アリシア(1)
あぁ、また……
巷で大流行の小説のワンシーンですわ。
王立サファスレート学園の中庭で、アリシア・セヴィニーは目の前に立つ子息たちを眺めて嘆息した。
ジークハルト・ディル・サファスレート第二王子が、ピンク色の髪の男爵令嬢の肩を抱き寄せながら、こちらを睨んでいる。
その側には、アルフレッド・グラント公爵子息とヒース・ライドン伯爵子息が、そして四人の背後にはアリシアの婚約者であるリアム・ルーズヴェルト侯爵子息が……
アリシアはそっと目を伏せるようにして、対峙している令嬢たちをうかがった。
ジークハルトの婚約者である、ヴァレンティーナ・デジュネレス公爵令嬢は感情をひとつも漏らさない優雅な微笑みを浮かべており、アルフレッドの婚約者であるエミーリア・マクファーソン侯爵令嬢も自然な表情のまま静観している。ヒースの婚約者であるマーガレット・ラムレイ伯爵令嬢だけが小馬鹿にしたような顔をして、唇の端をつり上げていた。
ジークハルトの声が中庭に響く。
「貴様らは、マリアのことを庶民あがりの卑しい女だと蔑み、本を破くなどの嫌がらせをしていたであろう?」
「そのようなことはしておりません」
「こちらには、貴様らがマリアの本を破いたという証言もあるのだ!」
「その証言をされた方はどなたですの?」
ヴァレンティーナの声は、憤るジークハルトと対照的で柔らかだ。
「マリアだ」
「まぁ! ご本人が……」
チラリ、と――
ヴァレンティーナは、初めてその存在に気付いたかのように一瞬だけマリアに視線を流し、静かにジークハルトの元へ戻した。
「そうして澄ました顔をしていられるのも今だけだ。私といつまでも婚約関係でいられると思うなよ?」
「どういう意味でございましょう?」
「さぁな。少しは足りない頭で考えたらいい」
そう言って、マリアの肩を抱いたまま去って行った。
去り際にリアムがこちらを見ていたが、気付かないフリをした。
彼がどんな表情で自分を見ているのか。それを知るのは怖かったから。
立ち去ったジークハルトたちが見えなくなると、誰ともなく溜息が漏れる。
濃い疲労感が四人を包んだ。
「まさか本当に、婚約破棄だーって、やるつもりかしら? 理由は? 浮気相手を愚弄した罪? かっこ冤罪?」
憤慨するマーガレットに、アリシアだけでなくヴァレンティーナもエミーリアも苦笑するしかなかった。
アリシアたちはジークハルトとその側近の婚約者として幼い頃から交流を深めており、今では気のおけない仲でもある。本音も漏れるというもの。
マリアがジークハルトにまとわりつくようになってから突然、マリアの物が無くなったと言って、先ほどのようなやり取りがなされるようになったのだから、文句の一つも言いたくなるだろう。
ジークハルトはなぜアリシアたちがやったと決めつけているのだろう?
リアム達がジークハルトに、婚約者でもない令嬢を安易に近付けているのも不自然だ。
この不可解な行動が始まったのが、三週間前ということもあり、アリシアは多忙なリアムに理由を聞けないままでいる。
これではまるで、学園内で流行っている婚約破棄小説そのものではないか。
婚約破棄小説とは、前世持ちと呼ばれる、違う世界で生きた記憶を持った人が、市井から流行らせた小説で、王子と、庶民から貴族に養子として引き取られた令嬢が恋に落ちるというストーリーだ。
身分差のある二人が結ばれる様が、夢があると言われて人気になった。シンデレラストーリーと呼ぶらしいが、語源は不明。前世持ちの人の言葉ではないかと推測している。
王子の婚約者である令嬢は悪役令嬢と呼ばれ、ヒーローとヒロインの邪魔をする恋敵として欠かせない。また、王子の取り巻きである将来有望な見目麗しい子息たちは攻略対象と呼ばれ、ヒロインの優しさや、貴族らしくない無邪気な性格に惹かれる。
ヒーローたちは、先程のように悪役令嬢に釘を刺したりしながら、ヒロインと愛を育み、最終的には二人を邪魔し続ける悪役令嬢に対して、婚約破棄を宣言する。断罪シーンと呼ばれるそれは、物語の山場として欠かせないらしい。その後、攻略対象たちまでもが、彼らの婚約者たちと婚約破棄をしてヒロインを溺愛していく流れになるのだが――果たして、この物語をハッピーエンドと呼んでいいのか疑問ではある。
正式な婚約者がいるというのに、ヒーローたちは簡単に流され過ぎではないのか?
裏切られ傷ついた令嬢を、一方的に断罪するのは乱暴ではないのか?
なぜ攻略対象たちまで婚約を破棄するのか?
最後まで落ち着かない気持ちで読み終え、あまり好きにはなれなかった。
それでも、何か少しでも違う切り口で書かれた作品はないものかと、色々と婚約破棄小説を取り寄せて読んでみたが、読んでも読んでもひたすら苦いだけだった。
驚いたことに、貴族の子息子女らが通うこの学園で、婚約破棄小説をなぞったかのような『婚約破棄』が流行ってしまった。婚約破棄が流行るなどというのもどうかと思うが、流行ったとしか言いようがない。
大抵は親にたしなめられ、若気の至りとして婚約破棄などされずに終わるらしいが、実際に婚約破棄されてしまい、傷物と呼ばれる令嬢も出てしまっていると聞く。なんということだろう。
「本は破くものではなく、読むものよ。それに、マリア嬢の家名すら知りませんわ」
マーガレットの毒舌が止まらない。
学年も違う、貴族になったばかりの令嬢の家名はさすがにわからないと、アリシアも思った。
不穏な空気が漂うものの、具体的な対処法は四人で考えても見つからない。今後も静観しようという意見で一致した。
ヴァレンティーナとエミーリアとは中庭でわかれ、アリシアとマーガレットはその足で図書室へ向かった。
気になった本を抱え、ソファーへ腰を下ろす。
「まさかとは思っていたけど、あの様子だと本当に断罪なんてことになりかねないわね。そうなったら、アリシアはどうするの?」
「わたしは……お父様にお任せするわ。……破棄となると、次のお相手探しが難しくなるから申し訳ないけれど」
「そもそもそこよ、なんであっちの浮気で正当な婚約者である令嬢ばかり立場が悪くなるのよ? あの程度の理由、しかも身に覚えのないことで婚約破棄とか実際にあり得る?」
「……あり得ないと、思いたいけど」
アリシアはため息をついた。
ここ最近、断罪シーンを回避する強かな悪役令嬢の話が出はじめた。
逆襲小説と呼ばれている。
婚約破棄小説の流れを汲みつつ、婚約破棄までの流れの矛盾点を突き、断罪を回避し、自己の価値を高め、もっと条件のいい人と結婚したり、心移りなどなかったかのように反省した元の婚約者に溺愛されたりする。
悪役令嬢だけでなく、その家族や周りの人物まで救われる事が多く、アリシアとしても感情移入しやすかった。傷つく人が少ないところも好感が持てた。自分で人生を切り開いていく様は、心が躍り応援してしまう。
長い間待ち焦がれた、違う切り口の小説が現れたことに歓喜した。
もう少し早く出てきて浸透していたら、今の流行りは違うものになっていたかも——
小説にそこまですがるのもどうかと思うけれど。
「わたしはヒースと婚約破棄してもいいけど」
「そうなの? てっきりマーガレットはヒース様のことが好きなんだと思っていたわ」
マーガレットは騎士の出てくる物語が好きで、彼女自身も剣やら乗馬を得意としているぐらいなので、騎士団長子息のヒースとは気が合うのだと思っていた。
マーガレットはニヤリと笑って、アリシアに小声で囁く。
「わたしね、小さい頃から憧れてる人がいるの」
「そうなの?」
知らなかった。
マーガレットとはお互い伯爵令嬢ということもあり、四人の中でも特に仲が良く、それなりに秘密も打ち明けていると思っていた。
「だからその人以外は誰と結婚しても同じよ」
ある意味清々しい。
「アリシアこそ、リアム様のこと好きなの?」
マーガレットは、頬の横に垂らした赤い髪を指先にクルクル巻き付けながらニヤリと笑った。
「……わからないわ」
わからないのだ、本当に。
嫌いではない、決して。
さらりとした黒髪は緩く結って肩へと流し、琥珀色の瞳に、流れるように通った鼻筋の下に形のよい薄い唇。
絶妙なバランスの顔の造形に加えて所作は優美、次期侯爵で、次期宰相と呼ばれる秀才で社交界では常に人気ーーそれがリアムだ。
忙しい時は手紙を、余裕があれば会って他愛のない会話をし、誕生日には花とプレゼントをもらった。
それを喜ばしく思わないはずはない。
婚約者として及第点どころか、アリシアが婚約者であることに疑問すら感じるほど完璧だった。
貴族の結婚は家が取り決めるもの。
愛や恋ではなく信頼でつながっていくもの。
そう教えられ、厳しく育てられたアリシアは、今まで政略結婚そのものに疑問すら持たなかった。
それが当たり前だった。
リアムのことを、好きか嫌いかという視点で考えたことがなかった。
「わたしから見たら、貴方たちとてもお似合いだけど」
「そうかしら……」
リアム様とわたしが?
政略でなければ、わたしが選ばれることはなかったのに?
「まぁ、私たちは伯爵令嬢だからまだいいわね……。ヴァレンティーナ様たちは、相手の数も少なくなるし、大変よね」
マーガレットの呟きに言葉を失う。
公爵家や侯爵家の令嬢となると、釣り合いのとれる年齢の高位貴族の子息の数自体が少ない上に、いたとしても皆、婚約済みである。その上破棄後ともなれば、婚約者探しはさらに難しくなる。
感情を顔に出さないよう、アリシアよりもさらに厳しく躾けられたであろう二人の令嬢のことを思うと、鉛を飲み込んだような気持ちになった。王家や公爵家に嫁ぐために躾けられた彼女達の苦労は計り知れない。
マリアの肩を抱くジークハルトの顔が過ぎる。
あれがもし、リアムだったらーー
痛むような気がした胸を押さえ、アリシアは本に目を落とした。
文字はただ滑るように流れ、零れ落ちてしまった。