スノウIFその1(三章までのネタバレあり)
※三章までのネタバレがありますのでご注意ください。
スノウその2の続きでもあります。
――しかし、亀裂だけだ。
亀裂だけでは何も変わらない。
誰も私を助けてくれはしない。
こうして、私の『舞闘大会』は終わった。
私は敗北し、現人神たちが勝利した。
当然、戦利品であるカナミは彼女らに奪われる。
記憶を思い出し、彼女たちの『キリスト・ユーラシア』が戻る。
その一部始終を私は聞いていた。
一縷の望みを賭けて、振動魔法で音を拾い続ける。
カナミは迷っていた。
一瞬の逡巡だったが、確かに迷っていた。
奈落で綱渡りをするかのように、恐れと苦悩の中で呻き声をあげた。不眠で限界を迎えている脳に鞭を打ち、これからのことを考えているのがわかる。時間にして数秒のことだったが、彼の頭脳の数秒は常人の数時間分に相当する。
そして、その熟考の末――
親友を優先するか、宿敵を優先するか。
今の仲間を優先するか、過去の仲間を優先するか。
リーパーたちの願いを叶えるべきか、リーパーたちの願いを否定すべきか。
彼が出した答えは――
多くの運命的な二択を消化していき、カナミは言う。
様々な愛憎の絡む闘技場の中心で、彼が最初に出した名前は――
「――ローウェンを放ってはおけない。パリンクロンを追うのはそれからだ」
私ではなく『ローウェン・アレイス』だった。
どろりと粘度の高い何かが、心の底に落ちる。
結局、カナミにとって私という存在はその程度だったのだと思い知る。
敗北したことで冷めていた感情が、さらに冷えていく。
私は笑うしかなかった。
「は、ははっ……、はは、は……。そう、だよね。知ってた。知ってたよ、そんなこと……」
わかっていたことだ。
私はカナミを利用しようとしただけ。彼の目から見れば、障害にしか映らなかったことだろう。カナミが私を疎んでいるのは違いない。
馬鹿な私でも、それくらいはわかる。
けれど、タイミングが悪すぎる。
やっと――、やっと気づきかけたのに――
けれど、気づいたときには全てが遅かったのだ。
頬に涙が伝う。
「う、うぅ……、うぅうう……」
止め処ない涙が、大量に零れ落ちていく。
何もかも諦めようと思っていた。
いつものように諦観しようとしていた。
そうすれば、もう苦しまなくていいから。
しかし、気づいてしまった感情が、それを許さなかった。
本気で悲しい。
失恋がこんなにも悲しいだなんて知らなかった。
悲しくて胸が捻じ切れそうだ。
息苦しい。身体が震える。涙腺が痛い。ただただ、辛い。
――もう嫌だ。
耐えられない。
そう判断した私の処世術が、全ての感情に蓋をする。
本気にならないように心を静める。
カナミを諦めよう。
そう。
諦めさえすれば、もう悲しまなくてもいい。
「え、えへへ……、仕方ないよね。諦めよっ。うん、諦めよ!」
私は涙を全てぬぐって、無理やりに笑う。
その顔は歪で醜いだろう。打算に満ちた媚びた笑いだ。
それでも、私は笑う。
これ以上本気になっても仕方がない。泣き続けていては、部屋の外にいるテイリさんに迷惑がかかる。
そう思い、作り笑顔で外へ出ようとして――
「――諦めちゃ駄目だよ。スノウお姉ちゃん」
私よりも歪で醜く笑うリーパーに止められる。
部屋の隅の闇から、彼女は現れた。
「リ、リーパー?」
「最後まで諦めちゃ駄目だよ。スノウお姉ちゃんは、もっと素直になっていい。じゃないと、望みなんて叶わないよ」
リーパーは唐突に現れ、口を歪ませながら語る。
「もう無理だよ、リーパー……。試合に負けて、カナミの記憶も戻った。やっぱり、私は諦めるしかなかったんだ。悪いのは、きっと私だから……」
「悪いから何!? 関係ないよっ、そんなこと! 悪い子は全部諦めないといけないの!? 夢も希望も持っちゃいけないの!?」
私の発言を聞き、リーパーは激怒した。
張り付けた笑みは消え、見たことのない表情をみせる。
私は戸惑いながら、リーパーから距離を取ろうとする。
しかし、距離なんて関係なかった。
首筋に熱が灯る。
逆流する。
「そんなわけない! 誰にだって幸せになる権利はある! 諦めることなんてない!! 諦めるなんて、アタシが絶対に許さないんだから!!」
リーパーの感情が、私の中へ入り込んでくる。
彼女は今、心の底から叫んでいる。
自分の全てを曝け出して、本気で私に諦めるなと言っている。
その強靭な意思は、私の意思を侵食していく。
「で、でもっ、ここで諦めないと! また苦しくなる! 苦しくて苦しくて、堪えられない! また失敗して、その責任に押しつぶされる、どうせ、また!!」
「大丈夫! 責任ならアタシが負う! もう苦しまなくていいの、お姉ちゃんは!!」
「リーパーに負えるわけない! 子どものくせに!!」
「もう私は子どもじゃない! 今から、それを証明してあげる! スノウお姉ちゃんの悲しみも苦しみも全部っ、アタシが背負う!!」
逆流が、さらに逆流する。
私の中にあった感情――、悲しみと苦しみの全てが吸い取られていく。
そして、私の記憶。
『血濡れの地獄』というトラウマすらも、リーパーは奪っていく。
奪って奪って奪って、奪いつくされていく。
私の弱さが闇へと飲まれていく。
それは幸せなことか、不幸せなことかはわからない。
けれど、今の私には抗えない誘惑だった。
血が抜けていくような喪失感と共に、身体が軽くなるような爽快感が襲ってくる。
私を縛っていた様々なしがらみが断ち切られ、どこまでも飛べそうな浮遊感を得る。
抗いようのない快感だった。
そして、私はリーパーの『繋がり』の力を理解する。
ただ、魔力を吸い取るだけの力ではない。その真価は感情の交換にあったのだ。
私の中にあった悲しみと苦しみは、全てリーパーに移った。
私の弱さを受け取り、リーパーは呻く。
「くっ、うぅ、ぅうう! ぁあ、ああアアあアア! け、けどこれで――!」
リーパーは歯を食いしばって私の負の感情に耐える。
「あ、あぁ……、ああ……――!」
引き換えに、私の心は澄み渡っていく。
澱んだ空が晴れていく。闇一つない快晴が、私の心に広がる。
それは私が追い求め続けていた世界。
――自由の空だ。
「さあ、これでスノウお姉ちゃんに怖いものなんてないよ! もう怯えなくていい、脚と翼を竦ませることもない! ただただ、自分の欲しいものを叫んでいい! もう諦めなくていいんだよ!!」
私は負の感情を失い、リーパーの強靭な意志を得た。
身体の震えが止まる。
心からの本心を叫ぶことに躊躇いがなくなっていく。
本気になることが怖くない。
今、私の心に残っているのは、唯一つ。
たった一つの願い!
「――わ、私はっ、カナミが欲しい! 欲しくて欲しくて堪らない! カナミが大好き! 大好きだから、一緒に居たい! ずっとずっと一緒に居たい!!」
カナミが好きだということを認めてしまう。
「うん、それがお姉ちゃんの本当の願いなんだね……! やっと素直になれたね、お姉ちゃん……!」
「うんっ、ありがとっ、リーパー! やっと素直になれた! ああ、空が広いよ、青いよ! こんな気分久しぶり! まるで子どもの頃に戻ったみたい!!」
私はベッドの上に立ち、蒼い翼を広げる。
巻かれた白い包帯が破かれ、ありのままの私の姿が光に照らされる。
光は窓から差し込んでいた。
私はその青い空を見ながら、愛おしい気持ちを吐き出ていく。
ああ、恐れのない世界が、こんなにも心地いいなんて、ずっと忘れていた……。
「行こう、お姉ちゃん。お兄ちゃんを捕まえよう。もう『舞闘大会』なんて関係ないよ。カナミを捕まえて、この大空の果てまで逃げてっ。それで、お姉ちゃんは幸せになれる!」
「リーパー、私のトラウマを引き取ってくれて本当にありがとう。これで私は私のやるべきことがわかった! カナミは私のものにする! 何に代えてもっ、何をしてでも!!」
「ううん、気にしなくていいよ。アタシはお姉ちゃんに素直になって欲しかっただけ。カナミを連れ去ってくれたら、それだけでいいんだよっ」
「うん、連れてく! 私とカナミだけの世界まで!!」
私は身体に巻きついていた包帯全てを捨て、窓へと脚をかける。
空へと飛び立とうする私を、リーパーは止める。
「ま、まま待って、お姉ちゃん! 嬉しいのはわかるけど、今すぐ行っちゃ駄目だよ!?」
「え、え? 駄目なの?」
「今行ったら、ラスティアラお姉ちゃんと使徒さんがいるでしょ? 昨日負けたばかりでしょ?」
「そうだ……、あいつらがいる……! 邪魔者がいる!」
気分が高揚しすぎて、当たり前のことを失念していた。
私がカナミと一緒になるためには、障害がまだ多い。
「けど、大丈夫。アタシに良い案があるんだ」
「良い案?」
「マリアお姉ちゃんをさらって、あのパーティーを上手く分断しよう。『キリスト・ユーラシア』は絶対に『マリア』を見捨てられない。そこを利用すれば、お兄ちゃんを単独でおびき寄せることできるはずだよ」
「え、マリアちゃんをさらうの……?」
私はその非道な手段に眉をひそめる。
けれどその反感は、すぐに闇へ吸い込まれて消える。
「全部アタシの責任でやることだよ。だから、お姉ちゃんは気にしないで。もう何も恐れることはないんだから……」
「リーパーの責任……? うん……! そうだよね……!」
「そう……、アタシに任せて。アタシが何とかする、全てっ。ローウェンもお兄ちゃんも、ラスティアラお姉ちゃんも使徒さんも、全員アタシが倒す!!」
リーパーは右手で胸を握り締める。
爪を立て、肉を裂き、血を流しながら宣言する。
そして、速やかに計画は実行される。
カナミの記憶が戻った今、一秒も無駄にできなかった。迅速に『エピックシーカー』本拠まで移動して、マリアちゃんを言いくるめる。
できるだけ『ヴアルフウラ』から離れるために、連合国から出て行く。
目指すは西。
かつてドラヴドラゴンが住んでいた廃城へと向かう。
そして、リーパーはカナミへ連絡をつける。
古風な手紙で、端的に要求をつきつける。
『――マリアを返して欲しくば、『舞闘大会』決勝の時間に、ドラヴドラゴンの居た廃城まで来い――』
もちろん、ラスティアラ・フーズヤーズや使徒シスという『重し』を置いてくること。
連合国を出て、ローウェン・アレイスを裏切ること。
その二つが条件だ。
計画は成功する。
準決勝を終えたカナミは、すぐさま一人で西へと移動してくれた。
廃城を行き帰りしてしまえば、最低でも一日はかかる。
カナミが廃城へと向かった時点で、カナミはローウェンと決勝で戦えないだろう。『舞闘大会』が台無しとなったことにリーパーは歓喜した。
私もほくそ笑む。かつての私であるローウェンが同じ目に遭うことに安心しているのかもしれない。
そして、廃城へカナミはやってくる。
くすんだ雑種竜の代わりに、私が玉座へと座っている。
私は、私の英雄を迎える。
「ああ、来てくれたっ、カナミ! カナミカナミカナミカナミ! このまま、私と一緒に居て! 私を助けて! 私だけのものにっ、私だけの『英雄』になって!!」
「――スノウ!? なんでおまえがここにいるっ、リーパーとマリアはどこだ!?」
カナミは私を見て驚く。
けれど、関係ない。
今の私がすべきことは一つ。
この弱りきった英雄を倒し、奪い、私のものにすること。
――私は本気になる。おそらく、これが最後だ。
もう私にトラウマという『枷』はない。
かつて、多くの化物や竜を屠り回ったときの私と同じだ。失敗など一度もしたことのない無敵の竜人がここにいる。
かつてないほどの執着が、身体の底から湧き出す。
目の前に居る英雄を自分だけのものにしたい。
私の英雄が格好良くてたまらない。
その黒い髪が、黒い眼が愛おしい。闇よりも深い黒が、宝石よりも艶やかに感じる。触れたい、舐めたい、飲み込みたい。
物憂げで優しげな顔つき。安心感を与えてくれる揺るぎない四肢。ああ、今すぐ包み込まれたい。すがりついて安心したい。
彼の溢れる才覚と力を想うだけで快感が奔る。全ては私のために神が用意してくれたとしか思えない。まさしく夢物語の英雄。私だけの英雄。
その全てが私のものになると考えるだけで、死んでもいいような気持ちになる。
私はカナミが好きだ。
大好きだから、今日、ここで倒す。
「えへっ、えへへへへ……! 私のもの、私の英雄、私の旦那様っ!!」
ゆらりと私は玉座を降りる。
戦いが始まる。
廃城で、英雄と竜の踊りが始まる。
ここは明かりのない舞踏会。
観客のいない私とカナミの決勝戦。
なにより、ローウェン・アレイスから大切な『決勝戦』を奪えたことに、私は心から安心していた。