一人目『読む』
一人目→読町冬子
例えば時計の針が時間を刻む音だったり、クーラーから吹く風によって絶えずなびいているカーテンだったり、眼前にある文字列以外のモノに目移りするようになったタイミングが、その時間の終わりだ。
読書タイム。
義務教育で学んだこと以外、何も詰まっていない頭に教養を入れることを目的として始まったそれは、始まりから一か月経った今も案外続いていた。下校し、家路につき、自宅の玄関を跨いで、学校指定の鞄云々を丸々リビングに放り出し、ベッドの上で三角座りをしたら開始される、孤独な営み。
何かと刺激の強い外界から隔離された、孤独なその時間は好きだった。
好きだったん、だけど。
「……」
「……」
僕の隣で、細い脚を丸めながら、どことなく儚げな眼差しを、両手に持った小説に落としている少女が一人。
その小説は、先日僕が読破したもので……いや、今その説明はあまり重要じゃないな。
ええと。
その少女は、僕の隣の席に位置しているクラスメイトである。放課後になれば、会話を挟む余地すらなくサヨナラバイバイしているはずの少女が、短針が6を通過してもなお、僕の隣にいる。
「…………」
「…………」
きっかけは、確か。
『その本、面白い?』
僕があまりにも早く教室に着いてしまって、手持ち無沙汰で持参していた小説を眺めていた時だ。
『うん』僕は頷いた。『まだ最後まで読んでないけど、面白いよ』
『……そう』
その小説から目を離さず、彼女は言った。会話を終わらせるような彼女の相槌だったけれど、確かにその目は、僕が途中まで読んでいた小説に釘付けだった。
もしかしたら、落ち着いた雰囲気からして、よく本を読む子なのかもしれない。
もしかしたら、僕が読んでいた名前の知らない小説に、興味を持っているのかもしれない。
もしかしたら、その小説を、読んでみたいのかもしれない。
変な気を回した僕は、『読む?』と端的に聞いて。
『いいの?』と、これもまた端的に、彼女は上目遣いで返した。
それが、僕が読んだ本を余さず彼女が読む、ヘンテコな一方通行の関係の始まりだった。
「………………」
「………………終わった」
不意に、彼女は。
読んでいた本から目を話してから、僕の方を向く。
「え?」
「読み終わった」
「……あ、ああ」なるほど。僕は頷く。「面白かった?」
彼女は何も言わない。が、僕と同様に頷いた。
眉一つ表情の変化はないが、どうやら面白かったらしい。
「……次は」彼女は、僕が持っている小説を見ながら言う。「次は、何を読ませてくれるの?」
「ああ、いや、これは。これはまだ最後まで読んでなくて。それに今そこそこいいところだから、貸せそうにないな」
「……そう。残念」
……今。
少しだけ、眉が動いた気がする。
その一瞬の気づきを確かめる暇もなく、彼女は立ち上がった。ベッド横に投げ捨ててあった彼女の鞄を手に取って、ズルズルと引きずりながら、玄関へ向かう扉を目指している、ように見える。
「もう帰る?」
「ん」
「そっか」
「……」
「あの、さ」
「……?」
じゃあね、の代わりに僕の口から出た言葉は、彼女を立ち止まらせるには十分だったらしい。
体の方向は扉に向けたまま、夏の日差しを物ともしていない白い顔をこちらに向けている。
「どうして僕が読む本ばかり追って読むのか、聞いていい?」
この関係が始まってから、頭の片隅にいつもあった疑問を投げかけてみる。
「君が、自分が薦めた本以外の小説を読んでるとこ、見たことなくてさ。もちろん、裏では沢山の本を読んでるんだろうけど……でも、もしその中でオススメの本があったら、僕にも教えて欲しいな、なんて。なんというか、僕ばっかり薦めるのはなんだか、悪い気がして……」
投げかけられないまま、さながら彼女の持つ鞄のようにズルズル引きずったままだった一つの疑問。もちろん、自分の読む本が知られることが、恥ずかしさを通り越して、本当にダメな人がいることを僕は知っている。だからこそ、彼女は一体どういった人なのかを知りたかった。
しかし。
彼女の持っていた価値観は、僕が想定していたどのそれとも異なっていた。
「……読んでないよ?」
「……へ?」
「君から教えてもらった本だけ……だから」
耳を疑った。
僕が読んだ本しか読んだことが……ないだって?
「君が読まない本に……興味が湧く訳、ないもの」
「えっと……」
「私が読みたいのは、貴方が読む本だけ。……それで、いい?」
「……あ、ああ」
そこでようやく、彼女は僕に薄い笑顔を見せた。
その笑顔に、不覚にも僕はドキッとしてしまったのだ。
「じゃあ、また。……その本を読み終わったら、また、教えて」
「いや、全然……」
そして僕の、ワンテンポずれた返答は。
「よくないな……」
やさしく閉められた扉の音に、掻き消されてしまった。