六人目『相対する』
六人目→相沢詩乃
「ぐ……ぐぐ」
いや……。
「んん……」
どうしてそうなるのか。
それを知りたいだけなのに、一番知りたい部分が書かれていない。
話貞に諭されたとは言っても、分からないものは分からないし、イライラするものはイライラするものだ。自分の理解力と感情を、理性でどうのこうのできる人が世界中にいない……とは断言できないけれど、少なくともそれは僕じゃない。
「勉強?」
「っ!?」
耳元へ絶妙に近い距離で声が掛けられて、咄嗟に僕はその声のする方へ振り向いた。
すると同じく絶妙に近い距離で、どことなく眠たそうな表情の人が目に入って来る。
「あ、は……おお、」変な声が出た。「相沢さん」
「こんにちは」
「こんにちは……って相沢さん」
「?」
「距離が近いです……」
「そう……残念」
何が残念なのかは分からなかったけれど、確かに残念そうに眉をやや八の字に歪ませながら、僕の対面に腰を落ち着ける。
……僕の目をジッと見つづけたまま。気になる。気になるし、なんだか気まずい。
「あ……なんか、コーヒーでも頼みます?」
「ん、いい。……自分で頼むから」
「そうですか?」
「貴方は勉強に集中しなさい」
「あ、はい」いきなりの命令口調に、僕は頷くしかなかった。「ありがとう……ございます?」
それから相沢さんは、宣言通りブラックのコーヒーを注文して、僕は勉強の合間にカフェオレをあおる。
ちょっと贅沢かもしれないけれど、近くにある個人経営の喫茶店で勉強をすることが僕の日課だった。駅前のチェーン店はうるさすぎて勉強に集中できないし、部屋にいたらいたで小説が目についたり、食野さんにラーメン誘われたりでこれもまた気が散ってしまう(そして例によってラーメン屋に同行してしまう)。
そこで、落ち着いた空間を探しに出かけた結果、この喫茶店を見つけた。
そしてこの店のマスターと、この店の常連さんである――さんと知り合いになった。
前方から視線を感じる。
……なんとか意識を机の上の紙に戻す。
……。
……やっぱり気になる。
「あの、」
「?」
「どうして僕の顔ばかり見ているんです?」
「見ていて飽きないから」
「多分、僕の顔を見て飽きない人、相沢さん以外にいませんよ……」
「……褒められた?」
「褒めてません」僕は言った。「そんなキョトンとした顔で首を傾げないでください」
なんでもポジティブに受け取る能力を持っている人は、他の人に比べて幸せに違いないのだろうけれど、その能力を今発揮してほしくなかった。
「見られると気が散るので……やめて欲しいです」
「そう……残念」
やっぱり何が残念なのかは一切分からなかったけれど、無事僕は相沢さんの視線から逃れられることができた。
今度こそ、本当に紙に意識を傾ける。
分かる。分からない。解ける。解けない。解法が分からない。解法は合っているはずなのに、計算が合わない。
数学の問題を解く上で起こり得る事象を遍く網羅してると、一つの『解説書を見ても分からない』問題にぶち当たった。
んー……。
「手が止まってる」
手を止めていると、そのことを指摘した相沢さんと目が合う。
「はい。この問題、よく分からなくて」
「見せてもらってもいい?」
「いいですけど……」あまり失礼な言い方にならないよう心掛けながら、言う。「分かるんです?」
「うん……分かる」
ここまで断言されたら、こちらとしてはもう問題集を渡すしかない。『このページの問題の、143番です』と言いながら、僕はそれを渡した。
相沢さんは何も応じずにそれを手に取って、考える時の癖なのだろうか、左手の人差し指……の第二関節を唇に当てながら考え始めたようだった。
そして……相沢さんの眉が、徐々に八の字に曲がり始める。
あんまり雲行きはよくないようだ。
それから数分後、相沢さんは視線を上にあげて。
「ごめん……分からなかった」
「ああ、ああ、そうですよね」僕は言った。「正直、問題の設定がよく分からないんですよね、これ。それに、数学の問題するの久しぶりだったと思うし、やっぱり難しいですよね」
「ああ、そうじゃなくて」
相沢さんは言った。
「貴方は何が分からないのか、分からなくて」
「あっ……」
ああ、この人。
全然分かってたわ。むしろ熟知してたわ、熟知した上で、僕が何に躓いているのかが分からなくて、それに悩んでたんだわ。泣きそう。
「返してください……」
「分かったの?」
「はい……」相沢さんの頭がいいことが。「完膚なきまでに」
「そう……よかった」
その時に漏らした相沢さんの晴れやかな笑みは、心が沈んだ僕には眩しすぎて、直視することができなかった。