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第一章:事前確率の罠

 神原数理は数字が奏でる静かな音楽を聴くのが好きだった。人々が混沌と呼ぶものの奥底には、必ず優雅な確率分布が隠されている。ランダムに見える飛沫にも流体力学の微分方程式が潜んでいるように。彼女にとって世界は巨大なデータセットであり、その法則性を読み解くことこそが自らの存在意義だと信じていた。


 警視庁科学捜査研究所、通称「科捜研」。その一室で数理は巨大なタッチパネルスクリーンに表示された東京都内の地図と、そこに散らばる無数のデータポイントを眺めていた。32歳。彼女の肩書は統計学者。凶悪犯罪から交通違反まで、あらゆる事象を確率と統計のレンズを通して分析し、捜査を支援するのが彼女の仕事だ。


 だが数理もまた、幼少期には「外れ値」として孤立した経験を持っていた。IQ170という数値が同年代の子供たちとの間に見えない壁を作っていた。「普通でない」ことの辛さを彼女は骨身にしみて知っていた。それが彼女をデータの世界へと駆り立てた原動力でもあった。


 刑事部長から直々に依頼された今回の案件は、一見すると何の変哲もない、しかし底の知れない不気味さを湛えた連続殺人事件だった。


「被害者は三人。いずれもここ一ヶ月以内に都内で殺害されている」


 ベテラン刑事の田所が苦虫を噛み潰したような顔で事件の概要を説明する。


「一人目は田中一郎、35歳、男性会社員。港区の自宅マンションで後頭部を鈍器で殴打。二人目は佐藤花子、52歳、女性、中学校教師。杉並区の自宅で絞殺。三人目は山田太郎、23歳、男性、フリーター。豊島区の安アパートで刺殺。どうだ、神原君。何か見えるかね?」


 場所も手口も被害者の属性もバラバラ。共通点は何もない。通常のプロファイリングではお手上げの状態だった。


 だが数理はその無関係に見える情報の羅列の中に、ある種の「型」を感じ取っていた。それは編集工学の師から教わった、情報の背後にある構造を直感する手法だった。彼女は膨大な捜査資料の海に静かに意識を潜らせていった。


 数時間後。


「……見えました」


 数理の呟きに田所が顔を上げた。


「犯人はおそらく統計学、それもかなり高度な知識を持っています」


「なんだって?」


「犯行時刻を見てください」


 数理がスクリーンに三つの事件の発生時刻と周辺のデータを表示させる。


「田中一郎の事件は水曜日の午前3時42分。この時刻は彼が住むマンションの住人の平均睡眠時間が最も深く、かつ深夜勤務の警備員が最も集中力を欠く時間帯として統計的に算出される時刻と、誤差±2分で一致します」


 彼女は次に佐藤花子のデータを指し示した。


「佐藤花子の事件は日曜日の午後2時11分。彼女の住む住宅街では週末のこの時間帯、ほとんどの家庭が昼食を終えてテレビを見たり昼寝をしたりしている。つまり家の中にいる確率が最も高く、かつ外部への注意が最も散漫になる時間。これもまた統計的な最適解です」


 山田太郎のケースも同様だった。犯行は金曜日の午後11時58分。彼のアパートの隣室の住人が週末の夜、飲みに出かけている確率が90%を超え、かつアパート前の道路の交通量が統計的に最小になる、ほんの数分間の隙を完璧に突いていた。


「犯人は偶然、犯行が発覚しにくい時間を選んでいるのではありません」数理は確信を込めて言った。「その人物は膨大な環境データを分析し、数学的に『最も発見されにくい時間帯』をピンポイントで割り出して犯行に及んでいるのです」


 田所は眉間に深い皺を寄せた。「まるで幽霊じゃねえか。そんなの、どうやって捕まえろってんだ」


「幽霊ではありません。むしろ逆です」数理の瞳が鋭い光を放った。「これほどまでに論理的な犯人は必ず、その論理の中に痕跡を残します。その人物は自分の知性を誇示しているのですから」


 この時数理は、まだその犯人がどれほどまでに深く、そして歪んだ論理の世界に生きているのかを知らなかった。彼女はまだ確率の迷宮の入り口に立ったばかりだったのだ。


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