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ガラスの檻

作者: 水平舟

「ゴリラがどうして絶滅の淵に追いやられたか、知ってる?」

 澪は言う。

「知らないけど」

 菊池は素直に答えた。

「ゴリラって胸を叩くじゃない。最初はね、あのポーズが戦いをする時の意思表示だって考えられていたの。それで皆、ゴリラは狂暴で争い好きな生き物だって思った。だから、ジャングルで遭遇したハンターが怖がって、たくさん撃ち殺しちゃったってわけ。でもホントは違った。むしろ正反対。ゴリラは群れのリーダー同士が出会ったときに、戦意がないことを示すために、胸を叩くの」

 淡々と語っていく澪は、締めくくりにこう言った。

「つまり、人間様の勘違いのせいで、ゴリラは虐殺される羽目になったのよ」

「……だから、何なんだよ!」

 痺れを切らして怒鳴った。そして、彼女は冷たく告げたのだった。

「あなたを愛していた。その勘違いが、私を殺そうとしているのよ」




 会社から帰宅した菊池を出迎える者はない。電気を点けると、薄暗い部屋の中央にダイニングテーブルと二つの椅子が現れた。その席が埋まることはもうない。食事の時に茶碗が二つ出ることも、会話が弾むことも、もはや過去の出来事だ。


 洗面所に行き、鏡の前に立つ。鏡が映す自分の顔は、顎に生えた無精髭以外、空っぽに見えた。髭を剃らないなんてみっともないという澪の注意が聞こえなくなってから、つい髭剃りを怠ってしまうようになった。




 菊池は背中を丸め、鏡に額をつけた。どうしてこうなってしまったんだろう、帰宅する度に考えずにはいられなかった。考えても答えに辿り着かないというのに、辿り着いたとしても、すでに手遅れだというのに。




 もし。




 もしまた彼女に会えるなら、今度こそきちんとした夫でいたい。




 今度こそ、彼女をちゃんと愛したい。

 だが、願っても現実は変わらない。自分が願う「もし」の瞬間は、永遠に訪れない。




 やりきれない悲しみがせり上がってきて、我慢できずに右手で鏡を殴りつけた。拳に込めた感情がぶちまけられ、鏡面にはヒビが入り、粉々に——。




 ならなかった。




 驚いて顔を上げると、そこでは奇妙な現象が起きていた。




 鏡の中に自分の手が埋まっている。重くて不気味な感覚は、水銀に手を突っ込んだようだった。とっさに引き抜こうとするが、何故か抜けない。むしろ、鏡の向こうから引っ張られているような気がする。




「う、う、うわああああああ!」




 ガクンと前のめりになり、重力に逆らって体が浮き上がった。そのままぐいっと腕を引っ張られ、菊池は鏡の中へと入って行った——。




 ガッシャーン!




 鏡を抜けると重力が戻り、菊池は床に落ちた。全身を硬い床に打ちつけ、「ううっ!」うめき声が出る。

 痛みを堪えて立ち上がりかけると、何やらリビングの方から足音がした。やけに慌ただしい足取りで、こっちへ近づいている。

 足音の大きさが最高に達すると、横開きのドアが開く。




「大丈夫!?」




 飛び込んできたのは、他でもない自分の妻、澪だった。




「……ええっ!」

 長い黒髪に鋭い瞳、凛とした声。間違いない、澪だ。澪がいる。澪がこの家にいる!




「あ、え、えっと、み、澪? だよな」

 金魚のように口をパクパクさせる菊地に、澪はため息をついた。

「どうしたのよ、そんなに驚いて」

「え、いやだって、え、お前はもういないはず……」

「はぁ。何寝ぼけたこと言ってるのよ。私は一度も、この家を居なくなったことなんてありません」

 澪は最後の部分の語調を強めた。彼女の独特の口調、それを聞けただけで涙が溢れそうになった。

 と、ふいに室内の違和感を覚え、周囲を見回すと異常に気づいた。さっきまでと洗濯機の位置が違う。洗面台の右にあったのが、どういうことか左にあった。

「ほら、もう出来てるからご飯食べましょ?」

 疑問符で頭を抱えたくなるも、彼女に言われるがまま食堂へ行く。

 いつの間にか電灯が点いていた食堂に座り、いつの間にか用意されていた料理に手をつける。まず味噌汁を飲む。

 確かに、澪の料理の味だった。

「えっ、何々ちょっと泣かないでよ」

 向かい合ってご飯を食べる澪に言われる。

「う……何でもない」

 涙を拭いて、菊池は食べ続けた。何日か振りに味のある食事だった。






 それから一週間暮らして、いくつかのことに気づいた。

 まず、自宅の家具の位置が若干ずれていた。会社の受付が違う人になっていた。テレビのニュースは、起きていないはずの殺人事件を連日取り上げていた。




 そして、澪が家に居た。




 その末に辿り着いたのは、どうやらここは別世界らしい、という結論だった。決して妄想ではない。日付は前の世界と同じだから、過去に遡ったのではなく、別世界に入り込んでしまったと考えるのが妥当と思える。あまりにも荒唐無稽過ぎる発想だが、そうとしか考えられなかった。それに、原因も思い当たる。

 洗面所の鏡だ。あれ以外に原因になりそうなものはない。自分は要するに、鏡の国のアリスになってしまったのだ。おっさんだけど。




 だが菊池は、まだ帰ろうという気にはならなかった。それどころか永遠にこの世界に居たいとも思った。

 何故ならこの世界では、自分と澪が一緒に暮らしているからだ。




 いつしか、前の澪よりこっちの澪を愛したいと思うようになった。


 この世界の澪は、口こそきついが表情はずっと柔らかく、よく笑顔になる。クールそうな口元が、ふとした時に緩まるのが可愛らしかった。


 元の世界の澪はまったく笑わず、事あるごとに自分に対して文句を言っていた。

 稼ぎが少ない、話を聞かない、家事をやらない——。


 全て自覚していたし、申し訳なくも思っていた。けれど、何回も言われれば不満も溜まり、彼女が指摘する度に言い返してしまった。彼女から愛を感じられなくなって、冷めてしまったのだ。だから彼女に裏切られたのかもしれない。




 それでも、自分はまだ彼女を必要としている、まだ愛しているのだと、失って初めて気づいたのだ。




 この世界に彼女が居ることが、菊池にはチャンスに思えた。神様が、もう一度夫婦をやり直させるよう恵んでくれた。そうとすら感じた。


 今度こそ、ちゃんと愛したい。




 ある晩、菊池は澪と話した。二人の過去が、前の世界とこの世界とどれくらい異なっているのかを知りたかったのだ。

「初めて二人で行った場所って、たしか動物園だよな」

「そうだったわねぇ」

 彼女は携帯をいじりながらビールを一口飲むと微笑む。

「お前ずっとハシビロコウ見ててさ、そこからずっと動こうとしなかったっけ」

「だって首動かす仕草が面白かったんだもん。あと、羽繕いしてる動作も可愛いし」

「とか言って、プレーリードッグが居るぞって言ったらほいほいついて来たくせに」

「えー、違うわよ。プレーリードッグじゃなくって、カメレオンを見たのよ」

 どうやらそこは違っているらしい。「ああ、そうだった」と同調しておく。菊池の記憶では、ハシビロコウの後にプレーリードッグを見て一日が終わっていた。

「あー、でもやっぱり、ゴリラが一番印象に残ったかな」

「ゴリラ?」

「馬鹿ねぇ、もしかしてそれも覚えてないの?」

 そう言われても、自分がこの世界で何をしたかなんて分からない。

「スロープに立って、ゴリラの展示スペースを真上から覗いてたじゃない。それで、私が写真撮ろうとしたら携帯落としちゃってさ、そしたらあなた、どうしたと思う?」

「どうした、のかな」

「飛び降りて取ろうとしたのよ。初デートで張り切り過ぎちゃってて、止めるの大変だったわ」

 こっちの自分はそんなことをしでかしたのかと、苦笑いが零れる。澪もあははと笑う。

「アホみたいだったけど、あの時のあなた、本気で私を大切に思ってくれてるんだなって思った」

 彼女は懐かしそうに言った。自分はまったく覚えのない思い出だけれど、澪がそう思ってくれているのが嬉しかった。




 とするとやはり、あのことが気にかかった。




 前よりもこちらの方が仲は良好のようだし、可能性は低いだろう。しかし多少の差異があるとはいえ、ここは元の世界に限りなくよく似ているのだ。まったくありえないとは言い切れない。




 この世界でも、自分は残酷な事実を突きつけられるのか。




 それとも、杞憂に終わるのか。




 悩んでいると、テーブルに彼女の携帯があるのに気がついた。




 菊池は震え上がった。あそこに答えがある。あれを覗けば真相が分かる。手が届く位置にあるあれさえ見れば、菊池の頭を苛んでいるどうしようもない苦悩は解決する!


 しかし、これは悪魔の取引だ。予想が外れている可能性と的中している可能性は半分ずつ存在している。あの中を確かめた瞬間にどちらかが決まるのだ。もしも的中していたら。


 だが、見なければ何も決まらない。菊池は答えを知らないままでいられる。それは同時に今後も悩み続けるという意味でもある。確証のない予想に頭を縛られるのは、事実を知るよりも耐え難い苦痛だ――悪魔に負け、携帯に手を伸ばす。そこには――。


 視界が真っ白になった。音も聞こえなくなって、澪が戻ったのにも気づかなかった。


「あ……何して――」


「これは何だ」


 近づいてきた澪に携帯画面を突きつける。開かれたままだったメッセージアプリには、澪が男とやり取りした様子が残っていた。


「……ただの知り合いよ」

「これでもそう言える?」

 画像フォルダを開き、決定的な証拠を突きつける。それは澪が、菊池と同い年くらいの男と抱き合っている写真だ。言い逃れは出来ないはずだ。

 澪は降参というように両手を上げた。菊池が問いたいのはたった一つ、

「どうして不倫なんてしたんだ」

 ここでも同じだった。どうして、またこんなことになるんだ。

 菊池は願った。せめて理由だけは、前とは違っていて欲しいと。いつまでも、あんなに単純で残酷な訳を聞きたくないと。

「そうね、ゴリラがどうして絶滅の淵に追いやられたか、知ってる?」


 澪は言う。


「……」


 菊池は口をつぐむ。


「ゴリラって胸を叩くじゃない。最初はね、あのポーズが戦いをする時の意思表示だって考えられていたの。それで皆、ゴリラは狂暴で争い好きな生き物だって思った。だから、ジャングルで遭遇したハンターが怖がって、たくさん撃ち殺しちゃったってわけ。でもホントは違った。むしろ正反対。ゴリラは群れのリーダー同士が出会ったときに、戦意がないことを示すために、胸を叩くの」




 淡々と語っていく澪は、締めくくりにこう言った。




「つまり、人間様の勘違いのせいで、ゴリラは虐殺される羽目になったのよ」




「『あなたを愛していた。その勘違いが、私を殺そうとしているのよ』」




 話の結末を口にしたのは、澪ではなく菊池だった。彼女がこれから言い、すでに語っている言葉だ。





 そして、彼は花瓶を掴み上げた。






 数日後、妻を殺害した容疑で、男が逮捕された。




 男は妻が不倫をしていることに気づいてカッとなり、テーブルに置かれていた花瓶で殴り殺したと思われた。




 いくら不倫をされたといえ、実に衝動的かつ短絡的な犯行だったため、容疑者に同情の余地はないとされた。




 留置所で、容疑者は頻繁に叫んだという。




「早く俺を解放してくれ」




「いつになったら終わるんだ」




 多くの人々は彼が留置所での暮らしを嫌がっているのだろうと思った。男の叫びに秘められた真意を理解する者は、誰も居なかった。




 そしてある朝、男が留置所から居なくなっているのを、担当官が発見した。




 不可解なことに、室内には脱走の形跡は一切なく、窓も扉も鍵は閉められていた。ただ、洗面台の前には、歯磨き粉のついた歯ブラシとコップが落ちていた。









 ――男の行方は、依然として不明のままである。

いかがだったでしょうか。

自分はこのような企画に参加するのが初めてで、他の参加者様に比べて経験も浅いのでお目汚しにならないかむちゃくちゃ心配です(しかも5000字未満の短編も初めて……)。正直、自分が書いたのがどのジャンルに属するのかもよく分かりませんでした。(汗)

大変でしたがとても楽しい経験になりました。


今回の企画を通して多くの方の作品を読み、自分の文章力の向上に繋げていきたいと思います。ご拝読ありがとうございました!

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[良い点]  引き込まれるように読んでしまいました。良質な、サスペンスドラマを見たような気分です。 [一言]  勝手に思ってしまったんですけど、「過ちを無かったことにする」ために過去に戻る行為は、やは…
[良い点] まず、物凄く引き込む力のある文章だなと感じました。心情表現がとても上手だからなのかな思います。 ジャンルでいうと、ホラーとヒューマンドラマを足したような作品でしょうか。 また鏡というお題…
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