婚約破棄にはアネモネを添えて、
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「生まれて初めて、愛するひとができたんだ」
大好きな婚約者にそう言われた時に、私は何を言えば良かったのだろう。
「ハンネのことは家族として好きだし、結婚するのが筋だって分かってはいるけど」
私は何も言えなかった。
笑顔を取り繕うこともできなかった。
「でも彼女さ、碌でもない男と結婚させられそうなんだよ。持参金がなくても構わないからって、身売り同然で嫁がされそうになってるんだ。助けてやりたいんだ」
私を恋人ではなく家族として好きだと突き放してから、愛する人を助けたいと同情を誘う彼に伝えたかった本心はなんだったのか。
「ハンネだって、心から好きな人と結婚したいだろう? いくらだって協力する。婚約破棄した後に俺なんかより良い縁談がくるように声掛けるからさ」
家族と恋人だけが呼んでいた私の愛称。
それを彼は家族として呼んでいた。
「一生のお願いだ。俺を許してくれないか? 頼むよ。お願いだからさ」
許す以外の選択肢を彼は与えない。
有無を言わさない空気をつくり上げていたのは無意識だったのだろうか。
未だに分からないけれど、そうであってほしい。
マレクは必死だったから致し方なかったはずなのだ。
「幸せに――なってね、マレク」
絞り出した私の声は震えていた。
それ以上に彼の声は昂る感情を表すように不安定だった。
頬が冷えて固かったから笑顔なんてつくれなかった。目からは涙も溢れてた。
それなのに、マレクは私に「ありがとう」と幸せそうに何度も繰り返して泣いていた。
彼の眼には私が祝福しているように映ったのかもしれないし、そう思い込みたかったのかもしれない。
そうすることで、長年付き合ってきた婚約者を捨てて愛する人と結ばれる後ろめたさを忘れたかっただろう。
量の違いはあれど同じ意味だと思っていた愛情は、蓋を開けば全くの別物だった。
私は知ることができたけど、彼は今も知らないまま。
マレクは婚約破棄する決断を許してもらうことしか頭になくて、私の気持ちにまで意識を向けていなかったから。
だから、知ってほしいのかもしれない。
愛する人と結ばれる幸せに私への罪悪感を残してほしいのかもしれない。
彼の心に苦い爪痕としてでも居座りたい。
私はずっと、一人の男性として彼を愛していたから。
「アネモネの花束をくださいな」
母がこの場にいたら絶対に買わせてはくれない花。
――今の私にお似合いの花。
儚い恋。恋の苦しみ。見放された。見捨てられた。
そんな暗い花言葉があるから、花を愛でる女性の間ではアネモネは倦厭されがちだ。
貴族の女性は庭園でお茶会を開くことが多いから庭師はアネモネの花を植えられなくて、可愛らしい花なのに王都の街並みのなかで時折目にする程度だった。
「アネモネ? あんま見かけない花……だよな?」
婚約破棄の噂が落ち着くまで家から出ないと言い張った私を無理矢理連れ出した兄は、花には無頓着だ。薔薇やチューリップといった定番で人気の花しか区別がつかないらしい。
「お兄様、アネモネは女性に贈ってはいけないわよ。嫌われちゃうからね」
両手いっぱいに抱えたアネモネの花束に顔を埋める。
香りは薄くてあまり感じないけれど、そこはかとなく爽やかで心地良い。
なにより色とりどりの花が可愛らしい。
「他にどこ行きたい」
「お兄様が連れ出したのに私に聞くの?」
「お前の気晴らしなんだからいいだろ」
王都で一番大きな花屋に連れてきてくれた時は感心したものだが、名誉ある騎士になれても女性の扱いを知らないのは変わらないようだ。
「それなら――――トレッセ湖の遊歩道を歩きたいわ」
家に戻りたい。
真っ先に思った考えを改める。
「いいのかよ。今の時間だと人目が気になるだろ」
「いいのよ、お兄様。早く行きましょう」
折角アネモネの花束を買ったのだから、見せつけてしまえばいいのだ。
トレッセ湖の遊歩道は朝から昼にかけて、貴族の若い男女とお目付け役の夫人が優雅にお喋りを楽しむ定番の場所。
婚約破棄をされたばかりの令嬢がアネモネの花束を抱えていたら、矢継ぎ早に大きな虚構が加わった噂話として社交界に広まっていくことだろう。
愛する人から見捨てられた傷心中の子爵令嬢――そうマレクの耳に入ったら、マレクは愛の違いに気づいてくれるだろうか。
自暴自棄になった私は、人の流れに逆らってずかずかと歩き出す。
「おい! 先に行くなよ。――――待てって、ハンネ!!」
背後から兄の声が聞こえる。
どうせ兄は逸れずに追いかけてくるから、私は足を止めない。
前を歩く人たちは身なりが貴族然とした私に道を開けてくれるけれど、大きな花束のせいで足元が見えていなかった。
「キャっ――――!!」
パンプスの爪先が何かに引っ掛かって、前のめりに崩れ落ちる。
(転んじゃう!!)
受け身を取りたくて、両手で抱えていた花束を投げ出すように手を離す。
顔だけは守ろうと思ったけれど、地面に叩きつけられる衝撃は何秒経っても来なかった。
(どうして……)
頑なに目を瞑った暗い視界に光を通す。
真っ先に見えたのは必死に伸ばした自分の両手。
それから、首ごと顔を下に向けると、自分ではない誰かの逞しい腕。
左肩を大きな手のひらで包まれていて、腕一本で支えられていた。
「あ、ありがとう……ございます……」
ばくばくと鳴る心音と同期するように上がる息に声をのせた、ぎこちない礼だった。
同時に助けてくれた人物と顔を合わせようと首を回して、その距離の近さに心臓が跳ねた。
均整の取れた、顔立ちの良い男だった。
意志の強そうな凛々しい眉に、柔らかな印象を与える澄んだ目元。
無駄な肉のない骨格に、弧を描いた優しそうな唇。
アンバランスさを感じるのにまとまりのある綺麗な顔をした、それでいて逞しく力強い腕を持った殿方である。
気を引き締めていてもぼやけた顔のマレクとは違うわ、なんて比べてしまった。
「お怪我はありませんか?」
「はい。貴方のおかげです。ありがとうございました」
彼に支えられて体勢を立て直した私は乱れた髪と服をさっと直して、改めて礼をする。
「なら良かった。花束もどうぞ」
どうやら彼はもう片方の手で上手いことキャッチしていたらしい。
差し出された花束を受け取って、吐き出したくなる息を押し留めた私は、改めて礼をしなければと満開に咲くアネモネの花から彼へと向き直る。
「貴女によく似合っていますね。どちらも無事で安心しました」
感謝を伝えるために笑みを取り繕った私に、彼はそう口にした。
(私に似合ってる)
じわり。
目の奥が熱くなって、咄嗟に下を向く。
視界に色とりどりのアネモネが広がった。
「最低……」
私にお似合いの花。
自分だけでなく、赤の他人からもそう見えるらしい。
「今なんと?」
「ハンネ! ようやく……!!」
彼と兄の声が重なる。
どちらの言葉もはっきりと聞こえたけれど、片方は聞こえなかったことにした。
「お兄様。私が転びそうになったところをこの方が助けてくださったの」
「はあ!? すみません、妹を助けていただいてありがとうございました。何かお礼を――」
「大したことはしていません。お気になさらなくて結構ですよ」
「だそうよ。帰りましょう、お兄様」
目を合わせずに深々と礼をして、そのまま来た道へと振り返る。
「は? おい、待てって! また転ぶぞ!」
「勝手な妹ですみません」と兄が口早に謝っていても、どたどたと走る音が響いても、私は足を止めなかった。
転びかけたばかりなのに、足元に注意を払いながら歩くことができずにいた。
そうしないと、視界を覆いつくした涙が零れ落ちてしまいそうだった――……
◇◇◇
カーテンを閉め切った部屋で、分厚い布団に潜りこんで、涙で湿った空気を吸う。
朝も昼も晩も、食事で起こされる時以外は鬱屈とした日々を送っていた。
涙は枯れてくれないから、それで良かったのに。
「いつまでそうやって不機嫌顔でいるつもりだ」
「お兄様は私を笑い者にしたいの?」
カタカタと揺れる馬車に私と兄は向かい合って座っている。
行先は名の知れた伯爵家が主催する夜会だ。
普段ならお目付け役は母だけど、不思議なことに兄が自ら手を挙げたらしい。
未婚の友人を紹介してもらいなさい、と母は嬉しそうに私を送り出した。
「お前が言ったんだろ。決められた婚約者だから好きになろうとしてただけだって。自分で嘘吐いたなら潔く貫けよ」
私も頭では理解している。
婚約破棄をされると伝えた途端、マレクの家に殴りかかりにいきそうだった両親と兄を止めたのは私。
家族の誰も信じない嘘を強く言い放ったのも私。
それでも――
まだ心の準備ができていないのだ。
既に私とマレクの婚約破棄が知れ渡って、マレクの新たな婚約発表も終えて。
それからひと月も経っている。
私はその間一度も社交の場に顔を出していない。
時間が経てば経つほど“愛する婚約者に捨てられた憐れな子爵令嬢”と噂されると分かっていても、部屋から踏み出す勇気をもてずにいた。
私にお似合いなアネモネの花。
自分で自分を傷つけているくせに、他人から同じ言葉を投げつけられるのは耐えられないと知ってしまったから。
「ハンネ、よく聞け」
俯いてばかりの私の両肩を兄が掴む。
いつもは加減してくれるのに、今日は痛みに苦言を呈したくなるほど力強かった。
「お前は笑い者になんかならない。俺もいるからな」
「何それ」
兄はいずれ爵位を受け継ぐとはいえ、所詮ただの子爵位だ。
(名門伯爵家が開催する夜会なんだから気休めにもならないわよ)
そう思って呆れ笑いはできたのだから、兄の戦略勝ちなのかもしれない。
◇◇◇
「お兄様、私休みたい……」
天井を埋め尽くす煌びやかなシャンデリアの明かりが目に痛い。
長いこと暗い部屋に籠っていた後遺症のようなものだ。
人目を無視して愛想よく微笑み続けるだけでも一苦労なのに、眩い光のせいで涙が出そうになる。
「まだたった数分しか経ってないだろうが。もう少しでいいから我慢してくれ」
夜会のホールに入場してからというもの、兄は視線を右へ左へと彷徨わせている。
私に紹介できそうな友人でも探しているに違いない。
相手にとってはいい迷惑だろう。
婚約破棄されてから初めて顔を出した子爵令嬢と真っ先に接したら、どんな噂が立つか分からないではないか。
目が合えば感じの良い微笑みで会釈されるけれど、視界の隅では扇で口元を隠してひそひそと会話する令嬢や感じの悪い笑みを浮かべた令息がわんさかいる。
私の目にはそう見えてしまう。
兄の腕に添えた右手がカタカタと震える。
兄は気づいて知らぬふりをしているのだろうか。
少しだけでいいから暗闇に逃げてしまいたくて、気づかれない程度に俯いて瞼を閉じる。
5秒だけ。
1、2、3と気持ちゆっくりに数を数えていると「お会いできて光栄です、シグルド様」と畏まった兄の声が耳に届いた。
(とうとう憐れなご友人が現われてしまったのね)
5秒を待っていられない状況を悲しく思いながら瞼を開く。
「こちらこそ会えて良かった。よければ、そちらのご令嬢を紹介していただけるかな?」
「――っ!!」
見上げて、記憶に残る顔と声に息を張る。
素っ頓狂な声を上げなかった自分を褒めたくなった。
「勿論です。私の妹のハンレーネです」
「シグルド・サンシモンです。こうしてお会いできて光栄です、ハンレーネ嬢」
「初めまして」
事務的に決められた流れの挨拶をしながらも、じわじわと目頭が熱くなるのを感じる。
脳裏では枯れ果てたアネモネの花を思い出していた。
私にとてもよく似た花。
花瓶に生けて飾っていたけれど、涙を流すように花弁をテーブルの上に散らして、干乾びて萎れていった姿まで似ている。
だから捨てられずに、そのまま今も残してる。
メイドに「捨てないで」と頼んだ時に、マレクに告げれたら良かったのにと思ってしまったから。
(私は会いたくなんてなかったのに)
貴族の爵位は身なりで察せられる。
それを実感できるほどに、初対面の彼が身につけていた衣服も胸元を飾るピンブローチも上等な代物だった。
きっと、何が何でも礼をする機会を得ようと兄が探し当てたのだ。
(会話が終わるまでお兄様の背中に隠れていよう)
気が弱いご令嬢や、関わりたくない殿方を前にした令嬢が使う奥の手だ。
奥の手だけれど頻繁に見かける行為だから、私がしても問題はない。
「少しの間、ご令嬢をお借りしても良いかな。ダンスの相手を申し込みたいのだけれど」
「ええ、是非。是非とも妹と踊ってください」
そう思ったのに、兄は私の背を前へと押し出す。
「私と踊っていただけますか? ハンレーネ嬢」
逃げ道がなくなった私は差し出された手を取るしかなくて。
「ええ、是非」と。兄のように繰り返すことしかできなかった。
◇◇◇
「あの日の謝罪をさせていただきたい」
流れる音楽に合わせて踊り始めるなり、彼は閉じていた口を開いた。
「花束の意味を知っていたら決して口にはしませんでした。私が無知だった故に、貴女を傷つけてしまいましたね。それに随分と謝罪が遅くなってしまった。本当に申し訳ない」
眼差しだけでも彼の深い反省がひしひしと伝わってきて、私は慌てて頭を振る。
「私こそ貴方に口汚い言葉を話してしまったこと、お詫びいたします。感情的になってしまって、お恥ずかしい限りです」
兄のように花言葉に無頓着な殿方は多いと聞くし、そもそも互いの名も知らなかったのだ。
彼の気遣いからくるお世辞に勝手に傷ついて、感情のままに「最低」と非難してしまった。
謝るべきは私であって、彼ではない。
それなのに感傷に浸ってばかりで、彼が切り出すまで物言えずにいた。
「思い当たる節が私にはありませんよ、ハンレーネ嬢」
伏せていた視線が交わる。
柔らかな印象を与える彼の瞳が私の愚行を許してくれるから、申し訳なさばかりが気持ちを満たす。
「それでも心苦しいのでしたら、私を許してもらえませんか? ハンレーネ嬢に私との時間を楽しんでいただきたい」
そんな私に彼は言葉を付け足した。
茶目っ気のある声音が彼の口から出るとは思っておらず、長いこと冷え固まっていた頬が綻ぶ。
「ありがとうございます、シグルド様」
一度笑ってしまうと、自分自身に驚いてふふっと笑みを漏らす。
ほんの一時でもマレクを忘れて楽しめた。
呼吸すら辛い胸の重しが軽くなったように感じてしまった。
「こちらこそ。笑顔が見れて何よりです」
背の高い彼と目を合わせると、必然的にシャンデリアの光が差し込む。
目が痛くなる眩しさもいつの間にか苦ではない。
「兄とはいつお知り合いに?」
「二日前の夜会です。貴女に謝罪をするためにも、まずは兄君に許可をいただかなければと思いまして。ご挨拶できて安心しましたよ」
「兄がシグルド様を探し回ったのではないのですか!?」
「いえ、兄君も私を探してくださっていたようですね。ご丁寧に『あの日の礼をしたい』と仰るので、こうして貴女に会う機会を用意してもらいました」
「まあ、そうでしたか……」
それで昨日「夜会に行くぞ!」と唐突に部屋の扉を叩いてきたのか。
お目付け役を引き受けたのにもしっかりと理由があったと知って、不思議だった兄の行動に納得がいく。
「兄君は貴女を『ハンネ』と呼んでおりましたから、長いこと『ハンネ嬢』を探していたんです。なかなか貴女に辿りつけなくて肝を冷やしておりました」
「まあ……家族が呼ぶ愛称なんです。ハンレーネって呼びにくいですよね。自分でも思います」
謝罪を口にしようとして、否定する彼の瞳に言葉を変えた。
「呼びにくいとは私は思いませんでしたよ。響きの綺麗な名前ですね」
「あ、りがとうございます」
会話を重ねる度に彼の優しさを知っていく。
後ろ指刺さることを覚悟していた夜会で、こんなにも優しく接してくれる人がいるとは思ってもみなかったから、じわりと、これまでとは異なる感情から目頭が熱くなり始める。
(もう少し、シグルド様と話をしていたい)
終わりを予感させる音色に「まだ止まないで」と願ったけれど、華やかな和音が余韻を残して締めくくる。
ぴたりと止まった互いの足を残念に思ってしまった。
次の曲が始まるまでの数秒。
その間に次のダンス相手の元へ行って、新たなパートナーとホール中央に戻ってくるのだけれど、彼のエスコートは始まらなかった。
「シグルド様?」
ホールの端に立つ群衆へと彷徨わせていた視線がある一点で止まる。
気になって私も彼の視線を追いかけると、兄がいた。
私のお目付け役として来ている兄は誰とも踊らずに私の動向を見守ってくれている。
(どうしたのかしら)
昨日今日知り合ったばかりなのに、目で会話ができているのだろうか。
彼から兄へ行ったり来たり彷徨わせていた視線が彼に止まった時に澄んだ瞳と目が合った。
柔らかく微笑まれて、右手を彼の口元まで導かれる。
「もう一曲、私と踊ってくださいますか? ハンレーネ嬢」
どきり、と胸が高鳴る。
マレクから二曲目を誘われたことがあっただろうか?
(思い出せないわ……)
ダンスのレッスンではいつも二人で踊っていた。
けれど、社交の場で、煌びやかなドレスと着飾ったスーツ姿で踊り続けたことがあっただろうか?
一曲目はパートナーとして欠かさず踊っていたけれど、マレクにとってはただの義務だったのかもしれない。
(この会場にマレクはいる?)
彼と私が二曲続けて踊っている姿を見て、何を感じるのだろうか。
そもそも‟生まれて初めて愛した人”と参加する夜会で、私に気づくのだろうか。
(苦しい)
目頭が熱い。喉が熱くて痛い。首を絞められるような閉塞感に息が浅くなる。
「――……ッ!」
「ハンレーネ嬢」
喘ぐような息に柔らかな彼の音が重なるから、不思議と笑みが溢れた。
「笑ってくださいましたね。私と踊ってくださると考えて良いですね」
彼の手のひらは大きくて温かだ。
軽く抱きしめるように背を撫でられると、それだけで荒くなった呼吸が落ち着いてしまう。
「もう少し、貴女と二人で話をしたいと思っていたのです。私は欲張りなので一曲では足りませんでした」
彼のことはまだ知らないけれど、それでもはっきりとした返答を待たずに進めていく言葉選びを珍しく思った。
そうした些細な愛嬌が私の張り詰めた感情を和ませてくれるから、穏やかな気持ちで、チェロの低音から始まるワルツに合わせて踊り出す。
「私も少し、思ってしまいました」
彼と同じ気持ちを抱いたけれど、それはマレクを思い出すまでの一瞬だったから「ほんの少しだけですよ」と繰り返す。
それでも彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
(私は、逃げたいだけなのかしら)
彼といるとマレクを忘れられる。
毎日毎日恨めしくも想い続けてしまうから、彼を利用して休憩をしたいのかも――
(最低)
彼に投げつけた言葉。
私自身に向けるべきだったのに。
「ハンレーネ嬢。アネモネの話をしても?」
気を抜くと下がってしまう視界を彼は言葉で優しく引き寄せて、落ちる思考から切り離してくれる。
なんだろうと瞼を瞬くと、疑問を感じ取った彼は目尻を垂らした。
「名前は知らずにいましたが、前々から気になっていたのです。私は様々な方から招待を受けるのですが、どの屋敷の庭園にも咲いていない。色鮮やかで可愛らしいのに勿体ないと思っていました」
「庭園の采配はご夫人方が担いますから、どうしても避けられてしまいますよね。お母様もアネモネは嫌がります」
彼は頷く。引き締めた口元が残念がっていた。
「見慣れないせいか、街を歩いていると目に留まります。丸みを帯びた姿が可愛らしいと思っていました。花弁が丸ごと一色のものや二色がくっきりと分かれているもの、徐々に色の濃淡が変わるものと、見ていて飽きません。庭園に植えないのは勿体ないと思いませんか?」
「ええ。私も、あの日初めてアネモネの花束を手に取りました。お母様が側にいなかったから初めて買えたんです」
彼は頷く。懐かしむような、幸せをお裾分けしてもらえる眼差し。
「貴女のことも、同様に勿体ないと思ってしまいました」
「え?」
彼の話は正確に耳に届くのに、意図が分からなかった。
「花束を大事に抱える姿に目が留まりました。慈しむようにアネモネの花を見下ろす貴女の眼差しは愛らしいのに、人の流れに逆らって歩く貴女は辛そうでした。今も、ふとした瞬間に悲しく俯く」
「それは」
「どうか笑ってください。花束を抱えた貴女はとても可愛らしかった。アネモネに向けていた眼差しを、私にも分けてはくれませんか」
彼は私に優しい。
「――思い出せません」
私を探していたと話していたから、私が婚約破棄されたことも、間を置かずにマレクが最愛の人と婚約したことも知っているに違いない。
(だから優しくしてくれるの?)
憐みでも良い。
彼は後ろ指を指して笑うような人ではないと信じてしまえるから、家族にすら話せないあの日の後悔が声になった。
「今の私によく似た花だと思って、自分で買ったんです。伝えることが出来ずに終わってしまった私の遅れた反抗心で、呪いのような告白だったんです。酷い話でしょう」
好きな人の幸せを願うことができず、爪痕を残したかった醜い心。
幸いにして、私がアネモネの花束を持っていたことは広まらなかったらしい。
母は安堵していたけれど、私は相反する気持ちが混ざり合っていた。
「それでも貴女はとても大事に胸に抱いていました。花を見ている間は花言葉なんて気にしていなかったはずです」
「そうでしょう?」と彼は自信に溢れた笑みを溢す。
そうだったのかな? なんて、記憶にない自分自身の感情を知りたくなった。
「思い出せないので、もう一度買ってみます。貴方が好きなアネモネを私も知りたくなりました」
綻んで頷いていた彼は「ああ、いけない」と声を上げる。
「お母君は好ましく思っていないのですよね」
端正な顔立ちの彼はいつだって様になる。
歯切れの悪い、凛々しい眉を寄せた苦々しい表情も格好良いから、つい微笑ましくなる。
「お兄様の休日に付き添ってもらいます。お兄様は花言葉に無頓着なんです。家に帰った時にお母様が悲鳴をあげても気にしていませんでしたよ」
「私だけではないと知れて少し安心しました。兄君の休暇はいつですか?」
「毎週、土曜日が休みです。ちょうど明日ですね」
「それなら、もしかするとお会いできるかもしれません。私は毎週あそこの通りの店に用があって通っていますから」
「では、またお会いするかもしれませんね。お会いしたら、お声がけしますね」
「私も貴女を見かけたら、声をかけます」
会う約束はしなかった。
今でもマレクが好きだから、婚約破棄されていても他の異性との約束なんてできない。
それでも、少しだけ。
ほんの少しだけ、彼に会える偶然を楽しみに思えた。
◇◇◇
週に1度、土曜日の朝10時に欠かさず通う店ができた。
王都で一番大きな花屋だ。
頼むのは決まってアネモネの花束だから「今日のお色はいかがいたしましょうか」と売り子の女性に顔を覚えられてしまったほど。
「今日は……この紫のアネモネで纏めてくださいな。とても綺麗な淡い色だわ」
「そうですよね! でも、これからが咲き時なので今は本数が少ないんです。白いアネモネと合わせた花束はどうでしょうか? 私のお勧めです」
「ええ。それでお願い」
「早速お造りしますね。お待ちくださいませ~」
「楽しみにしているわ」
「は~い!」
店の奥で作業している夫婦らしき男女に注文が伝わり、紫のアネモネを中心に白いアネモネやカスミソウを添えて花束を形作っていく。
他の客の邪魔にならないように脇に寄って眺めていた私は、賑わう雑踏の中で近づいてきた足音に耳を澄ませた。
「こんにちは、ハンレーネ嬢。またお会いしましたね」
隣でぴたりと止まって腰を屈めた彼の、お決まりの挨拶。
「こんにちは、シグルド様。また、お会いできましたね」
今日も偶然。
言葉で約束をしたことはないから、会えるかはその日になってみないと分からない。
それでも、朝10時にお店に着くようにすれば会えるのだと互いに知ってしまったから。
毎週欠かさず足を運んでアネモネの花束を私は買うし、彼はそんな私に声をかける。
「もう注文を終えたのですね。今日は何色を選びましたか?」
「秘密です。とても綺麗だったので、悩まずに決めました。シグルド様ならどの花で花束をつくりますか?」
「好きな花を教えてください」と言うと、彼は私の腰に手を添えて歩き出す。
種別毎に並んでいるから物色する客の立ち位置で人気の花が分かってしまう。
アネモネを選んでいる客はいつだって少ない。
「悩ましいですが、この紫のアネモネはこれまで見かけなかった気がします。色味が柔らかくて落ち着いた印象が気に入りました」
彼が指差したのは私が選んだ花だったから、笑みを隠し切れないほどに嬉しくなった。
「一層楽しみになりました。ハンレーネ嬢にきっとよく似合う」
「これから咲き時を迎えるそうですよ。折角なので、来週はドレスの色味も揃えてみようかと思ってしまいました」
「それは見逃したら悔やまれますね。来週も運良くお会いできることを期待しています」
「お会いしたら、また声をかけてくださいね」
泣いてばかりだった心が軽くなって、口約束に限りなく近い会話を素直に喜べるようになった。
花弁が散って色褪せたアネモネを捨てられるようになって。
マレクを思い出す時間も今ではすっかりなくなった。
終わった恋で満たしていた心を空にして、新たな恋を芽生えさせても良いのだろうかと。
そう思えるところまできていたのに。
「――ハンネ」
私を呼ぶ声は、花屋の向かいのカフェテラスで待つ兄ではなかった。
今では家族しか呼ばない私の愛称。
それを当然のように口にする、他人になってしまった人の声。
「……マレク」
唇を噛みしめて振り返る。
手のひらをあてた心臓はどくどくと激しく波打っていて、痛いほどだった。
怒りを露わにしていてもぼやけた顔立ちのマレクを前に、震える唇を噛みしめる。
「お前、俺のことが好きだったのか?」
嘘だろ、と物語っていた。
嘘であってくれ、と願っていた。
彼の眼光は誰の目にも分かるくらい私を非難していた。
「わ、私……」
一心に向けられたマレクの視線が怖い。
興味津々に足を止める人々の視線が恐ろしい。
始めの一度は、マレクに恨まれてでも知らせたかった遠回りな告白だった。
それなのに、彼に会うために通い詰めていたら当初の目的を忘れてしまっていた。
悲しい花言葉なんて、どうでもよくなっていた。
「私は」
張り裂けそうな胸の痛みと、締め付けられる喉の閉塞感に息が上がる。
無数の視線から逃れるために俯くはずだった私の顔は、隣に立つ彼を見上げていた。
瞬間、広い胸の奥へと頭をおさえて抱きしめられる。
優しく広がる心音が直に響いて、堪え切れない涙が溢れた。
「どなたか存じませんが、私の恋人に可笑しなことを仰らないでいただきたい。何様のつもりですか」
私に優しく語りかける時とは真逆の、鋭く尖った口調だった。
私を守るといってくれるような優しい彼の声。
(好きになってもいいの?)
彼の優しさが単なる憐みではないと、当の昔に知っている。
喉奥が甘く震えた。
心臓が飛び出そうなほど幸せな苦しさに塗り替えられてしまった。
「何様もなにも、俺はそいつの――!!」
大勢の人が行き交って普段なら賑やかな朝の通り。
人の熱気はあるのに音だけは閑散とした街中で、ドゴッと鈍い音が響き渡る。
「俺の妹に近づくなつっただろうが! この野郎!」
滅多に聞かない兄の怒鳴り声が、マレクの苦痛に満ちた唸りを掻き消す。
けれど、彼の胸板で視界を覆われた私には耳に入る音でしか状況が分からない。
「行きましょう、ハンレーネ嬢」
耳元に落とされた彼の囁き。
息遣いまでも鮮明に耳に残った。
視界を覆われたまま彼のエスコートに従って数歩。
頭を優しく包み込む手のひらが離れて「目を開けて良いですよ」と言われると、今度は白と紫のアネモネで視界が埋め尽くされてしまう。
「落とさないように大事に抱えていてくださいね。エスコートは私に任せて」
次第に大きくなる喧騒から離れるように彼は路地裏を選んで進み、トレッセ湖沿いの遊歩道へと抜ける。
太陽の光を反射する白い水面も、柔らかな眼差しで見つめてくれる彼も眩しかった。
「やはり貴女によく似合う。泣いていては勿体ないですが、そんな貴女も可愛らしいから困ってしまいます。涙を流すのは私の前でだけにしてくださいませんか」
そう言って彼が抱きしめてくれるから、嬉しさが涙に変わって止まってくれなかった。
――私と彼の交際が噂に上るのは、その日の出来事である。
◇◇◇
一年の婚約期間を経て、私たちは式を挙げることになった。
式場を彩るのは色とりどりのアネモネの花だ。
母は結婚式にアネモネの花を飾るなんて前代未聞だと騒いでいたけれど、私たちにとっては特別だった。
アネモネの花言葉は儚い恋。恋の苦しみ。見放された。見捨てられた。
悲しいものばかりだけれど、色次第では明るい花言葉もあるらしい。
それに、私たち二人だけの花言葉をつくっても良いのかもしれない。
「シグルド様――――」
愛に溢れた言葉をひとつ、ふたつと足していって。
愛に溢れた庭園で、彼と笑い合いたい。
彼のおかげで、そんな日々を過ごしたいと思えるようになれた――