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一 人物紹介(一)林羅山

一 人物紹介

 〇林羅山

 〇林鵞峰

 〇林鳳岡

 〇つれづれ話:林家と崎門

〇林羅山(1583-1657.3.7、天正11.8-明暦3.1.23)


 天正11年8月、京都四条新町に、林信時の長男として誕生。生後すぐ、本家である信時兄の吉勝の元に嫡男として養子に行った。林家は中流の商家で、米穀商を営んでいた。

 幼少の頃から読書家で、また読んだり聞いたりしたことを忘れない驚異的な記憶力を持ち、「ふくろ耳」と言われた。十三歳で元服後、京都五山の格式三位にあたる禅寺、祇園に程近い場所にある建仁寺に入り学問に励む。建仁寺は聡明なかれを見込んで禅僧にしようとしたが、羅山は承諾せず、家に戻ってしまった。その理由について、後に書かれた「行状」などでは、「僧になっては孝の道を尽くせないと考えたから」と書かれているが、鈴木氏は「寺という閉じた場所を出た方が活路が開ける予感がしたのでは」と書いている。寺にいたのは二年程度だった。

 家に戻った後も勉学を続け、特に儒学に惹かれて貪欲に学んでいく。十八歳頃には友人たちを集めて講義というか勉強会のようなものをしていたらしい。そして京都の町衆の依頼を受け、二十一歳で朱熹の『論語集注』の公開講義を行う。町衆の企画による、今でいうカルチャーセンター的なものの一環であったようで、他に遠藤宗務の『太平記』、松永貞徳の『徒然草』『百人一首』などの講座が開かれた(宇野)。

 当時、「四書五経」を朝廷の許可なく講義することは認められていなかった。四書五経の解釈は、博士家の師承であり、「秘伝」扱いだったのである。博士清原秀賢(二十九歳)はこの行為を朝廷に告訴し、朝廷は内大臣であった徳川家康に相談するが、家康は取り上げる必要はないと答えたという。羅山は中世的な閉鎖知が近世に至って世俗に広く開放されていく時代の流れの、最初期に生きた人物であったといえる。

 二十二歳で、知人に紹介を頼み、二十二歳年長の藤原惺窩と初めて会見する。惺窩は儒者として、関白秀次や徳川家康の知遇を得ていた高名な儒者であった。羅山は惺窩を師と仰ぎ、その門下の仲介で徳川家康に謁見、臣下の列に加わることになる。二十三歳の時だった。その後二十五歳で剃髪し、僧道春として家康に付き従い、天海や崇伝らと共にその諮問に与ることになる。幕府に仕えながら、蔵書の管理、武家諸法度の起草(文章化)、啓蒙書の執筆、儒学の講義、史書や氏族系譜の編纂、朝鮮通信使の応接といった役目に携わる。三十六歳の時には江戸に宅地を賜り、五十二歳で京から家族を呼び寄せ、共に暮らすようになる。家康から家綱まで、四代にわたって仕えた。

 公務の傍らというか公私を兼ねてというか、読書と書籍の収集に対する情熱は生涯変わらず、ピクニックに行っても書を読んでいて外も見なかったとか、帰宅すると着替えてすぐに朱筆を片手に読書を始め、夜も机に向かって読書をし、うたた寝をしてはまた起きて読むという具合で、臥して寝る事がなかったとか、非常に速読で、五行ずつ読み下しては積んでいったとか、様々な逸話が伝わる。明暦の大火で避難する際にも駕籠の中で読書をしており、避難先で書庫が焼失したと聞いて落胆して亡くなったとも伝わる。

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