからない。


ただ歩いていた。


やがて門が見えた。


巨大な石の門だった。


その向こうに街道が続いている。


風が吹いている。


草が揺れている。


町の匂いはここで終わる。


門の外は土の匂いだった。


少し湿っている。


昨夜雨が降ったらしい。


レオが止まった。


ミアも止まる。


アルトも止まる。


誰も話さない。


門番が退屈そうに欠伸をしていた。


空には雲が流れている。


ゆっくりと。


レオは街道を見ていた。


その先を見ていた。


見えない場所を見ていた。


やがて息を吸う。


少し長く。


それから一歩前に出た。


靴が土を踏む。


小さな音がした。


それだけだった。


世界は何も変わらない。


風も吹いている。


鳥も鳴いている。


でもレオはもう門の外にいた。


ミアが慌てて追いかける。


兄の服を掴む。


レオは振り返った。


少し笑っていた。


今度はすぐ消えなかった。


「行けました」


と言った。


アルトは頷いた。


その時だった。


風が吹く。


街道脇の白い花が揺れた。


花びらが一枚飛ぶ。


レオの肩に落ちる。


本人は気づかない。


ミアが取った。


そして兄の頭に乗せた。


レオが嫌そうな顔をする。


ミアが笑う。


アルトはその様子を見ていた。


ただ見ていた。


気づくと。


門の外へ一歩出ていた。


無意識だった。


本当に。


自分でも気づかなかった。


靴の裏に土の感触がある。


柔らかかった。


石畳とは違う。


アルトは足元を見た。


土だった。


ただの土。


世界を救った勇者も。


両親を失った少年も。


その上を歩く。


同じ土だった。


風が吹く。


草が揺れる。


遠くまで道が続いている。


まだ旅に出る気はしなかった。


灰色の村も遠かった。


でも。


昨日より少しだけ遠くが見える気がした。


宿へ戻る道すがら。


ミアが初めてアルトに話しかけた。


「ねえ」


アルトは振り返る。


「おじさん」


と言った。


レオが慌てる。


「勇者様だろ!」


ミアは首を傾げた。


「でも、おじさんじゃん」


風が吹いた。


レオは頭を抱えた。


アルトは何も言わなかった。


ただ。


少しだけ歩くのが楽になった気がした。


第四話 聖剣と木剣


その日の夜、雨が降った。


激しい雨ではなかった。


屋根を叩く音が、遠い記憶みたいに部屋へ落ちてくる。


アルトは窓際の椅子に座っていた。


机の上には木剣がある。


レオが置いていった木剣だった。


柄の部分は何度も削られている。


子供の手に合わせて。


握りやすいように。


強くなりたいと思った跡が残っていた。


部屋の隅には聖剣がある。


こちらは何も変わらない。


磨かれた銀色の刀身。


世界を救った剣。


伝説になった剣。


アルトは二本を見比べた。


木剣は傷だらけだった。


聖剣には傷がなかった。


不思議なものだと思う。


傷ついているのはいつも人間の方だった。


翌朝。


雨は上がっていた。


空気が湿っている。


土の匂いが濃かった。


アルトは一階へ降りた。


主人が朝食を作っている。


バターが焼ける匂いがした。


その時。


宿の扉が勢いよく開いた。


男が飛び込んできた。


泥だらけだった。


息を切らしている。


「助けてくれ!」


男は叫んだ。


主人が顔を上げる。


「どうした」


「東の村だ!」


男は言った。


「魔物が出た!」


宿の空気が変わった。


誰もが動きを止める。


アルトも顔を上げた。


男は続けた。


「畑が荒らされてる!」


「家畜もやられた!」


「子供が怪我をした!」


宿の中がざわつく。


誰かが言う。


「魔王は死んだはずだろ」


男は首を振った。


「わからん」


そう言った。


「でもいるんだ」


アルトは窓の外を見た。


風が吹いている。


平和な朝だった。


三年前と同じように。


違うのは。


魔王がいないことだけだった。


主人が小さく呟く。


「最近増えてるらしいですね」


アルトは聞き返した。


主人はパン生地をこねながら言う。


「群れからはぐれた魔物です」


「魔王軍はなくなった」


生地を叩く音がした。


「でも魔物が消えたわけじゃない」


アルトは黙って聞いていた。


「統率する者がいなくなったからでしょう」


主人は続ける。


「以前は命令されていた」


「今は違う」


「腹が減れば襲う」


「怖ければ逃げる」


「ただの獣です」


その言葉は妙に現実的だった。


魔王軍。


かつて世界を脅かした存在。


今では飢えた獣の群れ。


それだけだった。


昼前。


レオが宿へやってきた。


顔色が悪い。


「聞きましたか」


アルトは頷く。


レオは木剣を持っていた。


いつもの木剣だった。


柄の部分が少し黒ずんでいる。


汗の跡だろう。


「僕、行こうと思います」


そう言った。


アルトはレオを見た。


レオは村の方向を見ている。


宿の壁の向こう。


見えない場所を。


「どうして」


アルトが聞く。


レオは少し考えた。


「わかりません」


と言う。


それから。


「でも」


と続ける。


「ミアがいるから」


アルトは何も言わなかった。


十分だった。


理由としては。


レオは木剣を見た。


その木剣は弱い。


魔物に勝てる剣ではない。


それを本人も知っている。


でも持っている。


守りたいものがあるから。


それだけだった。


その時。


ミアが入ってきた。


相変わらず眠そうだった。


アルトを見る。


「おじさん」


と言う。


レオが頭を抱える。


ミアは続ける。


「つるぎ、もってる?」


アルトは振り返った。


部屋の隅。


聖剣がある。


太陽の光を受けて静かに光っている。


ミアは聖剣を見る。


それからレオの木剣を見る。


しばらく見比べる。


そして言った。


「レオのほうがいっぱいつかってる」


宿の中が静かになった。


アルトは聖剣を見る。


レオは木剣を見る。


確かにそうだった。


木剣には傷がある。


手垢がある。


削れた跡がある。


毎日握られてきた。


毎日振られてきた。


一方。


聖剣は綺麗だった。


三ヶ月。


触っていない。


誰も言葉を発しなかった。


ミアだけが不思議そうな顔をしていた。


やがて。


アルトは立ち上がった。


聖剣へ歩く。


柄を握る。


冷たい。


昔と同じだった。


ただ。


重さが少し違う気がした。


剣が重いのではない。


自分の方が変わったのだろう。


アルトはゆっくり剣を持ち上げた。


宿の主人が見ている。


レオが見ている。


ミアも見ている。


誰も何も言わない。


アルトは剣を腰に下げた。


それだけだった。


歓声もない。


使命もない。


王の命令もない。


ただ。


腰に剣が戻った。


「行くんですか」


レオが聞いた。


アルトは少し考えた。


窓の外を見る。


東の村。


魔物。


助けを求める人々。


昔なら迷わなかった。


今は違う。


でも。


ひとつだけわかることがある。


勇者というのは。


魔王を倒した人間のことではない。


世界を救った人間のことでもない。


目の前で困っている誰かがいる時。


放っておけない人間のことだ。


たぶん。


昔から。


ずっと。


アルトは扉へ向かった。


レオも木剣を握る。


ミアは二人を見上げている。


外では風が吹いていた。


雨上がりの匂いがした。


湿った土の匂い。


草の匂い。


旅の匂いだった。


まだ灰色の村へは向かわない。


まだ自分も見つかっていない。


それでも。


アルトは歩き始める。


東の村へ向かうために。


そしてその先にある何かへ向かうために。


後になって振り返れば。


それは魔物退治ではなかった。


世界を救った勇者が。


自分自身を探す旅の。


本当の始まりだった。


第五話 灰色の魔女


東の村へ向かう街道はぬかるんでいた。


昨夜の雨が残っている。


土は柔らかく、靴の裏にまとわりついた。


レオは何度か滑りそうになった。


ミアは二回転んだ。


二回とも泣かなかった。


ただ泥だらけになった。


アルトは何も言わなかった。


ミアも何も言わなかった。


三回目に転んだ時だけ。


「土が近づいてきた」


と言った。


レオは呆れていた。


昼過ぎ。


東の村が見えてきた。


村を囲む柵は壊れている。


畑も荒らされていた。


麦が倒れている。


家畜小屋の扉も壊れていた。


村人たちは修理に追われている。


空気は重かった。


戦争の時ほどではない。


でも平和でもない。


中途半端な傷跡だった。


アルトはそれを見ていた。


しばらく。


その時だった。


村の中央から怒鳴り声が聞こえた。


「だから燃やせって言ってんだろ!」


女の声だった。


よく通る声だった。


全く上品ではない。


むしろ乱暴だった。


人々が集まっている。


アルトたちも近づいた。


そこにいたのは若い女だった。


黒いローブ。


黒い髪。


寝癖がついている。


手には酒瓶。


昼間だった。


村人が頭を抱えている。


「ノアさん!」


「畑を燃やしたら何も残らない!」


女は肩をすくめた。


「魔物の巣になってるんだから仕方ないでしょ」


そう言って酒を飲む。


村人たちは困り果てている。


アルトも少し困った。


女は振り返った。


アルトを見る。


レオを見る。


ミアを見る。


そして言った。


「変な組み合わせだね」


誰も答えない。


女はさらにアルトを見る。


腰の剣を見る。


少し目を細める。


「ああ」


と言った。


「勇者か」


まるで八百屋で野菜を見るような声だった。


感動もない。


尊敬もない。


驚きもない。


ただ事実を確認しただけだった。


アルトは少し戸惑った。


女は続ける。


「思ったより普通だね」


ミアが頷く。


「おじさんだから」


レオが頭を抱えた。


女は笑った。


初めて笑った。


よく笑う人間の顔だった。


「その子の方が正しい」


そう言った。


アルトは何も言えなかった。


女は酒瓶を掲げた。


「ノア」


と言う。


「魔女やってる」


村人が訂正する。


「元宮廷魔術師です」


ノアは嫌そうな顔をした。


「その呼び方嫌い」


そして酒を飲む。


風が吹いた。


黒髪が揺れる。


アルトはその横顔を見た。


どこか疲れていた。


よく見ると目の下に薄い隈がある。


笑っているのに。


少しだけ寂しそうだった。


「魔物は?」


アルトが聞いた。


ノアは酒瓶を振った。


空だった。


「北の森」


と言う。


「腹減らしてるだけ」


「魔王が死んで群れが崩れた」


村を見る。


倒れた畑を見る。


「賢くない」


「強くもない」


「ただ生きようとしてる」


アルトは森を見た。


遠くに見える黒い影。


静かな森だった。


ノアは続ける。


「人間と同じ」


風が吹く。


誰も反論しなかった。


その言葉は妙に重かった。


ノアは空になった酒瓶を見た。


ため息をつく。


「酒もないし」


と言う。


「魔物はいるし」


それからアルトを見る。


「勇者」


初めてそう呼んだ。


「暇?」


アルトは森を見る。


壊れた畑を見る。


レオを見る。


ミアを見る。


そしてノアを見る。


自分が暇なのかどうか。


よくわからなかった。


ノアは肩をすくめた。


「じゃあ魔物退治付き合って」


そう言った。


まるで散歩に誘うみたいに。


遠くで風が吹く。


倒れた麦が揺れていた。


アルトはその音を聞いていた。


三ヶ月前なら。


迷わなかった。


今は違う。


でも。


足は森の方を向いていた。


ノアはそれを見て笑った。


「やっぱり勇者だ」


と言った。


アルトは答えなかった。


ただ。


久しぶりに聖剣の柄へ手を置いた。


冷たい感触だった。


その隣では。


レオが木剣を握っていた。


傷だらけの木剣だった。


風が吹く。


麦が揺れる。


雲が流れる。


そして四人は森へ向かった。


後になってアルトは思う。


あの日出会ったのは魔女ではなかった。


人生の続きを知っている人間だったのだと。


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