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二 林家の兄弟たち(四):梅洞と鳳岡(二)

 梅洞は二十二歳で、修史事業に主たる執筆者四人の一人として参加した。また二十四歳の四月に家塾の教育カリキュラムを構想、父に諮った上で自ら主導して実行に移した。その年の七月二十九日に結婚し、神田の本宅を譲られて妻との生活を始める。

 だがそのわずか五日後の八月四日、恐らくマラリヤの一種と思われる病を発症、高熱を発して意識不明となり、一進一退の闘病の末、九月一日に病没する。譫言に「家塾で大員長(全ての科で最上等となった者)になるまでは死ねない」と漏らしたと、鵞峰は梅洞を追悼する「西風涙露」に記す。

 修史事業では梅洞と同様に執筆者であった鳳岡だが、梅洞の発病後は仕事を休んで梅洞の看病に当たった。そして父に代わって兄の葬儀を取り仕切った鳳岡は、「これ以後、儒をもって任となすようになった」と鳳岡の息子で四代目榴岡(りゅうこう)は記している。

 その後の鳳岡の歩みについては先に述べたので繰り返さないが、林家の三代目として五代将軍綱吉に重用され、僧籍からの離脱を成し遂げた後、六代・七代将軍の時期の新井白石との確執、そして八代吉宗の代での復権という政治的変遷を乗り切り、八十一歳で職を辞して隠居、八十九歳で没した。素朴で花を愛し、林家を誹る者があっても「学問には批判も薬石」と争わず、門生も来る者拒まず去る者追わずという、温厚で控えめな性格だったという。そして自らを「拙」であったと記す。「学びて成す所なく、仕えて致す所なし。企図は遂げられず、言葉は達せず、門弟を評することも、人を導くことも出来なかった」。鳳岡の晩年の述懐である。どこか不器用な三代目の姿が見えるように思う。


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