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【短編小説】統計学者の憂鬱 ~ベイズの罠と外れ値の連続殺人~  作者: 霧崎薫


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第二章:事後確率の更新

 数理の分析から一週間後、懸念は現実のものとなった。四人目の被害者が発見されたのだ。


 被害者は鈴木恵子、41歳、女性、専業主婦。江東区のタワーマンションで毒殺。今回もまた犯行時刻は、夫の帰宅時間、子供の塾の時間、そしてマンションの監視カメラの死角となるタイミングが統計的に完璧に重なり合う、奇跡のような一点を突いていた。


 捜査本部が絶望的な空気に包まれる中、数理は自室にこもり、一人犯人との見えないチェスを始めていた。彼女の武器はベイズ統計。限られた情報からある事象の確率を、より確からしい値へと「更新」していく強力な推論ツールだ。


「犯人プロファイルを構築します」


 数理はタッチパネルに数式を書き込んでいく。


 まず事前確率。これは事件が起きる前に我々が持っている最も一般的な信念だ。


『P(H):犯人が統計学の高度な知識を持っている確率』


「日本の総人口における統計学修士号以上の知識を持つ人間の割合は約0.1%。これを事前確率としましょう。P(H) = 0.001」


 次に尤度。これはある仮説(H)が正しいとした場合に、現在観測されているデータ(E)が得られる確率を示す。


『P(E|H):犯人が統計学者である場合に、これほどまでに統計的に完璧な犯行パターンが観測される確率』


「これは高いはず。統計学者が自らの知識を犯罪に利用するならば、これ以上ないほどその能力を発揮するでしょう。仮に85%と設定します。P(E|H) = 0.85」


 そして最後に事後確率を求める。これがベイズ統計の心臓部だ。新しいデータ(E)を得た後で、我々の信念(H)がどれほど確からしくなったかを示す。


『P(H|E) = [P(E|H) * P(H)] / P(E)』


 数理の指が目にも留まらぬ速さで数式を展開していく。P(E)(この犯行パターンが観測される総合的な確率)を様々な変数を用いて算出し、最終的な答えを導き出した。


『P(H|E) = 0.892』


「……89.2%」


 数理はその数字を静かに見つめた。彼女の推論では犯人が統計学者である確率はほぼ9割。もはや単なる憶測ではない。数学的に証明された確信だった。


 彼女はさらにこのベイズモデルを発展させ、犯人の次の行動を予測するシミュレーションプログラムを構築した。過去の犯行場所、曜日、時間、そして被害者の生活パターンといったあらゆるデータを入力し、次の「統計的最適解」を確率分布として地図上に表示させる。


 数時間後、プログラムは一つの最も確率の高い解を弾き出した。


「次の犯行は火曜日の午前2時17分。場所は渋谷区のこの半径500m圏内。確率は72%」


 その予測に基づき捜査本部は前代未聞の大規模な張り込み作戦を展開した。指定されたエリアに数百人の捜査員が息を潜めて配置された。


 数理もまた田所と共に現場近くの張り込み車両の中で、その時を待っていた。


 午前2時16分。


 午前2時17分。


 午前2時18分。


 ……何も起きなかった。


 夜が明け、作戦は空振りに終わった。捜査員たちの間に疲労と失望の色が広がる。


「……すまんな、神原君。まあ、こういうこともあるさ」田所が彼女を慰めるように言った。


 だが数理は慰めなど求めていなかった。彼女は自らの敗北を冷静に、そして厳しく分析していた。


 なぜ予測は外れたのか? モデルに欠陥があったのか? それとも……。


 その時、彼女の暗号化された業務用端末が静かに震えた。


 一件の匿名メッセージ。


 その短い一文を見た瞬間、数理は背筋が凍るような戦慄を覚えた。


 そこにはこう書かれていた。


『君の事後確率は、僕の事前確率だ』


 犯人もまた神原の思考パターンを「編集」して学習している。犯人は彼女のベイズモデルの存在を知っていたのだ。



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