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第49話 幸せになること

 アスティたちは貧民街を抜け、大通りへと戻って来た。昨日も通った賑やかな通りは、貧民街とは明らかに様子が異なっている。道端にゴミが散乱しているということもないし、行き交う人々の服装も色鮮やかだ。

 楽しげな街の空気にほっとする一方、アスティは微かな後ろめたさを覚えた。

「しっかし、何や頭使うたら、腹減ってもうたなあ……。」

 先を歩くナウルがぼそりと呟いた。

「お前、お好み焼きもたこ焼きも散々食べただろうが。どれだけ食えば気が済むんだ。」

 イニスが呆れた口調で言い、眉を顰める。

「あれは昼飯や! 昼飯食うたら次はおやつ食べな!」

 ナウルはイニスに答えつつ、きょろきょろと辺りを見回した。

「うーん、何かええもんないかなぁ……おっ、ソフトクリームのワゴンが出とるで!」

 嬉しそうな声を上げたナウルの視線を追って自動車の行き交う道路の向こう側を見ると、赤と白のしま模様の屋根を載せた小さな屋台があった。

「アスティちゃんは、ソフトクリーム食べたことある?」

 ナウルがくるりと振り返ってアスティに尋ねる。

「いえ。それはお菓子……ですか?」

 アスティが聞き返すと、ナウルはにんまりと笑った。

「ん。甘くて冷たくて、とーってもおいしいんやで!」

 ナウルの話を聞きながら、アスティは「ソフトクリーム」なるものについて想像する。甘くて冷たいと言うと、清流で冷やしたマリイヤの実のようなものだろうか。ナウルの話だけはソフトクリームがどのようなものか判然としないが、期待は募る。

「よっしゃ、今日のおやつはソフトクリームに決まりやな! ほな、イニス……。」

 ナウルはポンッと一つ手を叩くと、イニスに向き直って微笑んだ。さもいいことを思い付いたというような得意げな笑みには、アスティも見覚えがある。ヤンの小屋で、ナウルがイニスから薬代を奪い取った時に見せた笑みと同じだ。

「……俺はもう出さないぞ。」

 イニスは不機嫌そうにナウルを睨みながら言った。「出さない」と言うのは、たぶん、ソフトクリームの代金を出さないという意味だろう。ナウルに再び懐に手を突っ込まれて泥棒されるのを防ぐためか、襟元を押さえるように手を添えている。

「何や、ケチくさいやっちゃなぁ。エウレール一の高給取りのくせにソフトクリーム一つ奢らへんなんて。」

 ナウルが唇を突き出して不満そうに呟くと、イニスがぴくりと頬を引きつらせた。

「ケチはどっちだ! 自分の飯代くらい自分で払え! なんで俺が毎回毎回お前の飯代を出さなきゃならないんだ!」

 苛立たしげに返すイニスの言い分はもっともだ。お好み焼きもたこ焼きも、今日の食事代は全てイニスが支払っている。ナウルの分のみならず、アスティの分も——。

 ふと、アスティは貧民街の路地裏でヤンに言われたことを思い出した。甘くて冷たい「ソフトクリーム」を食べることも、ヤンの目には「贅沢三昧」と映るだろうか。

「そんなん、ようけ金持っとる奴が払うんが常識やろ?」

「勝手に変な常識を作るな!」

 考え込むアスティの傍らで、ナウルとイニスが再び口論を始めている。同じようなやり取りをたこ焼きの屋台の前でも聞いた気がする。ヤンがぶつかって来て、勝敗のつかないまま中断されていた戦いに再び火が付いたらしい。

「……まぁええわ。ケチくさい騎士団長様にはそもそも期待してへんし。」

 不意にナウルがくるりとイニスに背を向け、ごそごそと自分の懐を探り始めた。

「お前、散々人にたかっておいて……!」

 イニスが眉間にしわを寄せて握り締めた拳を震わせているが、ナウルはイニスに背中を向けたまま、懐から銀色の金具が付いた手のひらサイズの布袋を取り出した。華やかな柄の布地を縫い合わせた布袋はぽってりと可愛らしい形をしていて、ナウルが銀色の金具を摘むと、パチンという軽快な音と共に銀色の金具がカエルの口のようにパクリと開いた。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……んー、まあ足りそうやな。」

 ナウルがカエルの口を覗き込みながら小さな布袋を揺すると、チャラチャラと硬貨のぶつかり合う音が響いた。どうやらこれがナウルの財布らしい。

「ケチの騎士団長様の代わりに、ソフトクリームは俺が奢ったるから、アスティちゃんは安心してや。」

 にっこりと微笑むナウルにアスティも笑顔を返したかったが、うまく笑えなかった。ナウルの背後に不機嫌そうなイニスの顔を見たからではない。ヤンやルリのことを考えると、「ソフトクリーム」を食べることに罪悪感を覚えざるを得なかったからだ。

 ヤンやルリは、「ソフトクリーム」を食べたことがあるのだろうか。お好み焼きにたこ焼きを食べた後で、ソフトクリームまで食べるのはやはり「贅沢」なのではないだろうか。

「……なんや、どないしたん? 気分でも悪いん?」

 アスティの無反応を心配してか、ナウルが首を傾げてアスティの顔を覗き込んできた。

「あの……やっぱり私はソフトクリームはいい……です。」

 アスティは躊躇いがちに答えた。

「何や、アスティちゃんは遠慮せんでええんやで? ケチくさいイニスの言うことなんか気にしたらあかんよ?」

「いえっ、そうじゃないんです。そうじゃ、なくて……。」

 アスティは言い淀み、俯いた。お好み焼きもたこ焼きもイニスに御馳走してもらって、さすがにこれ以上は申し訳ないという気持ちはもちろんあるし、ナウルならいいという問題でもない。

 ただ、脳裏にヤンとルリが浮かび、自分だけが「贅沢」をすることに対する後ろめたさが拭えなかった。

「お好み焼きもたこ焼きもアスティちゃんはそない食べてへんはずやから、お腹がいっぱいっちゅうわけやないやんな?」

 ナウルの推理は正しい。正直に言えば、アスティは今、ちょっぴりお腹が空いている。お好み焼きはキーロと半分ずつだったし、たこ焼きもヤンにぶつかられて宙に放り出してしまったから、結局一つしかアスティの口には入っていない。でも、ヤンやルリはもっとお腹を空かせていたはずなのだ。

「その、今日はお好み焼きもたこ焼きも食べたので、これ以上はちょっと贅沢過ぎるかな、って……。」

 アスティは俯きながら呟くように言い、努めて笑顔を作ると顔を上げた。ナウルは不満げに眉を顰めてアスティを見つめると、おもむろに口を開く。

「……もしかして、ヤンに言われたこと気にしとるん?」

 さすがナウルと言うべき察しの良さだ。アスティは小さく頷き、俯いた。

「アスティちゃんはほんまにええ子やねぇ。」

 ナウルが小さく息を吐き、アスティは顔を上げる。ナウルは困ったような笑みを笑みを浮かべてアスティの顔を見つめていた。

「けど、そんなん、アスティちゃんは全然気にせんでええんやで!」

 ナウルはニッと笑みを浮かべ、ポンッとアスティの頭に手を載せ、くしゃりと髪を撫でた。

「ええか? 王都では大概のもんはお金で買うことになっとる。そんで、誰かが物を買うっちゅうことは、誰かが物を売るっちゅうことや。誰かが物を買うために使ったお金は、それを売った人の稼ぎになる。その売った人も、その稼ぎで食べ物や着るものを誰かから買う、その繰り返しや。何かを売る人は、売った物が買った人の役に立って、その人を喜ばせたらええなあ、幸せにできたらええなあ思て作っとる。代金は人を幸せにした分の正当な対価や。お金を貰うことも払うことも悪いことやない。うちのパンやってそうやで? 誰かに美味しい言うて食べて貰うために作られとるんや。アスティちゃんは、美味しいパンを買うて、美味しい言うて食べることが悪いことや思う?」

 ナウルの問いに、アスティは左右に首を振る。

「なら、ソフトクリームも同じや。アスティちゃんが美味しく食べて幸せな気持ちになってくれるなら、ソフトクリームも本望やろ。誰にも食べて貰えずに捨てられてまうよりもずっとええ。もちろん、食べてみて口に合わんっちゅうこともあるかもしれへんけど、そうと分かったら次から買わへんようにすればええだけや。一度試してこらあかん思たら、それは、あかんことが分かったっちゅう意味で役に立ったっちゅうことやし。ま、ソフトクリームはアスティちゃんも絶対に気に入ると思うけどな?」

 ナウルはにっこりと笑う。ナウルの言いたいことは分かる。何も間違ってはいない。美味しいものを食べられることは幸せなことだし、イニスやナウルが美味しいものや珍しいものを御馳走してくれることも素直に嬉しいと思う。でも、その幸福を味わえない人がいる。今も重い病気で苦しんだり、お腹を空かせたりしている人がいるのに、彼らを放ってはしゃいでいてもいいのだろうか。

 アスティが黙っていると、その迷いを察したかのように、ナウルが続けて口を開いた。

「ソフトクリーム食べたら、アスティちゃん、きっと幸せな気持ちになるで。ほんで、アスティちゃんが幸せな気持ちになったら、アスティちゃんはその分誰かに優しくできるはずや。そやから、その誰かのために、アスティちゃんは今こそソフトクリームを食べなあかん!」

「食べなあかん……ですか。」

 ナウルの力強い断定に、アスティは思わずナウルの台詞を復唱して問い返す。イニスが傍らで呆れたようにため息を吐いているが、ナウルは大きく頷いて続けた。

「不幸な人間は他人を幸せにできひん。自分が幸せになることでいっぱいいっぱいやから、他人のことまで頭回らへんのや。けど、幸せな人間には他人に優しくできる余裕がある。ほんで、その優しさが周りの人を幸せにすんねん。そやから、幸せになることは悪いことやない。それどころか、みんなまずは自分を幸せにせなあかんねん。自分の幸せを犠牲にして世のため人のためやて偉そうに言うても、痛々しい上に恩着せがましいだけや。自分が幸せやない奴は、結局誰も幸せにできひん。」

 ナウルは最後の一言を真剣な表情で言い切った。

 自分が幸せになることが優しさになり、誰かの幸せに繋がる——それはとても素敵なことだ。アスティもそういう風に振る舞いたいと思いながらナウルの話を聞いていたが、最後の一言に再び考え込んでしまった。

 ——俺は、お前らの施しなんか受けねぇ!

 そう叫んだヤンの表情をアスティは思い出す。あの時のヤンは、ナウルの厚意を「恩着せがましい」ものとして受け止めたのかもしれない。アスティがヤンやルリのためと思ってすることも、本当にヤンやルリのためになるのか、ヤンやルリの望むことなのかは分からない。決して見返りを求めているわけではないとしても、それが意図通りに受け取られるとは限らない。

 そもそも、ここでアスティがソフトクリームを我慢しても、代わりにヤンやルリがソフトクリームを食べられるわけではないのだ。結局、ここでの「我慢」はアスティの自己満足に過ぎず、誰も幸せにはならない。

 ナウルの言葉は、優しいようで、とても厳しい。

「これ、我ながらなかなかええ話したんとちゃう? なぁ?」

 ナウルはふっとおどけた表情に戻り、背後のイニスを振り返った。イニスはつまらなそうに顔を背け、何も言わない。異論はないということだろうか。

 イニスが、ナウルの食べ過ぎ——何だかんだでアスティの分にも手を付けているナウルが一般的な食事量を越えて食べていることは明らかだ——は咎めても、アスティがソフトクリームを食べることを問題にしないのは、この点についてのナウルの主張に賛同しているからだろうか。イニスの曖昧な態度が、アスティに対する遠慮によるものなのか、ナウルの自信満々な態度に対する呆れによるものなのか、アスティにはよく分からなかった。

「とにかく! 俺としてはやっぱりアスティちゃんにソフトクリームを食べてみて貰いたいんや。ほんで、アスティちゃんが美味しい言うて笑ってくれたら俺も幸せやねん。そやから、アスティちゃんは何も遠慮せんと、俺の幸せに協力するためや思て一緒にソフトクリーム食べへん?」

 ナウルがアスティの顔を覗き込むように笑い掛けると、キーロが機嫌良さげに「クエッ、クエッ!」と鳴いて、アスティの肩からナウルの肩に飛び移った。

「おっ、キーロも美味しいソフトクリーム食べたいんやね? うんうん、美味しいもんはみんなで食べるんが一番やからな。」

 ナウルは頷きながらキーロの頭を撫で、アスティを見つめる。

 ナウルに気を遣わせてしまったことが少しだけ心苦しい。でも、ここで求められているのが謝罪の言葉などではないことは分かる。

「ありがとうございます。」

 アスティは微笑んでナウルに答え、ナウルも満足げに微笑み返す。

「ほな、アスティちゃんを幸せにするためにソフトクリーム買うてくるわ!」

 そう言うや否や、ナウルは歩道と車道を分ける低い柵をひょいと飛び越えた。

「ちょっと待て!」

 イニスが慌ててナウルの腕を掴もうと腕を伸ばしたが、ナウルは白衣を翻し、イニスの手は空を切った。ナウルはキーロを肩に乗せたまま、行き交う車の合間を縫って素早く向こう側へと渡ってしまう。

「……アスティはああいうバカの真似はするなよ?」

 イニスは額に手を当て、ため息混じりに言った。

「バカな真似?」

 アスティがきょとんとして聞き返すと、イニスはもう一度ゆっくりと息を吐いて、王都における交通規則を丁寧に説明してくれた。

 イニス曰く、車と人の通る道がはっきりと区分された広い通りでは、通りの反対側へ行きたい人は、信号機のある定められた場所で、信号機が青く光っている時にしか道を渡ってはいけないことになっているそうだ。ナウルとイニスについて通り歩くうちに信号機の仕組みは何となくは理解していたが、改めて説明を聞き、アスティは王都の上手い仕組みに感心した。

 確かに、多くの車が行き交う道を人々が好き勝手にうろうろしていたら車は前に進めないし、目の前をあっという間に走り抜けて行く車にぶつかれば、普通の人は撥ね飛ばされて大けがをしてしまうだろう。ナウルが通りを渡る様子を眺めながら、アスティも何となく危なっかしい気はしていたのだが、あれは完全に規則違反の危険行為だったようだ。

 イニスの講義が終わり、アスティが交通規則の遵守をイニスに約束すると、ナウルが再び車の間を縫って道路の反対側から戻って来た。イニスが眉間にしわを寄せて交通違反を窘めるが、ナウルは「やって、遠回りやん。」と悪びれずに返す。イニスは語気を強めてナウルを叱るが、目を閉じて空を仰いだナウルが真剣に聞いているようには思えない。言っていることが正しいのは明らかにイニスの方と思えたが、どうにもイニスの言葉はナウルに対して効果的ではないらしい。

「ああもう分かったから、その話は後や、後。ソフトクリームが溶けてまうやん!」

 ついにナウルがイニスを肩で押し退け、右手をアスティの眼前に差し出した。

「ほい、アスティちゃんの分!」

 差し出されたのは、くるくると渦巻く白いクリーム状のもので、これが「ソフトクリーム」なのだろう。逆向きのとんがり帽子の形をしたクッキーのようなものの上にバランス良く載っている。渦を巻く独特の形も興味深いが、ほっそりと空を目指した先端が森に茂る蔦の若芽のようにくるりと小さな円弧を描いて垂れる様が、何だかとっても可愛らしい。

 傍らでナウルを睨んでいるイニスを気にしつつも、アスティは初めて見るお菓子の誘惑に抗うことはできなかった。「わぁ、ありがとうございます!」

 ナウルの手からソフトクリームを受け取り、アスティはうっとりとそれを見つめる。

「ささっ、早よう食べて。溶けてまうで。」

 そう言って、ナウルは自分の分として買って来たらしいもう一つのソフトクリームに口を付けた。白いクリームの先をぺろりと舌で舐め、満足そうな笑みを浮かべる。

 アスティもナウルに倣い、ソフトクリームの先端に舌を付けた。ひんやりとした冷たさが舌に伝わり、軟らかなクリームは、甘さの感覚だけを残してあっと言う間に舌の上で消える。

「……おいしい!」

 アスティが声を上げると、ナウルがニッと笑みを見せた。

「幸せな気持ちになった?」

 ナウルの問いにアスティが大きく頷くと、ナウルも満足げに笑っている。ナウルの交通規則違反で苛立っていたイニスも、いつの間にか表情を緩めている。

「ほな、次は誰かに優しくしてあげなあかんね?」

「はい。」

 アスティがにこやかに答えると、ナウルの肩でキーロが羽ばたかせながら鳴いた。キーロもソフトクリームを食べたいのだろう。アスティはまずキーロに優しくしようと思ってキーロの眼前にソフトクリームを差し出し掛け、ふと気付いた。

「……あれ? ところで、イニスさんの分は?」

 ナウルが買って来たソフトクリームは、アスティとナウルの手に一つずつ。キーロの分はアスティと半分こにするとしても、イニスの分が見当たらない。

「これは俺のやからな。やらへんで?」

 ナウルが手にしていたソフトクリームをイニスから隠すように脇に引き寄せると、イニスは再び眉を顰め、「欲しいと言った覚えはない。」と素っ気なく返した。お好み焼きとたこ焼きに続いてソフトクリームまで食べると言い出したナウルに呆れていたイニスが自分も食べたいなどと言い出すとは思えないが、ナウルとアスティがソフトクリームを頬張る傍らでイニス独りが見ているだけというのは何だか少し気が引ける。何しろ、ソフトクリームは甘くて冷たくて、とっても美味しいのだ。

 ——イニスさんも一緒に食べたらきっと幸せな気持ちになるのに……。

 アスティは、イニスの眉間のしわを見つめながら思う。

「クエッ、クエッ!」

 キーロがナウルの肩でソフトクリームを催促するように繰り返し鳴いた。

「ほんまに残念やねぇ、ソフトクリームの美味しさが分からへんやなんて。キーロやて一目で理解したちゅうのに。」

 ナウルはソフトクリームを片手に妙に得意げな笑みを浮かべながらイニスを見遣り、空いた手で肩に留まったキーロの頭をよしよしと撫でる。

「グエッ!」

 なかなかソフトクリームにありつけないキーロが濁った声で鳴いて羽をばたつかせた。だいぶ御機嫌斜めなキーロの様子にナウルは気付いていないようだ。キーロが空腹で暴れ出す前にとアスティは自分のソフトクリームをキーロに差し出そうとした——が、その瞬間、キーロは首を伸ばし、大きなくちばしを広げてパクン……と目の前のソフトクリームを丸ごと一口で飲み込んだ。振り向いたナウルが唖然として、白く渦巻くソフトクリームが消えた逆さまのとんがり帽子を見つめる。

 アスティのソフトクリームは、まだちゃんとアスティの目の前にあった。消えたのは、ナウルが手にしていたソフトクリームだ。

「おいしかったか、キーロ?」

 イニスがふっと笑みをこぼし、キーロに向かってにこやかに問いかけると、キーロは素直に「クエッ。」と答え、満足げに片翼を広げた。

「き、キーロぉ……お前、王宮前広場での写真撮影も邪魔しよったし、実は俺に恨みでもあるんとちゃうやろな?」

 ソフトクリームを丸ごと横取りされたナウルは脱力してしゃがみ込み、肩に乗ったキーロにため息まじりで問い掛ける。

「クエッ?」

 きょとんとして首を傾げるキーロにたぶん悪意はないのだろう。もしキーロが人の言葉を話せたなら、きっと体の大きさに比して旺盛過ぎる食欲を抑えることができなかっただけ——目の前においしそうな物があったから食べただけなどと言うに違いない。東の森でアスティやムリクの食事を横取りしていた時も、全く悪びれる様子はなかったから。

「昨日、マリイヤの実もやったのに……そう言うの、恩を徒で返すっちゅうんやで?」

 ナウルが不満げにキーロを見やるが、キーロは大好物の名前を聞いて興奮したのか、嬉しそうに短く鳴きながら両翼を小刻みに動かしている。ナウルにとっては迷惑な話かもしれないが、キーロはだいぶナウルになついているようだ。大好物のマリイヤをくれたナウルが手にしていた物だからこそ、キーロは躊躇いなくソフトクリームに食いついたのではないかという気もする。

「ソフトクリームは少しずつ舐めて食べるんが楽しいのに、一口で飲み込んでまうし……。」

 キーロに全く反省のそぶりが見えないことに落ち込んだのか、ナウルは再び大きくため息を吐いた。

「ああ、俺のソフトクリーム……今日のおやつ……。」

 ナウルは潤んだ瞳で逆さまのとんがり帽子を見つめながら呟く。

「あ、あの、もしよかったら私のを半分……。」

 アスティはキーロに食べられることを免れたソフトクリームを手に、しゃがみ込んだナウルの背に声を掛ける。

「ええんよ、ええんよ、アスティちゃんは気ぃ遣わんといて! 俺は、アスティちゃんとキーロがソフトクリームを美味しく食べてくれればそれで十分幸せやねん。今月の給料使い切ってもうて、今月はもうソフトクリームを食べられへんけど、アスティちゃんとキーロが喜んでくれたんやったら全然悲しくなんかないんやで!」

 ナウルは涙声で言い、振り向いたナウルの両目からは大粒の涙がこぼれている。これは、明らかに悲しんでいるのではないだろうか。

「コーンだけでも全然おいしいんやから!」

 ナウルはそう言って、自分の手に残った逆さまとんがり帽子——これを「コーン」と呼ぶのだろうか——にかじりついた。なるほど、薄く焼かれたクッキーのようにも見える逆さまとんがり帽子は、単なる容器ではなく、それ自体、食べることもできるらしい。

「良かったな、ナウル。キーロが喜んでソフトクリームを食べてくれて。涙が出るほど嬉しいんだろ?」

 隣のイニスはにこやかにナウルに声を掛けるが、その笑顔がどうにも嘘っぽいのは吐かれた台詞がナウルに対する嫌みにしか聞こえないせいだろうか。

 ナウルはコーンを一気に口に押し込んで飲み込むと、ごしごしと白衣の袖で目元を拭う。

「人の不幸を笑いよって……この悪魔! 鬼! 唐変木!」

 顔を上げたナウルが赤い目でイニスを睨み付けて叫んだ。「悪魔」の語にアスティはどきりとするが、イニスは冷ややかな目でナウルを見下ろし、呆れたように小さなため息を一つ吐くときびすを返す。

「行くぞ、アスティ。それは歩きながらでも食べられるだろう?」

 イニスはアスティが手にしているソフトクリームをちらりと見て歩き出す。ナウルは膨れっ面でしゃがみ込んだままイニスの背を睨み付けているが、その肩に乗っていたキーロはばさりと飛び上がってアスティの肩に飛び移った。

「クエッ、クエッ!」

 キーロは片翼を広げて前方を指す。イニスを追えという意味だろうか。アスティが戸惑いながらナウルを振り返ると、「アスティ!」とイニスの声がして、アスティは反射的に「はいっ!」と答えてナウルに背を向けて駆け出していた。

 アスティがイニスに追い付き、ちらりと背後を振り返ると、ナウルも既に立ち上がって歩き始めている。その表情はひどく沈み、歩みはだいぶ遅かったけれど。

「あの、イニスさんはソフトクリーム、あまりお好きじゃないんですか?」

 隣を歩くイニスを見上げながらアスティは尋ねた。肩の上のキーロがアスティの手にしたソフトクリームを物欲しそうに眺めているので、アスティはソフトクリームを持つ手を変えてキーロから遠ざける。

「別に嫌いなわけじゃない。」

 イニスは正面を見据えたまま端的に答えた。

「じゃあ、良かったらイニスさんも一口どうですか? 幸せな気持ちになれますよ?」

 アスティは微笑んでイニスにソフトクリームを差し出す。

「自分が口を付けたものを人にやるのは失礼だってさっき教えなかったか?」

 イニスがため息と共に立ち止まり、アスティを見下ろした。

「あ……。」

 アスティも足を止め、イニスを見つめ返しながら思い出す。確かにアスティはそういう話をイニスから聞いていた。エルタワーでイニスの飲み残しのマリイヤジュースをアスティが飲んでしまった時に。

「す、すみませんっ。」

 アスティは慌てて差し出したソフトクリームを引っ込めた。

「分かればいい。俺はその気持ちだけ貰っておくよ。」

 イニスはポンッとアスティの頭に手を置いた。上目遣いにイニスを見上げたアスティは、イニスの口元に微かに笑みが浮かんでいるのを認めて安堵する。

「あと……ナウルにも絶対にやるんじゃないぞ? たとえ本人が良いと言っても、みっともないからな。」

 先に歩き出したイニスが念を押すように言い足して、アスティは「はい。」としっかり頷いた。

 アスティは少しずつ溶けて形を崩していくソフトクリームを舐めながら、イニスと並んでゆっくりと歩く。

 甘くて冷たいソフトクリームを食べ終わり、アスティが逆さまのとんがり帽子をかじり始めると、キーロが再び鳴き始めた。仕方なく、アスティは残りをキーロに譲ることにして、とんがり帽子を小さく砕きながらキーロのくちばしに運んでやる。軽く香ばしいとんがり帽子の味をキーロは気に入ったようだ。

「ところでアスティ、さっきから口の周りにソフトクリームが付いたままだぞ。」

 不意にイニスが躊躇いがちに口を開いた。

「え?」

 アスティは立ち止まり、慌てて口元に手を当てる。

「そっちじゃない。」

 アスティがわたわたと口の周りを探っていると、ため息と共にイニスの手が伸びてきてアスティの頬を包んだ。アスティは驚いて動きを止める。

「……こっちだ。」

 イニスが親指の先でアスティの口元を拭ってくれた。

「あ、ありがとうございます。」

 驚きのあまり一瞬止まったようにも感じられた心臓が速い鼓動を再開していることを確認して、アスティはほっとしながらイニスに返す。

「どういたしまし……って!?」

 突然、イニスがくぐもった声と共によろめいた。

「おー、すまんすまん。足が滑ってもうたわ!」

 よろめいたイニスの背後で、いつの間にか追い付いていたらしいナウルが不自然に片足を上げて笑っていた。どうやらイニスの背中をナウルが蹴飛ばしたらしい。どう考えてもわざととしか思えないが、ナウルの口から筋の通った弁解が述べられる気配はない。

「クエッ、クエッ!」

 キーロがアスティの肩から飛び上がり、ナウルの肩に移って一緒に笑うように鳴く。

「だ、大丈夫ですか?」

 アスティは背中を押さえたイニスに尋ねたが、イニスは短く「ああ。」と答えて、眉間に皺を寄せたままナウルを睨みつける。対するナウルは、にこにこと笑いながら、「ほな、行きましょか!」と先頭を歩き出した。

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