第六章:自己言及の罠
兼定美津子のマニフェストを読み終えた神原数理は、彼女の深い絶望と怒りに打ちのめされていた。同時に彼女のその歪んだ天才性に戦慄していた。
そして自分が過去に兼定を指導していたという事実が重くのしかかっていた。優秀すぎるがゆえに孤立していた彼女を、もっと理解してあげるべきだったのではないか。
彼女は警察のデータベースを再検索し、兼定美津子の現在の居場所の特定を急いだ。元研究者。その足跡はデジタル社会に必ず残っているはずだ。
数時間後、数理は都内にある廃墟となった気象観測所のIPアドレスを突き止めた。そこが彼女のアジトである可能性が極めて高い。
田所刑事にその情報を伝え、特殊部隊が観測所に突入する。しかしそこはもぬけの殻だった。
そしてそのがらんとした部屋の中央に一台のラップトップが置かれているのを発見した。
それは罠だった。
ラップトップのスクリーンに表示されていたのは神原数理自身の詳細なプロファイリングと行動予測モデルだった。
兼定美津子は最初から神原を「最終ターゲット」として設定していたのだ。これまでの四件の殺人はすべて神原数理という統計学者の思考パターン、推論の癖、そして感情の動きを学習するための壮大な「実験」に過ぎなかった。
壁には神原の行動確率を示した巨大なチャートが貼り出されていた。
【神原数理:行動選択確率モデル】
論理的推論に依存する確率:94%
直感を信じる確率:6%
危険に直面した際、逃走を選択する確率:12%
対決を選択する確率:88%
その数字の正確さに数理は自分の心の中をすべて見透かされているような恐怖に襲われた。
その時、部屋のスピーカーから兼定美津子の合成された、しかしどこか物悲しい声が響き渡った。
『神原さん。あなたも私と同じ「外れ値」ですね』
声は静かに続けた。
『統計学者としては珍しいほど感情豊かで直感的で、そして芸術的なセンスもお持ちだ。つまりあなたは「平均的な統計学者」ではありません。あなたの論文を読みました。素晴らしい洞察力だ。しかしあなたは平均値の側に立った。自らが外れ値でありながら、平均値を神聖視するシステムに従事し、奉仕している。それは外れ値に対する裏切りです』
『ですがより深刻なのは、あなたが私の恩師でありながら私を見捨てたことです。私が孤立していた時、あなたは気づいていたはずなのに』
『だからあなたを殺すことで私は二つのことを証明します。一つは「外れ値の裏切り者」を処罰すること。そしてもう一つは、あなたのような天才を殺人に追い込んだこの統計学という学問そのものの矛盾を白日の下に晒すこと』
彼女の最終計画。それは神原数理を殺害した後、自らも命を絶つというものだった。
彼女がアジトに残したデータの中には膨大な統計分析と数式で綴られた遺書が含まれていた。それは「外れ値の排除」がいかに社会を貧しく停滞させてきたかを数学的に証明する壮大な論文だった。
『私たちの死は社会的には「統計的に無意味」なものとして扱われるでしょう。二人の少し変わった女性が死んだという取るに足らない出来事として。でもそれこそが現在の統計学の、そしてこの社会の致命的な限界なのです』
スピーカーから最後の宣告が響く。
『神原さん。ゲームは終わりです。あなたの存在確率を0%に更新する時が来ました』
編集工学が警告する自己言及のパラドックス。自分を分析する自分を分析するその無限回帰の恐怖が、今神原数理を完全に飲み込もうとしていた。




