八人目『埋める』
八人目→埋ノ江白那
「暑い中今日も来てくれて……本当にありがとうございます」
「ううん」
外は、昼間なのにも関わらず往来を通る人が殆どいないくらい暑かった。
それも盆が過ぎるまでの辛抱だと体に鞭打って、時々コンビニという名の避暑地で体を冷やしつつ、電車を使わずにここまで来た。
「あの……これ」
何んとなしに背中に忍ばせていたそれを彼女に渡す。
「わぁ……! 綺麗な花……」
彼女は満面の笑顔をこちらに向けてくれる。思わず僕も顔が綻んでしまう。
「わざわざありがとうございます……!」
「あ、い、いや」なんだか照れ臭くなって、頭を掻いた。「花屋の店先に並んだ色んな花を見てたら、買いたくなっちゃって」
「……? そうですか。所有欲が暴発しちゃったんですかね……?」
「ああ、うん」僕は頷いた。「まあ、そういうこと」
僕が何気なく忍ばせたボケには気づいてくれなかったようだ。万が一鋭い切り返しをされた時の応答は特に考えていなかったので、それはそれでよかった気もする。
いい曲なんだけどなぁ。
それから僕達は他愛のない話をした。夏休みの宿題の具合が佳境を迎えてきたこと。最近この辺りを通ったハイエースが法定速度をガン無視して通過していったこと。
太陽はじわじわと汗腺から噴き出してきた汗を乾かして、ジリジリと僕の肌を焼いた。日射病予防のキャップを被ってきたことに心底安心した。
一方で彼女は汗一つかかず、紫外線によって肌に赤みが差すようなこともなく、いつまでも澄ました顔をしていた。
「暑いですか?」
「そんなこと……ないけど?」
「額に汗を掻きながら言われても、説得力ありませんよ」
彼女はクスクス笑う。
僕は『じゃあ、そんな意地悪な質問しないでよ』という返答を、心に仕舞う。仕舞う代わりに。
「君は本当に、汗をかかないね」
「ええ」彼女は言った。「この体になってから、恩恵を感じてることもそこそこ、あるんですよ?」
「そっか」僕は即答した。「それは……うん、そうなんだ」
それはよかったね、なんて口が裂けても言えない。
彼女は胸を張る。
「そうなんです!」
「うん」
「――さん?」
「うん?」
「どうして貴方がそんな、悲しそうな顔してるんです?」
「へ?」
「笑った方がいいですよ?」
そっか。
そうだったのか。
僕――。
「そうだね。次は気を付ける」
次は、を強調したのは意識半分、無意識半分だろう。
「お願いします」
「うん。……それじゃあ」
「はい! ……あ、――さん?」
「うん?」
手を振って、踵を返そうとしたところを、彼女に止められる。
横断歩道の真ん中に立って、いつまでもそうしている、彼女に。
「もう……、いえ」彼女は言った。「何でもありません」
「そっか。……また来るよ」
「……はい。また」
そうして僕は今度こそ、回れ右をして元来た道を引き返していく。
彼女は何を言おうとしたのだろうか。「もう来なくてもいいですよ」的なニュアンスだったのだろうか。
でも、彼女が本心からその言葉が発せられるまでは、ここに通い続けることを、心に決めている。
「よっ、旦那!」
「葉隠」
「わざわざ死角の後ろから話しかけたのに、どうして私だって分かったの?」
「声で分かる」僕は胸と意味のない虚勢を張った。「余裕だ」
寿司屋の大将になりきって喋る知り合いが葉隠以外にいないからだ、という当然の指摘はしない。
しかし、夏休み中に葉隠に会うとは思ってもみなかった。確かに外を出歩けば、棒なりなんなり当たることは諺の知識として押さえているけれど、まさかそれが葉隠とは……。
「こんな往来で何してるんだ?」
「教えて欲しい?」
「うん」
「それはね~……」
……。
意味のない時間が流れる。
「やっぱり教えてあげない~」
「そっか」僕は顔に笑顔を張りつけながら言う。「じゃあね」
「待って待って! 教えて欲しいって聞いて頷いたんだから、もうちょっと粘ってよ!」
「なんだその手前勝手な理屈は……。そもそもなんでそんな勿体つけるような言い方したんだよ」
「え~。だって最近、陰のあるキャラが人気だって言うじゃん」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
そうなのらしい。
「でも、葉隠みたいに陰のある人、あんまりいないと思うけどな」
「アーアーキコエナーイ」
キコエナーイらしい。
お互いに暑すぎて、まとまった会話ができていないな……。
「まあ、次会った時はもうちょっと粘ってみるよ」
「うん! 是非そうして欲しい!」
「じゃあね」
「はーい……あ、」
「何?」
葉隠は何かを思い出したように、手のひらの上に拳をポンと打つ。
何だろう。
「あのさ……いや、又聞きの又聞きで耳に入ってきた噂だから、私が変なことを言ってるみたいだったら、変なこと言ってるなーって、言って欲しいんだけど」
「うん?」
「君が……その、ここから近くの交差点で、一人で喋ってるところを見た人がいるって話なんだけど……」葉隠は僕を見て言った。「本当?」
「……。見間違いじゃないかな?」
「あはは。やっぱりそだよね~。んじゃ!」
「うん」
葉隠は右手を上げて、どこかに行ってしまった。
僕は。
結局、変なこと言ってるなー、とは言えなかった。
だって、変なことは言っていなかったのだから。
彼女は。
彼女は、僕にだけ見える幽霊である。
暑さも感じない。ハイエースが突っ込んできても通過してしまう、ただの幽霊。
出会ったのはよりよい勉強環境を探しにいくため旅に出ていた、ちょうど二週間前のことだ。
そして今日から三週間前の新聞を見てみると、例の交差点で信号待ちをしていた少女が、安定性を失った大型トラックに跳ねられた事故について書かれた記事がある。
まるで信楽のように。
幸か不幸か、事故時のショックで、零体となった彼女の頭にはその悲惨な記憶が気づかれていない。
でも、その事実を知ってしまった時が、きっと彼女の最後であることには、何となく察しがついている。
「こんにちは」
「こんにちは」
だから。
だからせめて、その時までは。
「いつもありがとうございます」
「ううん。今日はたまたま、すぐ近くを通ったから」
僕は、彼女の寂しさを埋める役割を担いたいのだ。