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第32話 王都の輝き〜守るべきもの

 テーブルの上に載った料理の山を見つめながらイニスは考えていた。今日の夕食として必要な熱量は既に摂取したはずだ。ただ、東の森に滞在中の著しく糖質に偏った食事を考えると、筋肉量を維持するためにもう少し蛋白質を取っておいた方が良いような気がする。とは言え、脂身と赤身が層を成す塊肉を使った煮込み料理に再度手を付ければ、一日の必要量に対して過剰な熱量を取り込むことになってしまうだろう。日課にしている鍛錬を欠いたここ数日の活動量を鑑みれば、食べ過ぎは免れない。蛋白質の摂取は重要だが、併せて脂質を過剰摂取することになれば、無駄な脂肪で体を重くするだけだ。

 肉よりも脂質の少ない魚を食べたいところだが、あいにく、今日の献立中の魚料理は揚げ物で、調理油から摂取されるであろう熱量を計算に入れると、適切な選択とは言い難い。

 先ほどから、食品成分表を脳裏に浮かべつつ、必要な蛋白質を摂取しつつ、総熱量を抑える良い組み合わせがないものかと、暇つぶしを兼ねて無駄な計算を繰り返しているのだが、求めている答えは一向に出てこない。

 ——これは、解なしだな。

 イニスは諦めながら単純な計算を繰り返した。

「イニスさん。」

 アスティがチェルベリーパイの載った皿を手にイニスに近付いてきた。

「マリアンヌさん特製のチェルベリーパイ、いかがですか? おいしいですよ。」

 アスティは無邪気な笑顔と共にチェルベリーパイの載った皿を差し出す。「おいしいですよ」と言うからには、本人は既にこのパイを食べているはずで、わざわざイニスに食べさせようと一切れ持ってきたのだろう。中央のテーブル付近では、ナウルとジェイス、そしてゴートンの三人に、なぜかキーロまでもが混じってチェルベリーパイの最後の一切れを争っている。

「甘いもの、お嫌いですか?」

 イニスが答えあぐねていると、アスティが困ったような表情で小首を傾げた。

 別に甘いものが嫌いなわけではない。ナウルのようにただでさえ甘いチェルベリーパイにたっぷりのホイップクリームを載せて食べようとするほどの甘党ではないが、午後の休憩時にお茶と共に用意されるお菓子を楽しみにする程度には甘い物が好きだ。そうでなければ、ほんのり甘い「ふわふわうさぎのミルクパン」を好物にすることもなかっただろう。

 だから、アスティの勧めに対してイニスが躊躇ったのは、単に今はチェルベリーパイを食べるべき時ではないと感じたからに過ぎない。栄養学的に見て、今のイニスに必要なのは蛋白質であり、糖類を中心とした炭水化物ではないのだ。

「……イニスさん?」

 アスティが怪訝そうにイニスの顔を覗き込んでくる。

「いや、別に嫌いじゃない……貰うよ。」

 イニスはアスティからチェルベリーパイの載った皿を受け取り、片手でパイを掴んでかぶりついた。チェルベリーの甘酸っぱさとカスタードクリームの濃厚な甘さが口の中に広がっていく。これまで幾度となくマリアンヌの焼くフルーツパイを食べて来たが、今日のチェルベリーパイは特に出来が良い。

「……うまいな。」

 イニスが一言感想を漏らすと、アスティが嬉しそうに笑った。

 これで、明日、マリアンヌが朝食に出してくれるはずの「ふわふわウサギのミルクパン」には決して手を出してはならないということが確定した。栄養学を無視した食事を取ったからといって罰を受けるわけでもないが、自分で決めたルールを破り続ければ、遠からず堕落することは目に見えている。人の上に立つ人間には、それなりの覚悟と自律心が求められるのだ。一時の食欲さえ律することができないようでは話にならない。

 そうと分かっていながら差し出されたチェルベリーパイを安易に口にしたのは、決して食欲に負けたからではない。無邪気な好意を無碍にする勇気がなかっただけだ。

 しかし、冷静に考えてみると、もしチェルベリーパイを勧めてきたのが、ジェイスやヨルンなら、イニスは容易にそれを断ることができたはずだった。

 ——どうして自分は彼女の薦めを断り難いと思ったのだろう。

 イニスはチェルベリーパイを咀嚼しながら、目の前で自分を見上げているアスティを見下ろして考え込んだ。考えたところで、正しいと思える解は出てこなかったけれど。

「アスティは、食事はもういいのか?」

 チェルベリーパイを食べ終えて、イニスはアスティに尋ねた。

「はい、デザートまでしっかりいただきましたから。」

 アスティはにこりと微笑んで答える。

「そうか……。」

 答えながら、イニスは辺りを見回した。イニスの忠告を無視して懲りずに飲酒を続けているカーディアルは、いつの間にか眠そうにテーブルに伏している。完全に眠り込んだわけではないのか、心配そうに声を掛けるキュエリに筋の通らない反論をぶつけているようだ。

 ヨルンは相変わらず満足そうな笑みを浮かべながらおいしそうに酒を飲み続けているし、ゴートンはそのヨルンに絡み付きながら派手に持論を展開している。ギムニクは完全に眠り込んでいるようで、ジェイスとマリアンヌが肩を揺すっても、起きる気配はない。ナウルは勝ち取ったらしいチェルベリーパイを食べ終え、テーブルに凭れるように椅子に腰掛けながら、満足げに膨らんだお腹を撫でている。その隣では、なぜかキーロがお腹を上にしてテーブルの上に転がっていた。野生の鳥とは思えぬ警戒心の薄さに、イニスは呆れるほかない。

 ——やっぱり変な鳥だ。

 イニスは小さくため息を吐いた。

「アスティ。食事が済んだなら、少し付き合ってくれないか? お前に見せたいものがある。」

 イニスはアスティを見下ろして尋ねた。

「はい。何でしょう?」

 アスティはきょとんとして首を傾げたが、イニスはその問いかけに直接は答えず、代わりに、まだまともな意識を保っているらしいジェイスたちに声を掛けた。

「ジェイス、キュエリ、後は任せていいか?」

「へ? ああ、もうお部屋に戻られます?」

 ジェイスが振り向き、立ち上がった。

「ええ、大丈夫ですよ。こちらは私たちで片付けておきますから。キーロさんも後でアスティさんのお部屋にお連れしますね。」

 キュエリが微笑んで答えると、ジェイスが怪訝そうに首を傾げる。

「よろしくお願いします。」

 アスティがキュエリに向かってぺこりと頭を下げると同時に、「部屋に戻るならキーロも連れて行けばいいのに。」というジェイスの独り言めいた声がイニスの耳に届いた。ジェイスの疑問は当然のものだったが、一々説明するのは面倒だし、察しの良いキュエリは理解しているようだったから、イニスはあえてそれを聞かなかったことにした。

「悪いな。頼む。」

 イニスは二人に背を向けると、「行こう。」とアスティを促して食堂を出た。


   ***


 アスティがイニスについて食堂を出ると、中庭にはひんやりとした空気と静けさが漂っていた。王宮前広場のデモは既に解散したのだろう。先を行くイニスは黙って宿所の中庭を抜け、本宮へ入る。

 要所要所に立つ警備要員らしき騎士団員に会釈を繰り返しながら、アスティはイニスについて巨大な迷路をぐるぐると回り、上へ上へと登っていった。次第に周囲から人の気配が薄れてきて、たどり着いたのは、豪華な装飾の施された宮廷内では異質としか言いようのない簡素な木戸の前だった。

「少し狭いんだが……。」

 そう言ってイニスが開けた扉は大人がやっと通れるほどの小さなもので、奥にはちょっとした物置程度の小さな空間があった。少しどころではなく、かなり狭い。

「この中に何かあるんですか?」

 アスティは薄暗い部屋の奥をのぞき込みながら尋ねた。イニスは見せたいものがあると言っていた。東の森にはない王都ならではの珍しい品物でも見せてもらえるのかと思っていたが、少なくとも、ここは珍しい宝物があるという雰囲気の場所ではない。

 それどころか、目を凝らしても、部屋の中に何かがあるようには見えない。「狭い」と形容したからには、中に入るということなのだろうが、この小さな部屋に二人で入るのはかなり窮屈に違いなかった。

「奥に梯子が架けてある。先に登ってくれ。」

 イニスは胸ポケットから細い筒のようなものを取り出すと、小部屋の中へ差し入れした。すると、筒の先端から明るい光が広がって、確かに部屋の奥——と言うほど奥行きのある部屋でもないが——に木製の梯子が架けられているのが見える。

 アスティは身を屈めて小部屋に入り込んだ。見上げると、小部屋の空間は前後左右にはほとんどゆとりがないものの、上にはかなり長く伸びている。

「行けそうか?」

 イニスが小部屋の外から覗き込んで来た。

「はい。木登りは得意でしたから。」

 アスティは笑顔でイニスに答え、梯子を掴むと片足を掛けた。ギシッと梯子の軋む音がする。木製の梯子はそれなりに年季の入ったもののようだ。

 アスティは微かな不安を抱きつつも慎重に梯子を登り始めた。

「所々木が腐って足場が抜けているから、気を付けて。」

 少し登ると、下から心配そうな声が掛かった。

「はい。でも、もうあと少しみたいです。」

 アスティは上を見上げ、イニスに答えた。細長い筒の上部がぼんやりと白く光っているのが見える。あそこがこの細い筒状通路の終着点なのだろう。

 アスティがほっとしたのも束の間、次の足場に掛けたはずの右足が予想に反して真下へ抜けた。

「あ——。」

 結果、右足が担うはずだった体重は急に両腕を下方向へと引っ張った。予想外の負荷に耐えきれず、アスティの両手は梯子から離れる。

 落ちる——。

 アスティが空を掴もうとする自分の両手を見つめた次の瞬間、何かに強く背中を押されてアスティの体は宙に浮いた。

「……だから気を付けろと言ったんだが……。」

 薄闇の中にイニスの呆れた顔が浮かび、アスティを見下ろしていた。イニスは左手で梯子を掴み、右腕をアスティの背中に回して支えてくれているらしい。

「す、すみません……。」

「謝罪はいいから、とりあえず、手を伸ばして梯子を掴んでくれないか。……正直、今の体勢は俺も辛い……。」

 イニスの表情が苦しそうに歪み、アスティは慌てて両腕を伸ばすと、手探りで梯子を掴んだ。

「離しても大丈夫か?」

「……はい。」

 アスティは両足を掛けた足場の耐久性を改めて確認し、イニスに答える。イニスの腕がアスティの背中からそっと離れ、同時にイニスが小さくため息を吐いた。

「しばらく使ってなかったから、思いの外痛んでるな……。」

 イニスは明るい光を放つ筒を掲げながら、梯子の先を見上げる。確かに、明かりに照らされた梯子は足場と足場の間にだいぶ隙間があいていた。特に、アスティが今踏み抜いたと思われる部分は、数段続けて足場が折れていて、普通には登れそうもない。

「俺が先に登って引き上げた方が良さそうだな。」

 イニスが呟き、光る筒を胸ポケットにしまう。

「……すみません……。」

「いや……。」

 イニスは小さく答えると、アスティの脇を抜けて梯子を登っていく。数段飛ばしの足場を登るのは大変そうだが、イニスはほとんど腕の力で体を引き上げていた。

 イニスの体が筒の先の青白い光に包まれるようにして一旦視界から消えた後、イニスはひょこりと顔を覗かせ、アスティに向かって腕を差し出した。

 アスティがイニスの手首を掴むと、イニスもアスティの手首を掴み、ぐっと体が引き上げられた。

 心許ない木製梯子の足場から、石造りの床に体を移し、アスティはほっとため息を吐いた。

「あの……ここは何の部屋なんですか?」

 アスティは辺りを見回しながらイニスに尋ねる。細い筒状通路の入り口となった小部屋に比べれば、人が二、三人並んで腰を下ろすことのできる程度の空間がある分広くも思えるが、天井は低く、やはりどこか窮屈そうな空間だ。

「物見塔だよ。戦時に敵の侵攻を警戒するための見張り場だが、今は監視衛星もあるから戦時平時を問わずほとんど使われていない。おかげで誰も寄り付かないから、俺は一人になりたい時、よくここに来た。」

「一人に……? ええと、じゃあ、もしかして私、邪魔ですか?」

 アスティがきょとんとして尋ねると、イニスが驚いたように瞬いた。

「……俺が誘ったんだぞ? 言っただろう、見せたいものがあるって。」

 そう言ってイニスが少し体をずらすと、イニスの背後に小窓のような丸い穴が現れた。

「ここから王都の街が見えるんだ。」

 イニスに促され、アスティは小窓を覗いた。

「……わぁ。」

 小窓の先の景色に、アスティは感嘆の息を漏らす。

 眼下に、きらきらと無数の星が輝いていた。橙、黄、白、そして所々に赤や青の光も見える。

「ここからの景色をお前に見せたかった。」

 イニスが呟くようにこぼした。

「綺麗ですね! まるで宝石みたい。」

 アスティは小窓に突っ込んだ顔を引き抜き、イニスを見上げた。

「これが全部、王都の街の灯りなんだ。それぞれの灯りの下に、人々の暮らしがある。騎士団は、単に王族を守るためだけに存在しているわけじゃない。エウレールの人々の暮らしを守るためにあるんだ。この場所から街の灯りを眺めていると、それを思い出すことができる。だから、ここは王宮内で俺の一番好きな場所だ。」

 イニスは体を丸め、アスティの横から小窓を覗き込んだ。イニスの漆黒の瞳に、無数のきらめきが映り込む。

「私もこの場所、好きです。」

 イニスの視線を追い、アスティはきらめく灯りを見つめながらゆったりと微笑んだ。

「うん……でも、俺たち王都の人間は、森の木々を切り倒し、森を潰してエネルギーを作り出している。この街の灯りもそうやって作られたものだ。」

 不意のイニスの説明に、アスティは驚いて隣のイニスを振り向く。イニスの横顔はきらめく街を真っ直ぐに見つめたままだ。

「俺たちは、この灯りなしには暮らせない。暗闇の中で本は読めないし、夜中でも交通信号は止められない。暗くなったら寝て、昼間だけ活動すればいいと思うか? だが、急患が出れば医者は真夜中でも手術に立たなきゃならない。朝まで治療せずに放置すれば、助かる患者も助からなくなるだろう。そもそも王都では、街の灯りに限らず様々なシステムが昼夜を問わず稼働してエネルギーを消費し続けている。王宮のセキュリティ・システムも、自動車も、無人生産の工場も、病院の医療機器も、エネルギーなしには何一つ動かないし、これらを止めることはできない。みんな、これらのシステムが全てが滞りなく動くことを前提に暮らしているからだ。自動車がなければ遠方の家族に会いに行けない人や定期検査のために病院を訪れることさえできない人もいる。無人生産の工場は商品を安く市場に提供するが、これを機械を使わずに全て人の手で作り出すことにすれば製造コストが跳ね上がり、最終的には商品を必要とする人々が支払う価格に転嫁される。高額な商品を買えない人も出てくるし、それが死活問題になる人もいるだろう。便利で快適な生活を捨て去ることはできない。……俺たちは、森の民のようには暮らせない。」

 イニスの両目がアスティを見据えた。街のきらめきが映り込まなくなった瞳は、悲しい色をしている。

 イニスの言葉に、アスティは急に突き放されたような気がして、イニスが遠く感じられた。

 イニスはアスティを見つめたまま続ける。

「王都の人々の生活を維持する為に使われるエネルギー量は莫大だ。遠からず、既存のプラントでは日々の消費エネルギーを賄いきれなくなるだろう。灯りが消えて、街は闇に包まれる。そうなれば、もはや王都の人々はこれまで通りの生活を維持することはできない。それを避けるには、需要に合わせてエネルギーの供給を増やす必要がある。そのために、新しいプラントが必要なんだ。」

「だから、東の森を開発しなきゃいけない……?」

 アスティは震える声で聞き返した。

「そうだ。」

「そんなの……そんなのずるいです! だって、森にもたくさんの生き物が暮らしているんです。新しいプラントを作るために森が潰されてしまったら、彼らの生きる場所がなくなってしまいます!」

 アスティは声を上げて反論した。

「王都の人々も同じだよ。王都のあらゆるシステムはプラントから供給されるエネルギーで稼働している。王宮のセキュリティシステムも、交通管制も、重篤患者の生命維持装置も、エネルギーが潰えたら何も動かなくなる。料理を作るための火種も取れなくなり、移動手段も通信手段も断ち切られる。多くの人が、生きていけなくなる。」

 そう言って、イニスは視線を逸らし、闇色の瞳は再び街のきらめきを映し出す。

 街の灯りは変わらぬ美しさできらめいていたが、それらがぼんやりと滲んだ。先ほどまで宝石のように見えていた力強い輝きが、今は無数の涙のようだ。

「でも……。」

 何か言わなければと思って口を開いたものの、続く言葉が出てこずに、アスティは俯いた。

「今すぐ理解しろとは言わない。お前はまだ、王都の仕組みを何も知らない。ただ、俺はこの灯りを守るために命を懸けている。」

 アスティを見据えたイニスの目は真剣で、気圧されたアスティは余計に何も言うことができなくなった。

 イニスの言うとおり、アスティは王都のことを何も知らない。この無数の灯りがどのようにして生み出されているのかも、イニスたちがどんな仕事をしているのかも、国王が何を考えているのかも、王都の人々がどのように暮らしているのかも……何も知らないのだ。王都の人々が、森のことを知らないのと同じように。

 アスティは、王都の人々に、政府の人々に、そして国王に、知ってもらいたかった。東の森にどれほど多くの生き物が暮らしているか、森の民がどのように森で暮らしてきたか、そして、東の森の開発が彼らの生活にどれほどの影響をもたらすかを。

 森を出て国王に直接訴えようと決意した時、きちんと話せばアスティの主張は理解されるものだと思っていた。アスティにとって、森がいかに重要なものであるかは火を見るよりも明らかなことだったから。

 でも、王都の人々にとっては違う。例え彼らがアスティと同じように森の重要性を理解したとしても、森よりももっと重要なものがあると言われたら、そこで説得は行き詰まってしまう。彼らの言う「もっと重要なもの」が本当に森よりも重要なものなのかどうかは分からない。アスティには、それが何なのかさえまだ十分には分かっていない。それでも、それを知らなければならないということは分かった。

 最初にアスティに森を出るよう告げたイニスが「もっと世の中を見た方がいい」と言ったことの意味を、アスティは少しだけ理解した。

「ごめんなさい……。」

 沈黙の後、口をついて出たのは謝罪の言葉だった。

 少なくとも、この街の灯りは、イニスにとって命を懸けても守らなければならないほど大切なものなのだ。アスティの東の森を守りたいという主張は、イニスの立場とは対極にある。アスティがその主張を押し通せば、イニスの大切なものを否定してしまうことになる。

 いや、アスティは既に否定していたのだ。東の森の開発は悪だとずっと思っていたのだから。

「私、何も知りませんでした。王都のことも、イニスさんたちのことも……この国のこと、何も……。」

 東の森の外のことを、アスティはほとんど何も知らなかった。祖父ムリクは、しばしば夕食の一時をお喋りとお説教に費やしたけれど、森の外の話はほとんどしなかった。政府の連中がまたろくでもないことを言ってきた、奴らは何も分かっていない、と愚痴をこぼす以外は。

 そして、そう言うムリクが果たして王都の人々のことをどれほど分かっていたのかもアスティは知らない。ムリクはいつも王都について批判的に語ったが、彼らの悪行の理由を具体的に語ろうとはせず、少なくとも、今、イニスから聞いたような事情について説明を受けたことはなかった。アスティが詳細を尋ねても、ムリクはそんなことを聞いてどうするのかと不機嫌そうな、そして悲しそうな顔をして、アスティの問いに答えることを避けた。だから、アスティは王都についてムリクに問うことをやめた。それで何ら支障はなかった。森の植物のこと、動物たちのこと、森の民の伝統とかつての賑やかだった集落のこと——森の中のことなら、ムリクはいつだって機嫌良く、そして楽しそうに、尽きることのない話をしてくれた。

「無知を恥じる必要はない。知らないことは、これから学べばいいんだ。大切なのは、知っているか否かじゃない、知ろうとするか否かだ。……昔、俺が世話になった人はそう言っていた。」

 イニスが静かに言った。

「私でも、勉強したらイニスさんのように色々なことが分かるようになるでしょうか。」

 アスティは顔を上げ、恐る恐る尋ねた。

「ああ、もちろん。俺だって、最初は言葉も分からないところから始めたんだ。」

 イニスが優しい声音で力強く答え、アスティは小さく頷いた。

 誰もが最初は赤ん坊だった。言葉も分からず、ただ泣き叫ぶしかできないところから学ぶことを始めたのだ。イニスもジェイスも、そして国王も、みんな——。

 どうすればいいのかは、まだ分からない。王都の人々のために東の森を潰し、多くの森の生き物を死の淵へ追いやるようなことを《森の守護者》として認めることはできない。でも、この世界にはアスティの知らないことがまだたくさんある。だから、もしかしたら、東の森も王都の人々の暮らしも、両方を守れる良い方法だってどこかにあるのかもしれない。

「アスティ、お前に学ぶ気があるなら、俺たちが教えてやる。騎士団の連中はみんなそれぞれ各分野の専門家だ。暇そうなのを捕まえて話を聞いてみればいい。きっと喜んで教えてくれる、うんざりするほどな。」

 イニスは肩をすくめて笑い、空気が緩んだ。

「じゃあ、この国の歴史に詳しい方もいらっしゃるでしょうか。」

「歴史?」

 イニスがきょとんとして聞き返す。

「昔は王都の一帯にも緑の森が広がっていて、みんな森の民と同じように暮らしていたとおじいちゃんから聞きました。それがどうして変わったのか、それが分かれば、王都の皆さんが考えていることも分かるんじゃないかと思って……。」

 答えながら、アスティの脳裏には、国王への謁見前にイニスから聞いた十年前の西の森での戦争のことがよぎっていた。

 かつて、集落の大人たちが深刻な顔をして「戦争」という言葉を口にするのを聞いたことはある。しかし、まだ幼かったアスティにとっての「戦争」は、昔々のおとぎ話の中にしか存在していなかった。それがとても悲惨なものだということだけは幼心に焼き付いていたけれど、現実のものとしての実感はない。

 ムリクが「戦争ばかりしたがっている」と言うのを聞いても、王都の人々は残酷な人々なのだろうと思うだけで、そのことの意味を深く考えたことはない。

 アスティは、なぜ西の森で戦争が起きたのかをまだ知らない。西の森にも森で暮らす森の民がいるという話は、かつてムリクから聞いたことがある。同じ森の民でも、西の森の民は東の森の民とはだいぶ異なる生活文化を持っていたらしいが、アスティがその詳細を問うと、やはりムリクは不愉快そうな表情を見せた。だから、アスティは、西の森の民がどんな人々だったのかも知らない。

 知らなければならないことは、山ほどある。

「そうか……確かに、そうかもしれないな。」

 アスティの答えに、イニスは少し考え込むような素振りを見せた後、真剣な表情で頷き返した。

「とは言え、俺も初等学校で習う程度の国史なら一通り頭に入ってはいるが、人に教えるとなると自信がない。そもそも、歴史は政府が力を入れてる科学技術の範囲外だから、これを専門にしている物好きな団員は……まあ、いないこともないが。とりあえず、王立図書館に行ってみたらどうだ? 王宮内にも分室があるし、歴史書なら、正史はもちろん、子供向けの分かりやすい解説書も一通り揃っていたはずだ。明日にでも行ってみたらいい。」

 イニスに言われ、アスティは頷いた。小窓の向こうに見える輝きが再び力強く輝き出した。

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