婚約破棄の返却物、こちらではお預かりできません
「エルネスタ・ヴァルディーヌ! お前との婚約を破棄する!」
王宮の舞踏会。
王太子フェルディナンドは、集まった貴族たちの前でそう宣言した。
隣には、淡い桃色のドレスを着た伯爵令嬢が立っている。
名を、セシリアという。
彼女は王太子の腕にそっと手を添え、申し訳なさそうにエルネスタを見た。
「エルネスタ様。申し訳ございません。私が殿下と親しくしてしまったばかりに……」
「いえ」
エルネスタは首を振った。
「お気になさらないでくださいませ」
「……え?」
「婚約破棄は、殿下のお決めになったことでございますので」
フェルディナンドは眉をひそめた。
「お前は、何も言わないのか?」
「何か申し上げる必要がございますか?」
「あるだろう! 私は今、お前との婚約を破棄すると言ったのだぞ!」
「はい。承知しております」
エルネスタは一礼した。
そして、侍女に目配せをした。
侍女は、銀色の台車を押してきた。
台車の上には、大小さまざまな箱が積まれている。
フェルディナンドは、その台車を見た。
「……何だ、それは?」
「殿下からお預かりしていた品々でございます」
「預かっていた品?」
「はい。婚約者として、殿下から貸与されていたものです」
エルネスタは一番上の箱を開けた。
中には、金色の懐中時計が入っていた。
「こちらは、殿下から十歳の誕生日にいただいた懐中時計でございます」
「……ああ」
「こちらは、殿下から十二歳の誕生日にいただいたブローチでございます」
「……そうだったか」
「こちらは、殿下から十四歳の誕生日にいただいた手袋でございます」
「……」
エルネスタは、次々と箱を開けた。
懐中時計。
ブローチ。
手袋。
髪飾り。
万年筆。
書簡箱。
そして、最後に大きな箱を開けた。
中には、王家の紋章が刻まれた銀製の食器が入っていた。
フェルディナンドは、思わず声を上げた。
「待て! それは何だ!」
「王家の晩餐会で使用する食器でございます」
「なぜお前が持っている!」
「殿下が、こちらで保管しておくようにとおっしゃいましたので」
「……」
「本日をもって婚約が破棄されるとのことですので、返却させていただきます」
エルネスタは、丁寧に頭を下げた。
「長らくお預かりしておりました。ありがとうございました」
フェルディナンドは、顔を赤くした。
「……いや、待て」
「はい」
「これらは、返却する必要などない!」
「……え?」
「婚約者として贈ったものだ! お前が持っていてもよい!」
エルネスタは首を傾げた。
「ですが、殿下。先ほど婚約を破棄するとおっしゃいました」
「そうだ!」
「では、婚約者としてお預かりしていた品々は、お返しするのが当然かと存じます」
「……」
「それとも、殿下はこれらを私にくださるのでしょうか?」
フェルディナンドは、口を開いた。
「……いや、それは」
「では、返却させていただきます」
「待て!」
エルネスタは、侍女に目配せをした。
侍女は台車を押し、王太子の前に進めた。
「こちらが返却物の一覧でございます」
エルネスタは、一枚の紙を差し出した。
フェルディナンドは受け取った。
そこには、品物の名前と数量が細かく記されていた。
懐中時計、三点。
ブローチ、七点。
手袋、十二組。
髪飾り、九点。
万年筆、四点。
書簡箱、二点。
銀製食器、一式。
王家の紋章入り外套、二着。
王太子の署名入り書簡、百三十六通。
フェルディナンドは、最後の項目を見た。
「……書簡?」
「はい」
「なぜ、私の書簡まで返却するのだ!」
「婚約者としてお預かりしていたものですので」
「書簡は贈り物ではない!」
「では、こちらで保管いたしましょうか?」
「……」
「それとも、王宮の文書庫へお戻しいたしますか?」
フェルディナンドは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……文書庫へ戻せ」
「承知いたしました」
エルネスタは侍女に指示を出した。
侍女は書簡の箱を台車から下ろした。
フェルディナンドは、ほっと息をついた。
しかし、エルネスタはまだ台車の横に立っていた。
「殿下」
「何だ!」
「返却物の確認をお願いいたします」
「……」
「こちらの一覧に、受領の署名をいただけますでしょうか」
「なぜ私が署名しなければならない!」
「返却したことを確認するためでございます」
「……」
「こちらの品々は、王家の所有物でございますので」
フェルディナンドは、一覧を見つめた。
「……わかった」
彼はペンを受け取り、署名した。
エルネスタは一覧を受け取った。
「ありがとうございます」
そして、侍女に目配せをした。
侍女は台車を押して、舞踏会場の出口へ向かった。
フェルディナンドは、その背中を見つめた。
「……待て」
エルネスタが振り返った。
「はい」
「その台車は、どこへ行くのだ?」
「王宮の返却窓口へ向かいます」
「……返却窓口?」
「はい。王家の所有物を返却する際は、そちらで受理していただく必要がございます」
フェルディナンドは眉をひそめた。
「そんな窓口があるのか?」
「ございます」
「……」
「では、失礼いたします」
エルネスタは一礼し、台車とともに会場を出ていった。
フェルディナンドは、その場に立ち尽くした。
セシリアが、彼の袖を引いた。
「殿下……」
「……何だ」
「エルネスタ様は、何をなさっていたのでしょう?」
「……知らん」
フェルディナンドは、手元の一覧を見た。
そして、ようやく気づいた。
「……待て」
一覧の最後に、小さな文字で記載されていた。
『返却物の受領確認後、婚約破棄に関する手続きを開始いたします』
「……何だ、これは!」
フェルディナンドは、声を上げた。
その声は、舞踏会場に響いた。
しかし、エルネスタはすでに王宮の廊下を歩いていた。
台車の上には、まだ箱がいくつも残っている。
侍女が尋ねた。
「お嬢様。こちらの品々も返却なさるのですか?」
「はい」
「……まだございますか?」
「ございます」
エルネスタは、台車の一番下に置かれた箱を指さした。
「次は、殿下からお預かりしていた衣装でございます」
侍女は箱を開けた。
中には、王太子の衣装が丁寧に畳まれていた。
「……お嬢様」
「はい」
「こちらは、殿下の衣装ではございませんか?」
「はい」
「なぜ、お嬢様がお預かりになっていたのでしょう?」
「殿下が、私に管理を任せていらっしゃいましたので」
「……」
「こちらも返却いたします」
侍女は、箱を閉じた。
「承知いたしました」
二人は、王宮の廊下を進んだ。
やがて、返却窓口に到着した。
窓口の前には、数人の貴族が並んでいた。
エルネスタは列の最後尾に並んだ。
しばらくして、順番が回ってきた。
「こちらの品々を返却したいのですが」
窓口の職員は、台車を見た。
「……随分と多いですね」
「はい」
「こちらは、王家からの貸与品でございますか?」
「はい」
「では、貸与品返却申請書をご提出くださいませ」
エルネスタは、書類を差し出した。
職員は書類を確認した。
「……こちらの申請書は、王太子殿下の署名が必要でございます」
「ございます」
エルネスタは、先ほどフェルディナンドから受け取った署名入りの一覧を差し出した。
職員は、それを確認した。
「……こちらは受領確認書でございます」
「はい」
「貸与品返却申請書ではございません」
「……」
「申請書は、第二窓口へお願いいたします」
エルネスタは一礼した。
「承知いたしました」
彼女は台車を押し、第二窓口へ向かった。
第二窓口では、職員が書類を確認した。
「こちらは婚約破棄に伴う貸与品返却申請でございますね」
「はい」
「では、こちらの書類をご記入くださいませ」
職員は別の紙を差し出した。
エルネスタは受け取った。
「……こちらは?」
「貸与品の所有者確認書でございます」
「……」
「王太子殿下の署名が必要でございます」
エルネスタは、書類を見つめた。
「……先ほど署名をいただきましたが」
「こちらは別の書類でございます」
「……」
「第三窓口へお願いいたします」
エルネスタは、台車を押して第三窓口へ向かった。
第三窓口では、職員が書類を確認した。
「こちらは王家所有物の管理に関する書類でございますね」
「はい」
「では、第四窓口へお願いいたします」
エルネスタは、第四窓口へ向かった。
そこでは、職員が書類を確認した。
「こちらは婚約破棄に伴う返却物の受領に関する書類でございますね」
「はい」
「では、第一窓口へお願いいたします」
エルネスタは、第一窓口へ戻った。
窓口の職員は、書類を確認した。
「こちらの書類は、貸与品返却申請書ではございません」
「……」
「第二窓口へお願いいたします」
エルネスタは、しばらく窓口を見つめた。
そして、静かに一礼した。
「承知いたしました」
彼女は台車を押して、第二窓口へ向かった。
その頃、舞踏会場では。
フェルディナンドが、セシリアと話していた。
「……エルネスタは、何をしているのだ」
「返却窓口へ向かわれたのでは?」
「……」
「殿下。私たちも、そろそろ帰りませんか?」
「……いや」
フェルディナンドは、手元の一覧を見た。
「……返却物の確認をしなければならん」
「……」
「……」
「殿下?」
フェルディナンドは、顔を上げた。
「……私は、エルネスタに何を預けていたのだ?」
セシリアは、一覧を見た。
「……懐中時計やブローチ、手袋などでしょうか」
「……」
「……」
「……それだけではない」
フェルディナンドは、一覧をめくった。
「……衣装もだ」
「……」
「……書類もだ」
「……」
「……」
フェルディナンドは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……私は、エルネスタに何を任せていたのだ?」
セシリアは、答えられなかった。
翌朝。
王宮の執務室。
フェルディナンドは、机の上に積まれた書類を見つめていた。
「……何だ、これは」
侍従が答えた。
「昨日、エルネスタ様から返却された書類でございます」
「……」
「こちらは、王太子殿下の予定表でございます」
「……」
「こちらは、王太子殿下の会議資料でございます」
「……」
「こちらは、王太子殿下の衣装管理表でございます」
フェルディナンドは、机を叩いた。
「……なぜ、私の予定表まで返却されているのだ!」
侍従は答えた。
「エルネスタ様が、婚約者としてお預かりしていたものでございますので」
「……」
「返却されたとのことでございます」
フェルディナンドは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……エルネスタを呼べ」
侍従は一礼した。
「承知いたしました」
その日の午後。
ローディア侯爵家に、王宮から使いが訪れた。
「エルネスタ様。王太子殿下がお呼びでございます」
エルネスタは、読んでいた本を閉じた。
「何の用でしょう?」
「返却物について、確認したいことがあるとのことでございます」
「……」
「殿下は、エルネスタ様にお戻りいただきたいと」
エルネスタは首を振った。
「お断りいたします」
使いは目を見開いた。
「……ですが」
「私は婚約破棄された身でございます」
「……」
「王太子殿下の返却物を管理する理由はございません」
「……」
「それでは、ごきげんよう」
エルネスタは本を開いた。
使いは頭を下げ、王宮へ戻った。
フェルディナンドは報告を受けた。
「……断られた?」
「はい」
「なぜだ!」
「婚約破棄された身であるため、とのことでございます」
「……」
フェルディナンドは、机の上の書類を見た。
「……もう一度、呼べ」
「承知いたしました」
翌日。
王宮から、再び使いが訪れた。
「エルネスタ様。王太子殿下がお話をなさりたいとのことでございます」
「何のお話でしょう?」
「返却物について、改めてお話をしたいとのことでございます」
エルネスタは、少し考えた。
「では、こちらの書類をお渡しください」
彼女は、また一枚の紙を取り出した。
『返却物に関する追加確認書』
使いは書類を受け取った。
「……こちらは?」
「返却物の受領が完了しておりませんので、確認事項がございます」
「……」
「王太子殿下にご確認いただき、必要事項をご記入のうえ、第四窓口へご提出くださいませ」
使いは書類を抱え、王宮へ戻った。
フェルディナンドは書類を見た。
「……またか!」
書類には、こう書かれていた。
『返却物の受領に関する確認事項』
『返却物の所有者について』
『返却物の保管場所について』
『返却物の管理責任について』
『返却物の受領後における管理者について』
フェルディナンドは、最後の項目を見た。
「……管理者?」
侍従が答えた。
「はい。返却物を受領された後、どなたが管理なさるのか確認する必要がございます」
「……」
「殿下。こちらにご署名をお願いいたします」
フェルディナンドは書類を見つめた。
「……私は、返却物を受け取ればよいのだろう?」
「はい」
「……」
「では、管理者は私だ」
フェルディナンドは、署名欄に名前を書いた。
侍従は書類を受け取った。
「ありがとうございます」
そして、第四窓口へ向かった。
職員は書類を確認した。
「こちらは返却物の管理者確認書でございますね」
「はい」
「では、こちらの書類が不足しております」
「……何が足りないのでしょう?」
「返却物の受領確認書でございます」
「……」
「第一窓口へお願いいたします」
侍従は王宮へ戻った。
フェルディナンドは、報告を受けた。
「……まだ終わらないのか?」
「はい」
「なぜだ!」
「窓口を回っておりますが、受理されません」
「……」
フェルディナンドは、机の上の書類を見つめた。
そして、言った。
「……私が行く」
翌朝。
王太子フェルディナンドは、書類を抱えて王宮の第一窓口へ向かった。
窓口の職員は、彼を見て立ち上がった。
「王太子殿下!」
「この書類を受理しろ!」
「恐れ入りますが、こちらの書類は返却物の受領確認書ではございません」
「……」
「第二窓口へお願いいたします」
フェルディナンドは第二窓口へ向かった。
「こちらの書類は、貸与品返却申請書でございますね」
「そうだ!」
「では、所有者確認書が必要でございます」
「……」
フェルディナンドは、書類を見た。
所有者確認書は、確かに入っていなかった。
「……どこへ行けばよいのだ!」
「第三窓口へお願いいたします」
フェルディナンドは第三窓口へ向かった。
そこで、職員に言われた。
「こちらは王家所有物の管理に関する書類でございますね」
「そうだ!」
「では、第四窓口へお願いいたします」
フェルディナンドは第四窓口へ向かった。
そこで、職員に言われた。
「こちらは返却物の受領に関する書類でございますね」
「そうだ!」
「では、第一窓口へお願いいたします」
フェルディナンドは、第一窓口へ戻った。
職員は書類を確認した。
「こちらの書類は、貸与品返却申請書ではございません」
「……」
「第二窓口へお願いいたします」
フェルディナンドは、しばらく窓口を見つめた。
そして、声を上げた。
「……私は王太子だぞ!」
職員は、静かに頭を下げた。
「存じております」
「ならば、受理しろ!」
「恐れ入りますが、書類が不足しております」
「……」
「次の方、どうぞ」
フェルディナンドは、書類を抱えたまま立ち尽くした。
そして、職員は静かに言った。
「王太子殿下。お次の窓口は、第二窓口でございます」
フェルディナンドは、再び歩き始めた。
その頃。
ローディア侯爵家では。
エルネスタが、紅茶を飲んでいた。
侍女が尋ねた。
「お嬢様。王宮から、また使いが参りました」
「何の用でしょう?」
「返却物の受領について、確認したいことがあるとのことでございます」
エルネスタは、紅茶を一口飲んだ。
「そうですか」
「……」
「では、こちらをお渡しください」
彼女は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
『返却物に関する最終確認書』
侍女は、それを受け取った。
「……こちらは?」
「返却物の受領が完了しておりませんので」
「……」
「王太子殿下にご確認いただき、必要事項をご記入のうえ、第五窓口へご提出くださいませ」
侍女は、書類を抱えた。
「承知いたしました」
そして、王宮へ向かった。
その日の夕方。
王宮の廊下。
フェルディナンドは、書類を抱えて歩いていた。
「……第五窓口?」
侍従が答えた。
「はい。エルネスタ様から、最終確認書が届いております」
「……」
「第五窓口へ提出する必要があるとのことでございます」
フェルディナンドは、書類を見つめた。
「……第五窓口など、あったか?」
侍従は答えた。
「……私にも、わかりません」
フェルディナンドは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……探せ」
侍従は頭を下げた。
「承知いたしました」
王宮の廊下を、侍従たちが走り回った。
第一窓口。
第二窓口。
第三窓口。
第四窓口。
そして、第五窓口。
第五窓口は、王宮の地下にあった。
扉には、大きな看板が掲げられている。
『返却物最終確認窓口』
その下に、小さな紙が貼られていた。
『婚約破棄に伴う返却物の受領確認は、第一窓口へ』
フェルディナンドは、その看板を見つめた。
「……」
侍従が、恐る恐る尋ねた。
「殿下……」
フェルディナンドは、書類を抱え直した。
「……第一窓口へ戻る」
彼は、歩き始めた。
そして翌日も。
その翌日も。
王太子フェルディナンドは、王宮の窓口を回り続けた。
返却物の受領は、まだ完了していなかった。
そして、婚約破棄の手続きも、まだ始まっていなかった。




