一 人物紹介(三) 林鳳岡
正保元年十二月、林鵞峰の次男として江戸に生まれる。長男梅洞は一歳年長である。才気煥発な兄梅洞の影に隠れがちであったが、二十三歳の時に兄が病死したため、嫡子として立つことになった。
その後は父を助けて史書の編纂や門弟の教育に当たり、三十七歳で父の死を受けて林家の三代目となる。鵞峰が死んだ五月五日のわずか三日後、四代将軍家綱が没し、儒学を愛好する徳川綱吉の代となり、鳳岡は彼に重用されることになる。
鳳岡は父の没後も上野忍岡に住んでいたが、綱吉の御用を務めるのに遠方では不便であったため、八重洲に宅地を賜り、再び城下で生活することになる。四十八歳の時には上野忍岡の聖堂も神田湯島に移され、六千坪の敷地に現在で言う「湯島聖堂」が営まれることになる。上野にあった家塾も新たに湯島に営まれ、後に「昌平坂学問所」と呼ばれる幕府運営の学問所となる。また、この湯島聖堂竣工の際、鳳岡は蓄髪を許され、従五位下「大学頭」に叙任されて僧籍を脱した。林家にとって大きな一歩であった。
鳳岡が六十六歳の時に綱吉が没する。その後の六代将軍家宣、七代将軍家継(四歳で就任、八歳で死去)の時期には、鳳岡は家宣と折り合いが悪く、また家宣が信任していた気鋭の儒者、新井白石(鳳岡より十三歳年少で、この時五十三歳)が家宣と組んで林家への攻勢を強めるなどしたため、鳳岡は息子榴岡と共に苦労する事になる。だが家継の後を継いだ八代将軍吉宗が、就任後に白石や間部詮房ら家継の側近を退けたため、鳳岡は再び御儒者筆頭として重んじられることになる。鳳岡は享保十七年、八十九歳の長命を全うして没した。
鳳岡は温厚質朴で控えめ、真面目な努力家であったと伝わる。彼が活動した時代、江戸では父鵞峰より三歳年少であった木下順庵門下の「木門」や、京をベースに江戸にも進出してきた、鵞峰と同年の山崎闇斎門下の「崎門」、鳳岡より二十二歳年少の荻生徂徠とその門下「蘐園」といった様々な流派の儒者たちが活躍し始めていた。また元禄文化と言われたように、江戸の文化水準の上昇は目覚ましく、林家が学問において「一頭地を抜く」権威である事は難しい時代になっていく。六代目に至って血統も絶えるが、他姓養子を迎えて林家は存続し、「林大学頭」は幕末を迎えることになる。林家の家塾がベースとなった「昌平坂学問所(昌平黌)」は、後には外部からも教授を迎え「寛政の三博士」と呼ばれた古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山や、佐藤一斎らが招かれ、旗本だけでなく各藩からも留学生を迎え、彼らの交流の場ともなった。




