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金魚ばち論

作者: jasra
掲載日:2026/01/13

金魚ばちは私が一番好きな作品です。

6割くらいはまじめに書いたのでぜひ討論しましょう。

内輪注意

本文は冒頭「釣りに出かけたときに、金魚を二匹釣った。」から始まる。

まず、釣りに出かけたときに金魚を釣るということは異常である。金魚は人為的に鮒の突然変異を選択し、交配を重ねた結果生まれた観賞魚であり、自然に存在する魚ではない。したがって、釣りに行って金魚を得た理由は以下の二択であろう。①自然界に放流された金魚を釣り上げた。②金魚がいる釣り施設。のちの文脈を踏まえ本文では①の説に従って考察するが、なんにせよ釣りで金魚を得るのは不自然な行動であり、作者は野生又は自然に影響を与えた人間への批判や人工物に気が付かない人間に対する風刺かもしれない。

本文はその後金魚を大切にすると誓った次の段落で「翌週、金魚鉢の水は真っ黒になり、金魚の死体が浮かんでいた。餌やりと水の交換を忘れていたのである。」と続く。実際のところ水やりを忘れていたところで一週間で水が真っ黒になることはない。しかし作者は人間の一時性を強調するためにあえて翌週という作中の生物の本来の一生において極めて短い期間で金魚を死なせ、水を真っ黒という死について又は人間の悪行悪意を連想させる色にしたのである。

攻撃氏の作品においてはこのような現実ではありえないほどの強調が多用される(ご自身で「私は神になりたい」参照のこと)。そしてそのうちの数多くが人間の一時性に関する風刺になっていることに私は着目した。攻撃氏の作品が異常に展開が速いのはこのためである。人間は昔大切にしていた考えはどれほど大切なことだとしても、また、つい最近のことだとしても、今この瞬間の思いには勝てない。ということである。攻撃氏がこの持論を小説内に張り巡らせるようになった理由は氏の経験に基づく。皆さんにもやってはいけないと分かっていてもその場の考えでやってしまったことがあるかもしれない。どんなにまじめな人であっても大金を目の前にして目がくらんでしまったというニュースはある。氏の作品ではキャラの理性のタガが外れているのではないかという声が多く上がる。違うのだ。人間には本来理性のタガなどなく一時的な考えで動いてしまうことを攻撃氏は理解しているのだ。

本文はその後「弟がそれに気づき、悲鳴を上げた。すると、父さんと母さんとじいちゃんとばあちゃんと知らない人が大勢で駆けつけてきた。そして通り過ぎて行った。」と続く。内容的にはこれは三つ見分けるべきであるが攻撃氏の主張は常に一つである。

まず「弟」は今の今まで忘れていた金魚が死んでいることを発見すると悲鳴を上げる。なんと無責任なことか。死なせたことに対して無責任を追求するわけではない。死なせたことを一人前に驚き悲しむその姿勢に対してこそ無責任だというのである。

これも攻撃氏の表現する人間の一時性である。

次に親族と知らない人が駆けつける。そして通り過ぎる。親族が駆けつける理由は「弟」への心配であろう。その時行っていた何等かの作業を中断して「弟」の下に来ているのだから。しかしその後通り過ぎてゆく。これは何らか興味を奪われるようなものが「弟」の先にあったためであろうか、知らない人に主導されてどこかへ行ったのだろうか、はたまた何もないのだろうか。「弟」のために動いたはずなのに「弟」の下に来ない親族についても知らない人についても人間の一時性を表していることは言うまでもないが、ここでもう一つ考えなければならないのは攻撃氏の作品における行動原理の優先順位である。

私は神になりたい等の作品では登場人物は自らの命がかかっている場面では自ら死ぬという選択肢をとることはない。これは氏が人物の行動原理の一番根本に死なないことをおいているためである。しかし、危機が少し遠くになると途端に「ふざけ」だす。これをキャラの狂い具合と判断するのは強ち間違っていない。一般的に見て、危機が少し遠のいたといえ未だ危険な状況下で自身の生存のためにならないまたは自信を危険にする、一見ふざけているようにしか見えない行動をとることは狂っているといえるからだ。だが、より深く考えるとこれは氏の一貫した行動原理に基づいているのだ。これは一時性のほか他者への興味の薄さがある。

攻撃氏の作品中のそのような「ふざけ」方は今の自分が満足できれば他者(のみならず未来の自分さえ)はどうでもいいというような態度であるともとれるだろう。今回の例で言っても親族が「弟」への心配よりその場の好奇心なりを追求したことは親族にとって「弟」への興味の薄さが表れているといってよい。「弟」の悲鳴に反応し、対応に向かおうという道中ですでに行動当初の意気込みは解消される。すると彼らは「弟」という存在そのものよりも次に現れた別の刺激へと関心を奪われ、結果として「元」に留まる理由を失うのである。

ここで重要なのは誰一人として悪意をもって弟を見捨てているわけではないという点である。親族は氏の作品の行動原理に基づき人間として自然な反応をしただけなのだ。

私は今、「氏の作品の行動原理に基づき人間として自然な反応をした」といったがここで考えるべきはなぜ氏の作品の行動原理がそのように設定されているのかである。当然現実においても少なからずそのような行動原理が人間に備わっているからこそ攻撃氏はそのように設定したのである。

現実世界においては自己中と呼ばれる存在の一つであり、人生において巨大な目標などを持たない存在の一部、人生暇つぶし論者に近しい存在であるため異端のように感じられるかもしれないがそれは傲慢である。攻撃氏がたびたび主張する人間論に「人間は全て自分のためになる行動しかしない」というものがある。内容は後述するが確かにこの理論で行くと全ての人間が自己中になりえるのかもしれない。すなわち攻撃氏の作品において人物が取る「ふざけた」行動や一見すると意味不明な逸脱行動は、狂気の表現ではなくむしろ極めて写実的な人間像なのである。人間は常に合理的に行動する存在ではなく、危機が差し迫っている間だけ合理的であり、危機が視界から外れた瞬間に別の欲望や関心へと引きずられる存在である。別の言い方をすると「人間は常に自らの欲望を最大に実現するために合理的でしかない」ともいえる。「人間は全て自分のためになる行動しかしない」ということそのものである。

「人間は全て自分のためになる行動しかしない」とはどういうことか?即ち人間の行動は全て自らのために行うということであり、他者のために行う行動は他者のために行動することが自らのためになるときに限るということである。これに対しての反論は多くあるだろう。自分のためになる行動しかしない人間というのは物語に出てくるような冷酷キャラだけではないかと。他者のために自分が犠牲になることもあるのだと。しかし攻撃氏の解釈は表面的な損得のみにとどまらない。他者のために自分が犠牲になることによって自らが幸福になるのだあればそれは自分のためであるといえる。道徳心など一見自らが損をしそうな行動原理さえも自らの矜持を満たすことが当人にとっての一番の欲望だったからだと分解するのだ。昔筆者がこれを知人に説明したときに「せこい」と言われたことがある。それを言ったらおしまいだと。自己決定権を持つ人間の行動原理について議論しているため当人が決定したした時点ですべてを考慮すると当人がやりたいと思えたからやったというのは当然であり絶対に否定できない命題である。「せこい」という感想もひとえに内容がまさしくそのとおりであり否定のしようがないからこそ出てくる感想である。人間の行動原理すべてを感情を含む自己利益に還元すると議論することがなくなってしまい何もわからないままではないかという指摘は正しい。しかしそれは内容を偽とするものではない。

つまり、攻撃氏の作品に登場するキャラクターは全読者全人類を投影しているのである。

話を本文に戻すと、「弟と私は今のうちに水を取り替え、金魚の死体にモーターをくっつけた。やがて母親が戻ってきた。その目線の先には金魚の死体がモーターによって壁に押し付けられている光景があった。僕は青ざめ、死を覚悟したが、母親は同時に金魚鉢の中に卵が産みつけられているのに気付いた。」と続く。

前半部分は大切にしようとしたはずの金魚を死後雑に扱い、今親に叱られるのを回避することを優先するという一時性、金魚という他者への興味の薄さを補強するほか、一時性によって現れる死者はどうでもいいとする死生観が現れている。

そして後半母親が金魚の卵を発見する所は攻撃氏のこだわりの一つである。その「次の瞬間父親が卵と金魚の死体を食べ」るため金魚の卵は物語の今後には必要ないが、あえて発見される下りを入れた理由は、人によって視野が違うということは攻撃氏の作品のようなそれぞれが今の自らのを最優先するような世界においても意味を持つことを伝えるためである。

攻撃氏はつまり作品内で「人間は全て自分のためになる行動しかしない」と主張しているわけだが、それはだから他者は一切気にせずにいろよ、と言いたいわけではない。氏は他者のために行動することを否定するわけではない。他者のために行動することを美化したり、道徳的な行動をよしとしたりすることに対して人間の行動は全て自らのためであり貴賤はないのだと教えるだけであり、いわゆる道徳的な行動についてもそれがやりたいならどうぞご勝手に、周りがとやかくいう物ではないというスタンスに過ぎない。(氏は道徳をも自らの利益を最大化しようとする人間同士の社会において、囚人のジレンマにおけるナッシュ均衡のような状態に陥らないようにするために他者の精神性を改造することを目的としたシステムとしてとらえている)そのうえで、本文内で母が初めて卵の存在を指摘することは世界のとらえ方が自信と異なる他者の存在が自己の利益の幅を広げることが「自分のためになる行動しかしない」人間にとってもなお有効であることを強調するために違いない。

物語の終盤は人間観だけでなく死生観、自然観をした後宇宙、世界の存在意味を人間から見るという趣旨の話になるが結論の位置を考える必要がある。まず本文を引用する

ーーーこうして僕は金魚鉢の中で盆栽を育てることになった。食中毒で亡くなった父の死体を肥料にした。盆栽はすくすくと育った。僕はこれを見て金魚から父親へ、父親から盆栽へと命がつながっているんだなあ、としみじみとした。

盆栽が育ちすぎた。金魚鉢は粉々になってしまい、盆栽は栄養が取れなくなって枯れてしまった。やがてかれた盆栽にはキノコが生え、胞子が舞い、家じゅうキノコだらけになってしまった。ーーー

肉親の父親であっても死んでいれば「死体」と表現して有効活用する。前述のとおりいわゆる道徳が失われていることが強調される作品世界では死体となった父親を主人公にとって最も都合よく使う方法が肥料にするということであっただけなのだ。

その後「僕はこれを見て金魚から父親へ、父親から盆栽へと命がつながっているんだなあ、としみじみとした。」という本来結論になりそうな部分が続くがそこで本文が終わるわけではない。これは命がつながるということへの感動が結論でその後は蛇足ないし補足ととらえる見方もあるがそういうわけではないと私は考える。攻撃氏は一度偽の結論を出し、それを否定することで真の結論を強調しているのだ。(ここでいう否定とは全てを否定するわけではない)あるいは全読者全人類の象徴である主人公が間違った解釈をしているという構図をわかりやすくすることで全読者全人類が間違った解釈をしていると伝えたいのかもしれない。仮の結論「命がつながっているんだなあという感動」が仮に過ぎないことは攻撃氏が作品を通して伝えたいことを整理すると当然理解できるであろう。今までの人間像から乖離しており、他者の命のつながりはその真偽は問わずどうでもいいのだ。

そして本題は何が結論なのかである。攻撃氏は具体的に語ってくれない為読者が補填する必要がある。

まず、仮の結論が一部反語として働くのは自明である。(前述同様「命がつながっている」という事象の否定を意味しない)仮結論以前の仮結論に結び付く流れは金魚→父親捕食→父親死→盆栽であり、仮結論後も盆栽枯れる→キノコ生えると仮結論の内容を維持しているようにも見える。しかしそれだけではない。はじめに気づくべきはスケールの変貌だ。はじめは金魚から人間、木、家サイズのキノコと大きくなっている。これは食物連鎖を暗示しているなどという小さなものではなく、エントロピー増大の法則と帰納法による世界崩壊についての持論である。

攻撃氏の作品は一見すると何でもありに見える。しかし全作品において共通する原則として「一度行った又は行われた事象を覆すことはできない」というものが感じ取れる。時間を巻き戻してなかったことにするなどという大げさな覆し方のことを指すのではなく、発言の撤回や計画の白紙化など現実世界でできそうな小さなことについてさえも氏の作品では覆せないのである。立った少し小石を投じると世界が動き出す。氏の世界はそんなカオス理論の体現のようなバタフライエフェクトとでもいうべき世界なのである。かつて氏に対するインタビューの中で氏がエントロピーという単語を口にしたことがあるため私はエントロピー増大の法則になぞらえて呼称している。エントロピー増大の法則、カオス理論、現実そのものである。覆水盆に返らずともいうが起きたことは覆ることなく加速的に大きな事象へとつながってゆくのだ。これが世界の原点に存在し、人間社会においても同様の働きがあると氏は主張するのではないか。帰納法による世界崩壊とは名の通りサイズが指数関数状に大きくなってゆくといずれは世界全体を巻き込む崩壊につながるということで氏の作品すべてに共通する。氏の作品に短編が多いのは加速度的に大きくなるスケールが長編を許さないというのもある。

そして次に気づくべきは氏の世界の人間の人間性の決定版を示していることである。これはこの論説においては新しいことではないが氏の一番伝えたいところが人間の一時性並びに自己中心主義であるため最後にもう一度補強として付け加えたということである。一度「道徳的」かつ現代的な「人間性」を思い出して[僕はこれを見て金魚から父親へ、父親から盆栽へと命がつながっているんだなあ、としみじみとした。」という文章を考察してほしい。大切にしようと誓った存在である金魚、肉親である父親の死についてあまりに無頓着で薄情ではないか?感動するということが愛着のなさを示していて不気味に感じる。即ち攻撃氏的死生観である。

結局のところこの文章は何を伝えたかったのか?それは一つのことではない。攻撃氏の作品はいろいろな問題への考えが一連となった攻撃氏なりの世界認識の一部が現れており、読者は氏の作品全体から死の世界認識を理解しようと努めるのだ。一つの文章からわかることとして一連の考えを一般社会の分類によって切り取る行為自体が望ましくないともいえる。だが一般人にわかるようにあえてこの文章では何を伝えたいのか分解すると、結論は人間という本来自己のためにしか行動しない生命体の群れが社会として成立している現代においても有効である本来の人間の在り方と世界の真髄についてであり、理解したうえで行動をどう改めるかは読者に任せるということであろう。

あとがき

氏はたびたびタイトルは適当であると発言する。これを額面通りに受け取るだけというのは氏について語る上ではナンセンスと思う方もいるだろう。が、氏が実際タイトルを重視していないことがあるのはタイトルのない作品の存在、その場でタイトルを付けた作品の存在から証明できる。

今回のタイトル「金魚ばち」は物語において金魚および盆栽の「枠」として機能したものであるが最後キノコは「枠」である金魚ばちの外側にまで進出した。氏の作品において最後まで不変である役回り珍しいがカオスの指標としての不変であり不変をタイトルにしたことが大きな意味を持つとは考えていない。結局彼の大きな物語のどの部分が大きく顔を見せるか次第であり大差はないのである。

つまり4割くらいはネタ。

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