二 林家の兄弟たち(三):梅洞と鳳岡(一)
林家三代目、鳳岡には一歳年長の兄がいた。梅洞と号する。鵞峰が「羅山は梅洞を我が子以上に可愛がった」と言っており、幼少時から聡明で記憶力に優れていた梅洞を「この子は私に似ている」と喜んだという。羅山は単身赴任状態で徳川家に仕えた期間が長く、鵞峰と同居するようになったのは彼が十六歳になってからだった。それだけに江戸に落ち着き、六十歳を過ぎてから授かった内孫の日々の成長がことのほか嬉しく、また可愛かったのだろう。なお、羅山と梅洞はちょうど六十歳違いで同じ干支の生まれにあたり、羅山はそんなところも自慢にしていたらしい。頬笑ましいお祖父ちゃんぶりである。
鵞峰が頼りにしていた弟、読耕斎が没したのは梅洞が十九歳の時だった。梅洞はその代りを務めるかのように、鵞峰を助けて家業に邁進する。林家家塾の教育カリキュラムを整備したのはもっぱら梅洞だった、と鵞峰は記す。四六駢儷体を好み、書にも才能を発揮していたという梅洞を、鵞峰は亡き弟、読耕斎の面影と重ねていた。詩文でも四六駢儷体では読耕斎以上だったといい、また読耕斎の詩が「松柏が霜雪を凌ぐよう」だったのに対し、梅洞の詩は「春風が花にそよぐよう」「佳人が月に向かうよう」だったと賞する。そして読耕斎が厳しかったのに対し、梅洞は「剛なようで剛でなく、柔なようで柔ではなく、厳なるべき時には厳に、和するべき時には和し、人の長所はこれを褒め、その短所はこれを導いて捨てない」と評し、人格的に非常に優れていたことを繰り返し語っている。
また鵞峰は梅洞が、病弱なところや立ち居振る舞いの点で早世した読耕斎に似ていることを心配してもいた。だが目が弱く、そのために一時修史事業を休んだ梅洞を、早く仕事に戻るよう促したことを後悔する文章を書き残しており、基本的に自身頑健で勤勉だった鵞峰は、どこか弟や息子の弱さへの理解という点で行き届かない面があったのではないかという気もする。




