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第61話 懐かしい声

 キーロと戯れながらスキップをするヨルンに続いて、アスティはジェイスと共に本宮を出た。北側の出入り口から真っ直ぐ騎士団の宿所へ向かうと、香ばしい匂いが漂ってくる。既に食堂では昼食の準備が進められているらしい。

「おっひるっ、おっひるー!」

 ヨルンが歌いながら勢いよく扉を開けて食堂に飛び込んだ。昼食時にはまだ少し早いせいか、他の騎士団員の姿はない——と思いきや、ギュゥゥウン……食堂には似つかわしくない機械音が響いて、一同は厨房とは反対の食堂の隅へと視線を移した。

「……あれ?」

「ギムニクさん?」

 食堂の隅で足下に工具箱を広げ、重低音を響かせる機械を片手にこちらに背を向けているのは、見覚えのある白髪交じりの頭——機械部門長のギムニクである。

「ん? 何だ、ジェイス。お前今頃、遅せぇんだよ!」

 振り返ったギムニクは、ジェイスを認めるなり、苛立たしげに吐き捨てた。

「は? 遅いって何がですか。昼飯時にはむしろ早いくらいですよ。」

「昼飯じゃない、こいつの修理だよ、修理。お前に頼もうと思ったのに、部屋にいねぇから、結局、部門長の俺が自ら修理しちまったじゃねぇか。」

 ギムニクはそう言いながら、食堂の隅に置かれていた、支柱に乗った四角い箱を軽く叩いた。四角い箱のの蓋は四隅のねじのうち一つがまだ外れたままのようで、ぺこんと鳴く。

「そんなの、いきなり言われても知りませんよ!」

 ジェイスがギムニクに抗議するが、ギムニクは「全く、肝心なときに役に立たねぇ。」と不満げにぼやき、足下に転がっていたねじを拾い上げて四角い箱にはめ込んだ。ジェイスは何か言いたげに拳を握り締めながらギムニクを睨んでいるが、ギムニクがジェイスの様子を気にとめる様子はない。ギムニクが右手の工具を差し込んだねじに合わせて押し込むと、工具がギュイィンと音を立て、頭の出たねじは瞬く間に四角い箱に吸い込まれていった。

「よしっ、これで上がりだ!」

 ギムニクは満足げに呟いて、奇妙な音を立てていた工具から細い金属製の棒を引き抜いて分解し、足下に置いた工具箱に仕舞い始めた。

 ギムニクが修理したというこの四角い箱、エルタワーで見た「電子双眼鏡」に似ているが、大きさはそれよりも少し大きい。電子双眼鏡にあった遠くを覗くための丸い穴は見当たらず、代わりに数字の書かれたボタンが並んでいる。箱の左側には、両端に半球の付いた棒も引っかかっている。前から食堂にあったもののようだが、本体の色が壁の色と同じで目立たなかったせいか、気付かなかった。何か王都の便利な発明品であることは間違いないのだろうが、少なくとも、遠くを見るためのものではないはずだ。この場所では、最大限見通せる遠くが数センチ先の食堂の壁になってしまう。

「でも、ギムニク部門長もわざわざ日曜日に仕事熱心ですねぇ。」

 ヨルンが感心した声を漏らす。

「昨日、イニスの奴に至急直すように言われちまったからな。騎士団長が『至急』っつったもんを休み明けまで放っておくわけにもいかねぇだろ。とは言え、壊れた内部部品の在庫を探し出して部品を取り寄せなきゃならなくて結局、丸一日掛かっちまったがな。」

 ギムニクは工具を足下の箱にしまいながらヨルンに答えた。

「でも、これって本当にそんなに急いで直す必要あったんっすか? 通信設備は重要なライフラインとは言え、公用通信機でもないし、私用通信はみんな自分の携帯用無線機を使ってんだから、今時こんな古い固定式の音声通信機なんか使う奴いねぇのに……。」

 ジェイスが呆れた様子で言ったが、音声通信機——目の前のこれがそれであるならば、少なくとも、使いたい人間が一人はいる。イニスも、それを知っていたから、至急の修理をギムニクに頼んでくれたのかもしれない。

「わ、私が使います……。」

 アスティはおずおずと口を挟むと、驚いた様子で振り返ったジェイスの隣で、ヨルンが納得したようにポンッと手を叩いた。

「ああ、アスティちゃんは携帯用の通信機は持ってないもんね!」

「いやいや、携帯用を持ってないとか言う以前に、森の民って音声通信機自体使わないんじゃなかったっけ? 国営通信の有線通信網だって東の森までは延びてねぇし、これ、話す相手がいないと意味ないぜ?」

 ジェイスが困ったような苦笑いを浮かべながら通信機を指差し、アスティを見る。

「あの、叔父と連絡を取りたいんです。叔父の家族は、数ヶ月前に政府の移住勧奨に応じて森を出ていて……以来ずっと連絡を取っていなかったんですけど、金曜日に王宮前広場で偶然再会して、ここに連絡するようにとメモを貰って……。」

 アスティは腰に下げた袋の中から叔父トールクから受け取ったメモを差し出した。

「じゃあ、早く連絡してあげないと!」

「……ああ、確かにこれは王都の通信番号だな。」

 はしゃいだ声を上げるヨルンの隣で、ジェイスはアスティが差し出したメモに視線を落とし、納得したように頷く。

「まあ、使ってくれる奴がいるってんなら、俺も大急ぎで直した甲斐があったってもんだ。」

 ギムニクは工具箱の蓋を閉じ、「よいしょ。」の掛け声と共に立ち上がった。

「大事に使ってくれよ。何だかんだで、こいつはそろそろ博物館送りにしても良いくらいの貴重な初期型だからなぁ。」

 ギムニクは片手を伸ばして労るように優しく音声通信機に触れると、アスティたちに背を向けた。

「あ、待って。ギムニク部門長はお昼はまだなんですよね? 僕たちと一緒に食べません?」

 ヨルンが立ち去ろうとするギムニクに声を掛ける。

「んあ? ……いや、俺は遠慮しとくよ。せっかく休日返上で修理したんだ。先に報告書を上げねぇと俺の努力が報われねぇ。ナウルの奴に移動用円盤(ディスク・ボード)の改造も急かされてるしな。飯は作業場で適当に済ますさ。」

 振り返ったギムニクが肩を竦めてヨルンに返す。

「お忙しいんですね。」

「まあな。」

 アスティの感想に、ギムニクは得意げな表情で笑い返す。

「ま、おっさんの場合、忙しい仕事の八割は遊びだけどなー。」

「何が遊びだ! 俺には下っ端のお前と違って部門長としての仕事が色々あるんだよ!」

 ジェイスの笑い声に、ギムニクがむっとした表情で言い返し、工具箱をジェイスの腹部めがけて振り回した。

「とか言って、いつも一番おいしい仕事だけ持っていきますよね。雑用は全部俺に押しつけて!」

 ジェイスは辛うじて工具箱を両手で受け止め、ぐぐぐとギムニクに向かって押し返す。

「あぁん? そりゃ、今のお前に任せられる仕事が雑用しかねぇからだろうが! 良い仕事がしたけりゃとっとと技術を磨きやがれ!」

「……あーはいはい、分かってますよ。」

「分かってんなら同じことを何度も言わすんじゃねぇ!」

 投げやりに答えたジェイスの耳を、ギムニクがむんずと掴んで引った。

「痛っ! 痛い!」

 そろそろ仲裁に入った方が良いような気がするものの、さて何と言ってギムニクを宥めればいいのかアスティには分からない。

「っと、こんなことしてる場合じゃねぇ! 俺には大事な仕事があるんだ。」

 はたと気付いた様子でギムニクがジェイスの耳を離した。

「まあ、嬢ちゃんはまた作業場に遊びに来な。例の話なら、仕事の合間にも聞かせてやれるし、現物を見ながらの方が分かりやすいだろうからな!」

「例の……話?」

 アスティがきょとんとして首を傾げると、ギムニクが眉間に皺を寄せた。

「おいおい、忘れちまったのか? 最初に作業場で会った話したろう、機械工作について解説してやるって!」

 ギムニクに言われて、思い出した。確かにそう、最初にギムニクの小屋を訪ねた時に、再訪して話を聞くことになっていたのだ。結局、金曜日はこの食堂で開かれたアスティとキーロの歓迎会でギムニクが早々に酔いつぶれてしまったから、機械工作についての解説はほとんど聞けずじまいだったのだけれど。

「あ、ああ、はい、もちろん覚えています! 今度必ず聞きに行きます!」

 アスティが慌てて答えると、ギムニクは眉間の皺を消してニッと嬉しそうな笑顔を見せ、「それじゃあ、またな、アスティ、キーロ!」と工具箱を提げて食堂を出て行った。

「おっさんの話、機械工作についての解説なんて言ってるけど、どうせほとんどは無駄に長いだけの自慢話だから、別に無理して聞きに行かなくても良いと思うぜ……。」

 食堂の扉がしっかりと閉まったことを確認してから、ジェイスがアスティにため息混じりで告げた。ギムニクの話が長くなるであろうことは、アスティとしても予想済みだが、東の森ではほとんど見ることのなかった王都の発明品について話を聴けるなら、それはそれでとても興味深いことではある。

「まあ、作業場には珍奇な機械が色々あるから、少しなら物珍しさで楽しめるかもしれないけど、おっさんの話、本当に長いから覚悟して行くことを勧める。」

 ジェイスの忠告に、アスティは「はい。」と答えて微笑んだ。

「それで、アスティちゃんは叔父さんに連絡したいんだったよね? 音声通信機の使い方は分かる?」

 ヨルンが笑顔でアスティに尋ねてきた。

「あ、ええと、実は全く……。」

「じゃあ、まずこの受話器を取って、硬貨を入れる。……あ、硬貨は持ってる?」

 ヨルンは片手で自分の服のポケットをあちこち探りながらアスティを振り返った。どうやらヨルンの方は硬貨の手持ちがなかったらしい。

「は、はい、あります!」

 アスティは慌てて腰に提げた袋から数枚の硬貨を掴んで取り出すと、掌に広げた。

「とりあえず、この大きいの一つで足りると思うけど、長く話す時は、途中で右上のランプが赤く点滅し始めるから、そしたらこの小さいのを一つずつ入れてみて。この小さいコイン一つで通話時間が三分延長になるよ。」

 ヨルンはそう説明すると、音声通信機の上端の切れ込みから、大きなコイン一枚、音声通信機の中に落とし入れた。カコンという音と共に、四角い音声通信機の正面右上に青いランプが灯った。

「コインを入れると、番号パネルが表示されるから、このパネルで叔父さんの通信機の番号を押すんだ。」

 アスティがトールクのメモを見せると、ヨルンは音声通信機の正面に映し出された数字に素早く触れ、「はい!」と笑顔で「受話器」と呼ばれた両端に拳大の半球が付いた棒をアスティに差し出した。棒の途中からは紐が垂れて、目の前の四角い音声通信機と繋がっている。

「こっちを耳に、反対を口元に当てて話すんだよ。数回コールしたら相手が出るはずだから。」

 そう言われて受話器の一方を耳に当てると、ピロロンポロロンという軽快な音楽が聞こえてきた——と思った次の瞬間、『はいはい、トールクですよー!』とどこか聞き覚えのあるおどけた声が耳に届いた。普段のトールクの声よりも少し高く聞こえるが、間違いなくトールクだ。何しろ、本人がそう名乗っているのだから。

「……トールク叔父さん?」

 恐る恐る口を開くと、『その声は……アスティ! アスティだな!?』と大きな声が耳をつんざき、アスティは慌てて受話器を耳から離した。

「繋がったみたいだね。僕たちは先にご飯を食べているから、ゆっくりお話しして良いよ。」

 ヨルンが微笑み、アスティも笑顔で頷き返した。すっかりヨルンに懐いているキーロもヨルンと一緒に早々に食事の席に着くことを選び、アスティは一人で音声通信機に向き直った。

「トールク叔父さん、こないだはありがとう。」

 改めて受話器を耳に当て直して、アスティは受話器に向かって話す。

『ああ、アスティ……無事か!? 怪我はないか!? 騎士団の連中にいじめられてないか? 俺はあれからお前のことが心配で心配で、好物のマリイヤパイを一日で三切れも食べちまったよ。ティムにもどうして連れて帰って来なかったのかって散々攻められたし……。』

 この、どこか間の抜けた受け答えは間違いなくトールクのもので、アスティはほっとすると同時に笑みをこぼした。

「騎士団の人たちはみんな優しい人で、今日も王宮の中を案内してもらっているんです。すぐに連絡できなくてごめんなさい。」

「いやいや、良いんだ。アスティが元気で何よりだ。けど、油断するんじゃないぞ。王宮騎士団の連中なんてのは、顔だけは愛想良くしていても腹の中で何を考えているか分かったもんじゃないんだからな!」

「トールク叔父さん……。」

 トールクがアスティのことを心から心配してくれていることは間違いないが、トールクの王宮騎士団に対する不信感の強さには辟易してしまう。

「メリル叔母さんやティムは元気?」

『ああ。メリルは今、昼食の準備中で、ティムはまだ寝てるがな。』

「もうお昼になるのに?」

『どうも昨日遅くまで勉強してたらしくてな。まあ、いい加減叩き起こそうと思ってるところだったんだが……。』

 そう話すトールクの声の後ろに、ドタバタドタンと不思議な物音が響いた。

『ああ、起きてきた。アスティからも一言言ってやってくれないか。森の民は日の出と共に起きるもんだって。』

『アスティ!? アスティからなの!? ちょっ、親父、代わって!』

 受話器の奥に聞こえるのはきっとティムの声だ。トールクとは逆に、アスティの記憶にある声よりも少し低くなったような気がするけれど。

『アスティ? 本当にアスティなの!?』

 ドンッと何かを突き飛ばすような音と同時に、若い声がはっきりと耳に飛び込んできた。

「そうよ。あなたはティムね? 元気だった?」

 遠くに、突然話し相手を奪われたトールクの抗議の声とそれを宥めるメリルの声が聞こえ、アスティは微笑みながら、ティムの声に答えた。

『もちろん、元気だよ! アスティは? 王宮騎士団の宿所にいるって本当?』

「うん。トールク叔父さんは良く思っていないみたいだけど、騎士団の人たち、本当にみんなすごく親切で良い人ばかりなのよ。」

『ああ、うん。さすがに俺もあのいかれた親父と思考回路を共有するつもりはないんだけど……でも、気を付けて。例え一人一人の騎士団員が良い奴でも、全幅の信頼を置くべきじゃない。ここは、そういう場所じゃないから。』

「ここ……?」

『王都は東の森とは違うってこと。みんながみんな悪い奴でもないけど、みんながみんな良い奴でもないから……アスティは騙されやすいから気を付けないとダメだよ。』

「私、騙されやすいの?」

『それはもう、間違いなく。』

 自信に満ちたティムの返事が返ってきたが、アスティとしては受け入れ難い答えだ。

「でも、春祭りの嘘吐き大会はいつもティムの方が騙されてばかりだったじゃない。」

 アスティはむっとして言い返した。東の森には、年に一度、春の一日だけ嘘を付いて良い日があった。みんなその日のために飛び切りの嘘を考え、家族や友人を驚かせるのだ。この日の嘘は、騙される方も騙されることを楽しめる夢の多い嘘ばかり。去年のアスティは、妖精を見つけたと言ってティムを小川へ連れ出したのだ。

「毎年、私の方が騙すのは上手だったでしょ?」

 アスティが問うと、ティムはくつくつと笑う。

『そう思ってるってことが騙されやすい証拠なんだよ。』

 何だか腑に落ちない。東の森にいた頃、ティムはいつもアスティの後ろをとことこと付いてきて、アスティはいつもティムの「お姉さん」役をしていたのに、今、こうして音声通信で話しているティムは何と言うか……生意気だ。

「ねぇ、『親父』ってトールク叔父さんのこと?」

『へ? あ、うん。そうだけど?』

「前は『お父さん』って呼んでたし、自分のことも『僕』って言ってたのに……どうして?」

 話している相手は間違いなくティムなのに、音声通信機を介してのお喋りにはどこか違和感がある。記憶よりも低く聞こえる声も、生意気な受け答えも……何だか少し変な感じがするのは、数ヶ月ぶりだからだろうか。

『どうしてって言われても……まあ、年相応にって言うか……。』

 受話器の向こうのティムは言い淀み、低い声で唸った。

『そんなことよりさ、聞いてよ、アスティ! 俺、王立大学の理学部に合格したんだ! 国の奨学金は取れなかったけど、ウェルフス財団から学費補助を受けられることになったし、成績が良ければ来期は学費免除も狙えるかもしれなくて……!』

 受話器から届いた「ウェルフス」の名に、レイシーの顔が脳裏をよぎり、アスティははっと息を飲んだ。彼の関わる財団に身内であるティムが世話になっていること自体も驚きだったが、それよりも先に「ウェルフス」の悲劇が思い出されて、アスティはティムの喜びの声にすぐに応えることができなかった。

「……すごいね。勉強、頑張ってるんだね。」

 小さく呼吸を整えて、アスティは通信機の向こうにいるティムに返す。

『うん、東の森では分からなかった色んなことを勉強してるよ。今、一番面白そうだなって思ってるのが、四次元定理を応用した新時空理論の研究なんだ。まだ実証されてないけど、王立大学の理学部にこの分野の第一人者がいて、その人のゼミに入りたいと思ってるんだ!』

 受話器越しでも、ティムの声が熱を帯びてくるのが分かる。アスティには耳慣れない言葉も多く、その内容を正確に理解することはできないが、ティムが新しい知識を得ることを、大学で学ぶことを楽しんでいることは分かる。

『ねえ、せっかく王都に出てきたならさ、アスティも大学に行ったら? 勉強は大変だけど、きっと面白いよ!』

 ティムが無邪気な声で言う。

「私は……。」

 「無理だよ」と言い掛けてやめた。東の森にいた頃から勉強のできたティムとは違い、正直なところ、勉強はあまり得意でもなければ好きでもない。特に、「先生」から聞く難しい話は苦手だ。東の森の様々な植物や動物の名前はすぐに覚えられても、たくさん並んだ数字の意味を覚えるのはどうしても上手く行かなかった。ただ、今のアスティは「知ること」の重要性は理解している。もっと色々なことを知らなければならない。今すぐ大学に行こうとは思えないけれど、大学で学ぶことが「知る」ための一つの有効な手段であることは分かる。ティムは既に、この短い期間でアスティの知らないたくさんのことを学んでいるのだ。

「そうだね、私も王都でたくさん勉強したいな。森のことも、王都のことも、この国のことも、知らなきゃいけないことがいっぱいあるから……。」

『……うん、僕にも知らなきゃいけないことがたくさんある。』

 少しの間を置いて、ティムが神妙な同意を返してきた。いつの間にか、一人称が懐かしい「僕」へ戻っている。

「ねえ、ティムは四次元定理を証明したのが誰だか知ってる?」

 アスティは明るい声でティムに問いを返した。

『え? そりゃあもちろん……って、ああ、そっか。アスティは会ってるんだったね、イニス騎士団長に。』

 アスティはヨルンたちに教えられるまで知らなかったが、やはり歴史的な偉業だったという四次元定理の証明者の名は、その道の人々には広く知られているものらしい。

「とても優しい人よ。」

『俺はあの人の論文を読んだことがあるだけで直接会ったこともないからどんな人間か知らないけど、俺とそう変わらない年齢であの証明をしたってことについては尊敬するよ。正直、道を誤ったんじゃないかって気もするけどさ。』

「え?」

『いやさ、あの人は騎士団になんか入らないであのまま研究者として数学やってた方が良かったんじゃないのかなってこと。学会にとって、あの人が抜けたのは大きな損失だったろうし、本人にとっても、大人しく学者をしていれば、こうまで世間に悪名を轟かせることもなかっただろうからさ……。』

 ティムの言葉に、アスティは今のイニスの立場を思い出してきゅっと胸が痛んだ。永年の難題を解き明かして喝采を浴びたはずの人物が、どうして多くの人々から嫌悪を向けられ、非難されるようになってしまったか、アスティにはまだよく分からなかった。

『まあ、剣の腕も抜群だって言うし、人気はなくても無能だって話は聞かないから、どの道に進んでももったいない人材ではあったんだろうけど。』

「そうね……。」

 アスティは静かに同意を返した。他に何と言って良いか分からなかった。

『ねえ、アスティ。今度、うちに来てよ。騎士団の宿所にいるからって別に出掛けられない訳じゃないんでしょ? 話したいこと、色々あるんだ。アスティが来るなら、母さんも張り切って豪華な夕食作ってくれるだろうし!』

『あら、今日だって十分豪華に作ってるわよ。』

 ティムの弾んだ声の後ろで、メリルの不満げな声が聞こえた。

「ありがとう。今度きっと遊びに行くね。また連絡するから……。」

 アスティがそう答えた瞬間、ぬっと目の前に何かが現れて、アスティは思わず仰け反った。

「何やなんや、アスティちゃん、誰と話してるん? まさか、この俺を差し置いて誰かとデートの約束しとるんとちゃうやろな?」

 金色のしっぽを垂らし、人懐っこい笑顔を見せたのはナウルである。

『……アスティ?』

 思わず耳から離してしまった受話器から、微かにティムの声が聞こえる。アスティは慌ててティムに答えようとしたものの、ナウルがアスティの手から受話器を奪い取った。

「……お前、一体誰や? 俺のアスティちゃんに何の用?」

 ナウルが受話器越しに問う。

『誰って……お前こそ誰だよ!? てか、『俺のアスティ』って何だよ!?』

 受話器からティムの動揺した声が漏れ聞こえて来て、アスティは受話器を取り戻そうと手を伸ばしたが、ナウルは片手でアスティを押さえ込みながら、高い位置に受話器を構えていて届かない。

「俺が誰かってそら、王宮騎士団一の天才にして真の実力者、ナウル様に決まっとるやろ!」

 ナウルは得意げに言い放つと、カッカと笑った。

『王宮騎士団のナウルって……まさか、王立大学の医学部を首席で卒業しながら医師免許を取れなかったあの伝説の大馬鹿者!?』

 ティムの驚きの声はアスティの耳にもはっきりと届いた。イニスの功績のみならず、ナウルのことまでもティムが知っていたのはアスティにとって意外だった。ある意味、イニスの評判よりもナウルの評判の方が悪いらしいということを含めて。

「……誰が大馬鹿者や! それに、俺は医師免許は取れなかったんやのうて、取らなかっただけや! 間違えんなや!」

 ナウルは受話器に向かって怒鳴りつけ、その勢いのまま、音声通信機の脇のフックに受話器をガシャンと叩きつけた。その途端、音声通信機の右上のランプが消灯する。

「……あ、あかん。うっかり切ってもうたわ。」

 怒りを吐き出して冷静になったナウルがぼんやりと呟く。「切ってもうた」と言うのはつまり、音声通信が切れてしまったということだろう。

「で、今の失礼な奴は誰やったん?」

 ナウルがアスティを振り返った。

「従弟のティムです。叔父の家族が王都の外れに住んでいて……。」

「ふぅん、いくつ?」

「私の三つ下です。」

「学生?」

「はい、今年、王立大学の理学部に合格したって……。」

「王立の理学部ねぇ……ほんなら、そこそこ頭はええねんな。」

「はい、ティムは昔から勉強がよくできて……。」

「まあ、どない良くても俺には及ばんやろけど。王立大学理学部、ティム……ね。俺は男の名前は覚えん主義やねんけど、アスティちゃんの従弟っちゅうんなら覚えといたるわ。ま、せいぜい道を誤らんようにしっかり勉強せえって伝えといてや。」

 ナウルは面白そうに笑うと、アスティの肩をポンポンと叩き、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら厨房の方へと歩いていった。どうやら、昼食を取りに食堂へやって来たらしい。気が付けば、食堂内にはジェイスたちと同じ制服を来た騎士団員たちの姿が増え、各々食事を取っている。ギムニクの姿は既にないが、ヨルンとジェイス、そしてキーロは同じテーブルで食事中だ。小ぶりの平皿を前にしたジェイスが、タワーのごとくそびえ立つパンケーキを前にしたヨルンを呆れた顔で見つめ、キーロは果物の盛られたボウルを楽しそうにつついている。食堂内に漂うおいしそうな匂いに、アスティも少しお腹が空いてきた。

 アスティは、迷いながら音声通信機を振り返る。ティムとの音声通信は、ナウルによって唐突に切られてしまった。もう一度、音声通信でティムと連絡を取って事情を説明した方が良いような気もするが、ナウルに受話器を奪われた時点で、ティムとの会話は一通り終了していた。ナウルの乱入がなければそこで通信は切れていたかもしれない。

「また連絡するって伝えたし……。」

 ナウルからティムに「しっかり勉強するように」という伝言も預かったが、急ぐ話ではないだろう。何より、言うまでもなく、ティムは既に勉強を頑張っている。

「今日はもういいかな。」

 アスティはそう結論を出すと、音声通信機に背を向けた。通信の度に硬貨が要るとなると、そう度々連絡を取るわけにもいかない。アスティがムリクと共に東の森で溜めた硬貨の数は限られている。騎士団の宿所で食事は無料で提供されているが、この先、お金が必要になることは多々あるはずだ。将来に備えて、今から節約しておくに越したことはない。音声通信は、また日を改めて大事な報告事項ができたときで良いだろう。遊びに行くと約束はしたが、今日明日ですぐに出掛けられるわけでもない。アスティにはまだ、この王宮で知らなければならないことがたくさんあるのだ。

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