1 お拾、夭折
実在の豊臣秀吉は、ある時期から、人格崩壊してしまったような印象を受けます。
その原因のひとつに、晩年になって、生まれた息子への偏愛があったかと思います。
もし、のちの秀頼が、鶴松同様に、幼くして亡くなり、秀吉が人格崩壊することがなかったら、という発想での小説です。
医師は、静かに頭を下げた。
臨終を告げる仕草。
「お、お、お、拾。お拾い」
太閤、豊臣秀吉は、我が子の体に取りすがった。
哭いた。哭き叫んだ。
五十歳を過ぎて、初めて出来た我が子、鶴松を三歳で亡くし、悲嘆にくれた日々。
再び子を授かった時の歓喜。
だが、その第二子。拾も、たかだか二歳で亡くなってしまった。
かくの如き、悲しみを味わうのであれば、鶴松は、そして、拾は、何のためにこの世に生まれてきたのか。
太閤は、三日三晩、哭き続けた。
「猿」
誰かの声が聞こえる。
何だ。
「猿」
また聞こえてきた。
この儂を、猿などと呼ぶのはあの方のみ。
だが、あの方は・・・
あり得ない。
夢か。
「いつまで寝ているのだ。さっさと起きろ、猿」
太閤、秀吉は飛び起きた。
この声は。
目の前にいたのは、紛れもない。
秀吉の主君、織田信長。
「久しぶりだな、猿」
上様は、信長様は生きておられたのか。
「う、上様。ご、ご無事だったのですか」
あれから十二年間、この方は、一体どこにおられたのだ。
しかし、今、見る信長は、秀吉が、最後に知る姿のまま。
少しも年を取られていない。
「無事か、だと。そんな訳ねえだろ。
腹、かっさばきましたよ。本能寺でな。火をつけ、体もきれいさっぱり燃え尽きましたぜ」
「では、では、あなた様は一体」
「どこから来たのかということか。決まっているだろう。あの世からだ」
「そのようなことができるのですか」
「ああ、死んでもあの世では、また体を持つ。おのれが死んだあとのこの世も、魂となって、見守り続けることはできる。
儂は、死んだら全ては終わりと思って生きてきたからな。むしろ驚いた。」
「そ、そうなのですか」
では、この方は、一体どこまでご存じなのだろう。
「だが、こうやって、あの世の人間が、この世の人間に、生身の姿を持って会う、というのは、色々と手続きが、厄介でな。滅多に出来ることではない」
「そうなのですか」
秀吉はほっとした。
これからずっと、この方が、傍らにおられるということになったのでは、たまらない。
「ああ、お前に頼みたいことがあってな。今のこの時期が最もよいだろう、と思って、面倒な手続きをすませて、こうやって、やってきたという訳だ」
「は、はい。どのようなことでございましょう」
「おお、おっと、その前に本能寺だ」
ドキッとする
「猿、あれ、黒幕はお前だろ」
言われた。しかし、認める訳にはいかない。この方は恐ろしい。それに、直接手をくだしたのは、あくまでも光秀。
「とんでもございません。何故、そのようなことを思われるのです」
「鮮やか過ぎるんだよ。中国の大返しか。色々と、話を作ったようだが、そのことがあることを事前に知っていなければ、とてもあのようなことはできまい。」
「何をおっしゃられます。あれは、あくまでもこの秀吉が、知略の限りを尽くし・・・」
「じゃかましいわ。このごに及んで。死んじまった人間に、ぐだぐだと、嘘をついてるんじゃねえ」
「はは、ははあ」
秀吉は平伏した。
恐ろしい。やはり、この方は、恐ろしい。
「おっと、つい怒鳴っちまったな。
なあ、猿よ。誤解するな。儂は、お前を責めているわけではない」
「は」
「お前にしろ、あの禿げにしろ。よくぞやってのけた、と感心している。戦国の世に生を受けたもの、あのような機会があれば、断行するのは、むしろ当然。
お前らが、儂に反抗するなどということを予想もしていなかった、この信長の油断が招いたこと。残念だが仕方ないと思う。だが、あの光秀がなあ、とは思う。どうやった」
秀吉は、腹を決めた。この方に、嘘は通用しない。
それに、どうやら真実を話したほうが良いようだ。
それにしても、この方が、最初に言っておられた頼みとは何なのだろう。




