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 病棟で働く看護師という職業柄、基本的に休日は変則的だ。土日祝日が休みである保証なんてない。むしろ、委員会が入ったり出張を命じられたりと、本来の休日ですら仕事に消えてしまう。労働基準法がどうのと言われても困るんだけど、その分の代休は、あってないようなもの。自宅に帰っても、レポートの作成などに追われて、自由な時間なんてほとんどない。

 そんな状況の中、結城さんは常にわたしの事情を優先してくれる。

 付き合って欲しいと言われてはいたけれど、答えは出ていない。答えていない。

 だってまだ判らない。

 自分の気持ちが、見えないから。

 素敵なひとだということは判る。わたしにはあまりにももったいなさすぎて、釣り合わないほどに素晴らしいひとだ。

 結城さんみたいなひとに追いつきたい。彼のようなおおらかな心を持ちたい。

 彼に会うたび、憧憬のような思いが募っていくのは判る。

 これは、恋なんだろうか。

 それともたんなる尊敬の念なんだろうか。

 結城さんは、わたしが答えを出せないで曖昧なままでいても、『無理をしないでいいから。少しずつ、好きになってくれればいい』。どこか不安な色を眼差しに滲ませながらも、そう言ってくれる。

 はっきりしない態度をしか返せないわたしに、きっとやきもきしていると思う。結城さんのこれまでの彼女はきっと、こんなにも待たせたりなんかしなかったはずだから。

「そうだね。いつも向こうからのアプローチだったから、いまになってようやく彼女たちの気持ちが判るようになった」

 半分冗談めいて結城さんは笑う。

 十一月下旬の三連休は、結城さんは三日間とも休みだったけれどわたしは仕事で、最終日の準夜勤のときに、仕事前にほんの少しの時間でいいからと乞われ、会っていた。

 少しでも一緒にいたいと、病院にほど近いカフェでブランチをとっていた。

 本当のことを言うと、知り合いに結城さんと一緒にいるのを見られるかもしれないと気が引けたんだけど、ひたむきな声でスマホ越しに乞われると、魔法にかけられたみたいに断ることができなかった。

「最終的には惚れるに決まってるって、本当は自信があるんじゃないんですか?」

 このひとのことを好きになれるんだろうか。そんな将来が待ち受けているんだろうか。

 毎日のメールや電話でもらう、胸を熱く疼かせる言葉の数々。その向こう側にある隠そうともしない強い想いに、自分の気持ちは日に日に揺さぶられている。

 きっと、自分はあともう少しでこのひとに堕ちてしまうんだろう。

 そんな予感から目をそらしながら、サンドウィッチに手を伸ばす。

 まさか、と結城さんは首を振った。

「ものすごく不安だよ。どうすれば好きになってもらえるんだろうって、そればかりが頭を占めてる。他の誰かを選んで欲しくない。どうすれば、おれだけを見てくれるようになるんだろうって」

「……。ま。またまたァ~」

 なんだってこう、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことをさらっと言えちゃうんだろう。顔に血がのぼるのが判る。波だった気持ちを誤魔化したくてサンドウィッチにかぶりついて、コーヒーで押し流す。じっと見られてるのが判る。判るんだけど、顔を上げられない。

 どうしてこう(てら)いもなく、ひとを見つめることができるの?

「―――結城さんは……、かっこよすぎます……」

 沈黙に耐えきれず、気付いたら正直な気持ちがこぼれ落ちていた。

「舞い上がっちゃいます……」

「舞い上がってくれていい」

 冬にしては暖かい今日の陽射しのような穏やかな声が、静かに返ってくる。

「舞い上がって、浮かれてくれればいい。おれが受け止めるから」

「……どうしてそんな、すごい台詞言えるんですか?」

 もうサンドウィッチに手を伸ばすことなんてできなくて、代わりに膝の上できゅっと握り締めるしかなかった。

 なんだか、結城さんを前にすると、ものすごく気持ちがウブになっていく。きっと百戦錬磨で経験値が高い彼にとっては、人並み程度の男性経験しかない平々凡々なわたしなんて、誇張でもなんでもなく赤子のようなもの。(かな)いっこない。

 そんな彼が言う「不安だ」なんて、なにか目的があっての戦略なんじゃないのかって、重箱の隅をつつく勢いでヘンに穿(うが)って見てしまう。アレかな。医者たちの遊びっぷりを目の当たりにしているから、かっこいいだったり社会的地位があるとかいう、そういうステータスを持っているひとに対して、必要以上に警戒しちゃうのかもしれない。

「言ったろ? 小嶋さんに振り向いてもらいたくて必死なんだ。本当に、どうすればいいか判らないくらいに」

「……」

「ひとの気持ちは、『好きになって』と言われて『判りました』となるものじゃないってことは、身に沁みてよく判ってる。だからこそ、どうすればいいのか判らなくて空まわりもするし、無様なこともしてしまう」

「無様だなんて」

 結城さんの表情が、もどかしげに歪む。

「情けないって思うかもしれない。でも、正直に言うよ。小嶋さんに触れたい。堂々と、おれの女だってみんなに自慢したい」

 オムライスを(すく)っていたスプーンをお皿に置いて、居住まいを正した彼に改めてまっすぐ見つめられる。

「あなただと思った。他の誰でもない。小嶋さんが、そばにいてくれるひとなんだと。―――小嶋さん。どうか、おれを選んで欲しい」

 肌の上を、熱いような冷たいようなさざ波が走る。

 結城さんの表情からは、ううん、表情だけじゃない、全身全霊が、わたしを欲していた。わたしを求めていた。

 こんな強い想いをぶつけられたことなんて―――ない。

 もういい加減、答えを出さなくちゃならない。

 有耶無耶なまま会ってご飯を食べるだけの関係は、あまりにも酷だ。

 結城さんの優しさに甘えて、ずるずると自分の気持ちをはっきりさせずにいるのは、フェアじゃない。もう、子どもじゃないんだから、自分の立っている場所、思いを、ちゃんと形にして伝えるべきなんだ。

 その〝時〟はもうすぐそこなんだと、何故か切ない想いがこみ上げてくる。

 決断は、なにか大切なものを失ってしまうことなんだと、心のどこかが諦念にも似た感情にしっとりと濡れていった。




 次の週の十一月最後の日曜日は、計ったかのように休みだった。提出するレポートもなくて、だから朝からちゃんとした休日だった。

 わたしは、この日に言おうと、心に決めていた。

 一週間前、病院近くのカフェで改めて交際を申し込まれても、はっきりとした答えを伝えられなかった。それでも結城さんはいつもと変わることのない態度で、メールや電話をしてくれた。

 自分の気持ちに鎧をかけていた余計な疑心暗鬼と向き合って、ひとつひとつ(ほど)いていく。

 結城さんからのメールが嬉しいと思う気持ちは本当だ。彼の声をもっと聴いていたいと感じる思いは、偽りのない正直な気持ちだ。

 このひと月で何度も会った結城さんとのやりとりを思い返す。

 彼の笑顔。こちらを見つめる甘やかな眼差し。どこか不安げな、わたしの気持ちを(おもんぱか)る素振り。

 姿かたちじゃない。顔でもない。周囲に気遣いを見せ、だけどそれを嫌味にならない程度に自然にしてみせる彼。

 結城さんのことを思い浮かべると、ほら、胸の内側がほんのりと温かくなる。透明ななにかが湧き出でている。

 逢いたい、と、自然な流れで思えた。

 彼がわたしと付き合いたいと言ってくれている。

 ―――嬉しい。

 彼の想いに、寄り添ってみたい。

 結城さんの存在は、どうしようどうすればと悩んでいる間に、いつの間にかわたしの中に住みついていた。

 わたしと、付き合ってください。

 ずっとやきもきした気持ちのまま待たせてしまった彼に、こちらから申し込もう。

 そう、決めていた。




 今日この日は、地区で一番大きな国際空港に珍しい貨物機がやって来るらしく、結城さんは見物しに行かないかと誘ってくれた。

 到着は昼過ぎということなので、それに合わせて家を出る。

 駅近くの駐車場にクルマを置いて、そこから出てすぐのことだった。

 ふと、風が強いなぁと車道を挟んだ向こうに目を遣った瞬間、

 ―――息が、止まった。

 すべての色が一瞬で無くなった。

 時間が、切り取られたみたいに、まわりは動きを急になくした。

 駅へと向かう道沿いにある一軒の家。そこの砂利になった駐車場に停められていた一台のクルマから降りてきたひと影。それだけが、唯一色を持つ存在だった。唯一動いている存在だった。

 墨染めの衣、木蘭の袈裟。

 その姿を目にしただけで、胸の底が焼けるように焦げついた。

 彼は、何気ない中、流れるような仕草で頭を上げ、茫然と歩道に突っ立つわたしを捉えた。

 は、と彼の頬がこわばった。

 瞬間、耳に車道を走るクルマのエンジン音が飛び込んでくる。冷たく乾燥した空気が肌を刺す感触も、横断歩道の音、街路樹の紅葉した色も、止まっていた呼吸も戻ってきた。

「かみじょう……」

 足に感覚が戻ってくる。引き寄せられるように駆け寄ろうとした瞬間。

 す、と上條は両手を胸元に持ってきて、手のひらを静かに合わせて合掌をすると、小さく頭を下げたのだった。

「!」

 そのまま、上條は緩やかに踵を返し、砂利の奥にある家の中へと消えていった。

 わたしは、わたしはなにをすることもできず、ただ茫然としたまま歩道に立ち尽くすしかできなかった。


 ややして瞬きを繰り返すと、その家でどうやらお葬式が執り行われているらしいことに気付いた。

 最近はもうほとんどが葬儀場で告別式などを行うようになったけれど、ごくたまに、自宅で行うことを希望する檀家さんがいると、そういえばいつだったかご飯を食べていたときに聞いたことがある。

 ―――どうして。

 どうしてこんな、今日に限ってそんな檀家さんの前を通っちゃったの。

 檀家さんはお寺の近所だけじゃないということも、聞いたことがある。

 どうして、こんな駅前に檀家さんがいるの。

 ―――どうして。

 どうして上條と目なんか合っちゃったのよ。

 身体が、がたがたと震えてくる。

 いつもの〝上條〟じゃなく、〝上條くん〟な上條だった。名前を音読みで読む、泰成(たいせい)和尚だった。

 寒いのに、防寒着もなにも着ていない。

 上條のお寺は曹洞宗。曹洞宗は禅宗で、心身の鍛錬に厳しい。明日から十二月だというのに、上條は寒さに震える様子も見せずに、静かに歩いていった。

 どうしよう。

 動けない。

 緩やかに吹く風が、赤や黄色と色付く街路樹から葉を攫い、歩道へと散らしていく。

 動かない足元に、たくさんの落ち葉が絡みつく。

 足が、凍りついたみたいだ。

 お葬式が行われているだろうその家を前にして、もう、なにも考えられなくなってしまった。



 ―――そうして、結城さんのもとへとようやく向かえたのは、予定していた電車を二本も乗り逃がした後のことだった。




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