水が欲しい
真昼の砂漠を一人の男がヨロヨロと歩いていた。
彼は遭難者。食料はとっくの昔に底をつき、手持ちの水もすべて飲み干してしまった。だというのに、周りは砂ばかりで、オアシスはおろか木の一本すら見当たらない。
遭難者は飢え、渇いていた。それに加えて、頭上でギラギラと照りつける太陽が、彼の命を縮めていく。
「俺ももう終わりか……」
遭難者は力なくうなだれた。その拍子に、隣に誰かが立っているのに気づく。
特徴のない顔立ちをした男だ。砂漠には不似合いな黒いスーツを着ている。
遭難者はため息を吐いた。
「こんなところにスーツの人間がいるはずがないのに。幻覚を見るなんて、どうやら俺は頭がおかしくなってしまったらしい」
「しっかりなさってください。私は幻覚などではありませんよ」
スーツの男が言った。
「私は悪魔。あなたの願いを叶えにきたのです」
「悪魔だって?」
遭難者は男を眺め回す。この暑いのに汗一つかいていない。それに、どことなく異様な雰囲気をまとってもいた。
どうやらこいつは本物らしいと思い、遭難者は大喜びする。
「これはありがたい! 本当に何でも願いを叶えてくれるのか?」
「もちろんですとも。ただし、条件があります。叶えられる願いは三つだけ。そして、あなたが死んだあとは魂をいただきます」
「それくらいどうってことはない。どうせ俺は、この砂漠で死ぬ運命だったんだ。生きながらえることができるなら、悪魔に魂を売るくらいわけないさ」
遭難者はゴホゴホと咳き込んだ。喉がカラカラで、それ以上は上手く言葉が出てこなかったのだ。
「まずは水をくれ」
遭難者はさっそく願い事をした。
「いいか、たっぷりの水だぞ。それから、もうずっとまともな食事にありつけていないんだ。だから、俺の腹を膨れさせてほしい。そして三つ目。これが一番肝心な願いだぞ。俺をこの砂漠から出してくれ。……どうだ、できるか?」
「お安いご用です」
悪魔はパチンと指を鳴らした。その途端、辺りの景色が一変する。
灼熱の太陽が姿を隠し、遭難者は歓声を上げそうになった。
その口に何かが入り込んでくる。
「がはっ……!」
水だ。しかも、ただの水ではなく塩水だった。
「もうお分かりでしょうが、ここは海です」
バタバタともがく遭難者の横で、悪魔は水の上に立って涼しい顔をしている。
「たくさんの水がほしいとのことでしたので。それに、砂漠からの脱出も叶えてさしあげました。……ああ、時間が夜なのはサービスですよ。もう暑くないでしょう?」
暗い空の月を背に、悪魔は営業スマイルを浮かべる。だが、遭難者はほとんど話を聞いていない。
「た、助けてくれ……! 俺は泳げないんだ……!」
「残念ながら、叶えられるお願いは三つだけです」
悪魔は申し訳なさそうな顔になる。波を被った遭難者の頭が水に浸かった。
「では、またご縁がありましたらどうぞごひいきに。悪魔はいつでも困った人間の味方ですので」
悪魔は丁寧にお辞儀をして、踵を返そうとした。だが、途中で立ち止まり付け加える。
「二つ目のお願いも、もちろん叶いますよ。あなたが水死体になれば、腹といわず全身が膨れるでしょうから。いえいえ、お礼は結構。これもサービスです」
先ほどまで遭難者がいた海面には、泡が数個浮かんでいるだけだった。彼の体はすでに、海底に向かって沈み始めている。
悪魔は今度こそ本当に遭難者に背を向け、月が照らす島影一つない夜の海を歩いていった。