四人目『背負う』
四人目→瀬尾伊織
「ねぇ」
食野さんは今日は来なさそうだなぁ、とか、じゃあ今日の夕飯の献立は何にしよう、とか、訳もなく晩御飯のことをモヤモヤと考えながら席を立ったのと、ほぼ同時に声を掛けてきたのは同じクラスの瀬尾さんだった。
「その、あの、急なお願いで申し訳ないのだけれど」
生まれてからこの型国語のテストにおいて一位を譲ったことがない、という噂から膨らませたイメージと殆ど違わない、落ち着いた声音の大和撫子。
でも今はなんだか、額には汗を、そして顔には逼迫した表情を浮かべていた。
「うん、何? 僕にできることなら」
「今日、私を、その……お、」
「うん? お?」
「おぶって帰ってもらえないかしら……」
「……」
……え?
見た目に反してそう言ったプレイがお好きなんだろうか、なんて、不埒な考えが一瞬でも頭を過ったことが恥ずかしくなるくらい、瀬尾さんは本気だった。
「勉強すると……ほら、疲れるじゃない? なんとなく気持ちと頭が重いような気がしてくるし、体も怠くなった気持ち……分かる?」
「まあ……」僕は頷いた。「分かるよ」
「私は、その……勉強による疲れが、過剰に身体に影響してしまう体質だとお医者様から言われているわ。だから、思いっきり勉強した後は、まるでハーフマラソンを走り切ったような倦怠感に包まれるの」
ハーフマラソンを走ったことがあるのか。
意外と体力あるんだな……じゃなくて。
「つまり……ええと、精神的な疲れが、肉体的な疲れに置き換わる……って認識でいいのかな」
「ええ、ええ。そういう言い方もあるわね」
瀬尾さんは頷いた、ように感じた。
段々と瀬尾さんを背負う僕の影が伸びてきている、気がする。
「なんていうか、その、それは……とても大変だね」何を話せばよいのか分からなくて、思い付きを口に出す。「僕だったら、絶対に勉強してないや」
「うふふ、そんなことないわよ」
卑屈なことを言ってしまう僕を、笑って持ち上げてくれる瀬尾さん。見た構図は僕がひ弱な瀬尾さんを支えているような体勢になっていたけれど、精神的な年齢は、間違いなく僕は瀬尾さんに負けていた。
でも……それでも彼女は勉強している。
悩んだり、分からないことにイライラしたり、不親切な解説書に更にイライラさせられたり……何かと苦痛が伴う勉強をすることに対して、更に瀬尾さんは負荷をかけられている。
どうしてだろ――、
「ひゃん!」
「……っ!? う、お、」
僕は突然耳元で囁かれた嬌声に躓きそうになる、体勢をなんとか持ち直す。
心臓がバクバクしていた。顔もきっと赤い。瀬尾さんもかなり動揺していることが、背中越しに伝わって来る。
「え、な、何……僕なんかした?! ごめん、マジごめん!?」
「き、筋肉痛……」息も絶え絶えに、瀬尾さんは言う。「貴方の手が、筋肉痛の場所に当たって……変に反応してしまったわ。ごめんなさい、気にしないで」
「お、おぉ……そっか」
いや、全然気にするけどね!? 瀬尾さんが反応したのってどこに触れた時だっけ……ああ、分からない。さっきの声でビックリしすぎて、直近の記憶が全て吹っ飛んでしまったようだ……うう、気になって下手に背負い直せない。
にしても、筋肉痛まで発症するのか。いよいよ運動じみてきたぞ。
それに、尚更……やっぱり気になってしまって。
「瀬尾さんは、どうして勉強しているの?」
「楽しいからよ」
即答だった。いつの間にか、瀬尾さんらしい落ち着きをすっかり取り戻していたようだった。
「小説や、小論文を読んだりすると、色んな人の考えや、知識をもらうことができるでしょう? そうして知識を貯め込んでいる内に、分からないことが分かるようになる瞬間があるの」
分からないことが……分かるように、なる?
いまいち言葉が抽象的で、よく分からないな。
「そうすると……ほら、少なくともイライラすることはなくなる。だって、分かるから。その人の気持ちが、理解できる……から」
分からなくてイライラすることがなくなる……って、それは。
その解決方法は、今まで考えてみたことがなかった。
「そして、世界中の……とまでは言いすぎかもしれないけれど、周りの人を理解して、共感したり、許せる人に……私は、なりたい、の」
だから。
そう言ったっきり、彼女は僕の背中で言葉を発さなくなった。
ややあって、すぅすぅと安らかな寝息が聞こえてくる。
これもきっと肉体的な疲れによるものだろう。
彼女は。
彼女はそんな、途方のない目標のために勉強していたのか。
たった一人を理解することだって、東大の問題を解くよりも遥かに難しいはずなのに。自分自身のことだって、全てを理解しているはずがないのに。
それでも彼女は勉強することを止めなくて。
そして僕は、分からないことを解説書や問題のせいにして、勝手にイライラしている。
なんだか自分が情けなくなってきた。
……帰ったらちょっと、勉強してみるか。
そうしたらちょっとは、カッコいいことを言ってのけた僕の背中にいる彼女に近づけるかもしれないな。
そう思い直して、ようやく安心して背負い直すことができる彼女の位置を少しだけ上げて。
それから……えぇ?
えっと……。
「彼女の家、どこにあるか聞くの忘れた……」
勉強するには、まだもうちょっと、時間が掛りそうだ。