第三章:逆ベイズの攻防
「……どういう意味だ?」
田所がメッセージを覗き込み、眉をひそめた。
数理は答えることができなかった。彼女はその短い文章に込められた恐ろしく、そして知的な挑戦状の意味を瞬時に理解してしまっていたからだ。
『君の事後確率は、僕の事前確率だ』
犯人は神原数理という天才統計学者の存在を最初から織り込み済みで、このゲームを設計していた。
神原のベイズ推論のプロセス。それを犯人は完全に逆用していたのだ。
通常の犯罪捜査では捜査官は犯人の行動を予測し、その確率が最も高い場所を包囲する。
しかしこの犯人は違う。
その人物は神原が「犯行が行われる確率が高い」と予測するであろう場所と時間を正確に予測している。そしてその場所を意図的に避けているのだ。
つまり、こういうことだ。
神原の予測確率が高ければ高いほど、犯人が実際にそこに現れる確率は低くなる。
逆に神原が「ありえない」と判断し、予測確率が極端に低くなる場所こそが、犯人にとって最も安全で実行確率が高くなる場所となる。
これは統計学的な「逆相関」の関係だった。
神原がより精度の高いモデルを作り、より賢くなればなるほど、犯人を捕まえることが困難になる。完璧なパラドックス。
「……私たちは踊らされていたんだ」数理は唇を噛み締めた。「昨夜の大規模な張り込み。あれこそが犯人の狙いだった。警察のリソースを渋谷の一点に集中させている間に、その人物は全く別の、私たちがノーマークだった場所で悠々と次の犯行の準備をしていたんだ……」
犯人は統計学を武器として使っているだけではない。その人物は統計学の限界そのものを嘲笑っているのだ。
この日から神原数理の孤独な、そして終わりの見えない苦闘が始まった。
彼女は犯人の思考を読み切ろうとモデルを改良し続けた。「神原数理の予測を逆手に取る」という犯人の行動原理さえも変数としてモデルに組み込んだ。
だがそれは泥沼への入り口に過ぎなかった。
彼女が「私の予測を犯人が予測している」というメタレベルの思考をモデルに組み込むと、犯人からの次のメッセージが届いた。
『君が、僕が、君を予測していると予測していることまで、僕は予測している』
自己言及の無限ループ。鏡の部屋に閉じ込められためまい。
神原が犯人の思考を先読みしようとすればするほど、彼女自身の思考もまた犯人によって先読みされてしまう。
彼女は従来の論理的な積み上げ式の分析手法の限界を痛感し始めていた。
必要なのはもっと別のアプローチ。
情報の一つ一つを見るのではなく、その情報と情報の間に存在する「関係性」そのものを捉える視点。
師がかつて彼女に語った編集工学の思想が、彼女の脳裏に蘇り始めていた。
「型、間、流れ……。数字の向こう側にある物語を読め……」
神原数理はこの確率の迷宮から脱出するために、自らが最も信奉してきた武器――統計学そのものを一度疑い、そして捨てる覚悟を決め始めていた。




