第一話 天使アイリと大海原ミク
東京魔界――。
令和が終わりを迎えようとしていた時代に発売されたVRゲーム。VR機器ネクストステア専用ゲームだ。
ある全能の魔術師により魔界と繋がってしまった世界の東京が舞台だ。
キャッチコピーは現実創造。
無限とも言えるポリゴン数で地形、建造物を再現させ、葉っぱ一枚どころか砂粒一つにまで物理法則を遵守させる。
遊び方は様々。
カーレース、ギャンブル、スポーツ。映画鑑賞もできるし、なんなら塾で勉強をしてもいい。
一番人気はバトル。プレイヤー同士での戦闘や、パーティを結成してダンジョン攻略、ボス退治なんかが度々トレンドに上ってる。
難点は一つ。
現実と見紛うほどのリアリティで再現すべきではないモンスターもいる。
「ミク――――! あんたなんてとこに連れてくんのよ、バカ――――!」
木枯らしが吹く十二月頭。
黄昏を過ぎ、逢魔が時となった夜だった。冬雲からわずかに月が顔をのぞかせている。
ざあざあと杉林が囁く人気のない山奥。そこにひっそりと佇む廃病院から、一人の女が飛び出してきた。
灼熱のように輝く赤毛をポニーテールにした女だった。
学生だ。深い紺色のブレザーを着ている。
背はスラリと高く、手足も長い。
ほっそりとはしておらず、全体的に筋肉質なアスリート体型だった。頭から翼が生えているような意向のヘッドフォンとゴーグルを装備している。
天使アイリ。それが彼女の名前だった。
目鼻立ちがくっきりとした美しい顔立ちだが、必死の形相で逃げている。
何から逃げているのかはすぐに判明した。
病院から身体のあちこちが腐食した元人間――、ゾンビが現れた。
元医者、元看護師、元患者。三体のゾンビが内臓を引きずりながらアイリを追いかける。
「HAAAAAAAAA! NIKUUUU!」
「うるせ――――! ゾンビがしゃべるなあああ! ミク、返事をなさい! 返事を!」
一拍あって、アイリの目の前に二次元のウィンドウが表示された。
小柄な少女が映っている。
長い黒髪を三編みにして、アイリと同じヘッドフォンとゴーグルを装着している。
顔のパーツや画面に映り込む手足が小さく、小学生といっても通じそうだった。柿色の半纏をかぶっている。
大海原ミクという名前だった。
『聞こえてますわ、アイリさん。どうかなさいました?』
「なさいましたわよ! ミク、ここにあれが出てくるなんて一言も聞いてないんだけど!」
あれ、ゾンビ。走るゾンビ。ミクははてと首を傾げた。
『廃病院なんてロケーションで出てこないわけがないじゃないですか。ホラーゲームでも映画でもお決まりですわよ?』
「こっちゃホラーゲームも映画もろくに見てないのよ!」
『まあまあ。別に倒せないことないでしょ? ちゃちゃっと片付けてくださいまし』
「あんたあとでしばくわ!」
恨みがましく怒鳴って、アイリはくるりとゾンビに振り返った。
足を止めて両手を突き出し、唱える。
「ピースメーカー!」
すると、その手の中に回転式拳銃――ピースメーカーが出現した。
同時に、彼女の視界に十字のターゲットサイトが映し出される。銃口の向きと連動していた。
狙いをつけて、三発撃った。
銃声と同時にそれぞれのゾンビの頭が吹っ飛んだ。
アイリは銃をスカートのポケットに収め、倒れたゾンビを見下ろす。あまりのグロテスクさに思わず口元を手で覆った。
「臭いし肉の飛び散り方がクソリアルだしビクンビクン痙攣してるしでめちゃくちゃ吐きそう……。これだからゾンビは嫌なのよ……」
『どうどう。そのゾンビ、所詮は東京魔界に出現する雑魚に過ぎませんわ。ほら、消えていきますでしょう?』
通信越しのミクの言う通り、頭をなくしたゾンビは全身が光の粒子になり、一瞬で消滅してしまった。飛び散ったはずの肉片や体液もない。
臭いも消えたので、すうっとアイリは深呼吸をして、どうにか吐き気を飲み込んだ。
「……幻にすぎないってわかってるけど、でも、気持ち悪いのはどうしようもないわね。動きも臭いもリアリティがありすぎる」
『それが東京魔界のウリですもの。散々に使い古された――現実と見紛うほどのリアリティ――というキャッチコピーを本物にする。大成功ですわね。ブイブイ』
「誇ってんじゃないわよ! で、ミク、これどうしたらいいの。ゾンビ、三体どころじゃないみたいだけど」
銃声に引き寄せられて病院の入口や窓から大量のゾンビが湧き出してきた。
アイリは慌てず、ピースメーカーに弾を込める仕草をする。実弾は手にしてなかったが、それだけで補充は完了する。
『高速リロードや無限弾倉のスキルは取得しませんの?』
「リロードが好きなの。で、クリア手段は?」
『ボスを倒しましたらよろしいんですわ。頑張ってくださいませ。難しいですか』
「困ったことに、ド楽勝よ」
アイリの両目が灼光に輝いた。
そこからは人が変わったようだった。
群がってくるゾンビに、確実にヘッドショットを叩き込む。
呼吸を乱さず流れ作業のように繰り返す。
大量のゾンビはアイリの半径十メートル以内にも入ることができない。
『神がかり的な集中力ですわね。極限状況下でベストな行動をミスなく反復させるというの、トップアスリートでもなかなかいませんわよ』
「お褒めに預かり光栄よ、お嬢様。……キモいしうるさいし手がしびれる。なにが楽しいってのよ、これ」
『いやあ、世間でも大不評なんでございますわよね、これが』
ミクはえへへっと舌を出す。
東京魔界が売りにしたのはリアルシミュレート。
物理法則、車の挙動、銃の反動などの再現。
仮想現実を徹底的に現実に追いつかせる。
その狂気じみた執念もあって『東京』は完全に再現されたが、何事にも加減というものは必要なのである。
『ゴブリンやオークといったファンタジーらしい敵との戦いは大人気なんですけど、ゾンビやエイリアンはモンスター退治じゃなくて害虫駆除みたいだって言われてまして……』
「でしょうね! キモい、キモい、キモすぎるわこれ!」
ほんの数分もせず、病院から溢れてきたゾンビは駆除されたが、一体だけ残っていた。
病棟の屋上に、ギョロリと白い目を光らせるなにかがいた。
ミクのウィンドウがふわふわとアイリの隣にやってくる。
『見えてらっしゃるようですね。スキル・ナイトウォッチですか』
「ええ。真昼のようにとはいかなくとも、ハッキリとわかるわ。しかし、また気味の悪いやつね。名前、なんだっけ」
『あれはハンターですわ』
ハンター。それは人の形をしているが、全身が夜闇に溶け込みそうなほどに黒かった。
針金のように胴体と手足は細く、頭だけがボーリング玉のように太い。
耳と鼻はなく、二つの目と頬まで裂けた口だけがある。
邪魔にならないように、ミクのウィンドウが下がっていく。
『魔界出身で、死体を操って部下にして、生者を食らうっていう設定ですわ。ハンター自身も強いですのでお気をつけて』
そのハンターが動き出した。
屋上から病棟の壁を駆け下りてきて、一直線にアイリに向かってくる。ゾンビと比較にならない俊敏さだ。
慌てず、アイリは銃を撃つ。頭部に六発撃ち込んだが、ハンターは大きく仰け反るだけで、足は止まらなかった。
またたく間に接近してきて、両腕を振り上げた。
アイリのリロードは間に合わない。なので、別の手を使った。
「エイヤッ!」
正しくは足――。
アイリはハンターの頭にハイキックを叩き込んだ。
鋭く、靭やかな蹴りだった。
ハンターは地面をゴロゴロ転がっていく。
『キックボクシングですわね。見事な蹴りでしたわ』
「格闘スキルで一番しっくりきたのよね。快感ね、これ」
大したダメージは与えられなかったが、リロードの時間は稼げた。
起き上がろうとするハンターに弾丸を撃ち込む。
胸を踏みつけて撃ち込む。何度も撃ち込む。
そして、終わる。
ハンターは動かなくなって、全身が光の粒になって消えていった。
山の静けさが戻ってきた。
ミクがパチパチと拍手をする。
『クリア、おめでとうございます。どうですか、アイリさん。たまには体験型FPSってのも楽しかったのではありませんか?』
「……終わってみれば、確かにね。興奮してたわ。ただ、問題が一つ」
ゆっくりとアイリはゴーグルを外した。
彼女は白い吐息とともにこぼした。
「これが現実だっていうことよ」
彼女が身に着けていたゴーグルは目を守るためのものではない。
東京魔界をプレイするためのVR機器ネクストステアの一部で、映像を網膜に投影するためのものだった。
なのに、そのゴーグルを外しても景色は変わらない。夜空はナイトウォッチのスキルで昼のように明るく、銃を握ればターゲットサイトが出現する。
挙句の果てに、ミクが映っている無質量のウィンドウすらもふわふわと彼女の周囲を漂い続けていた。
彼女がいるのは仮想現実ではない。
正真正銘、ただの現実だった。
「あー、頭がおかしくなりそう。いや、おかしくなってんだわ、これ」
アイリはこめかみを押さえた。ちなみに、彼女が装着する翼型ヘッドフォンこそがネクストステアの本体である。
『まあまあ。これにてお仕事は終了ですわ。お代金、振り込んでおきます』
「あんがと。生活費にさせてもらうわ」
『そんなの出しますけど……。というか、もっとおっきなマンションに引っ越してもいいんですが。援助しますわよ』
「居心地が悪すぎるわ。こっちは生まれてずっと施設育ち。狭くて古くて貧乏くさい六畳一間のアパートが慣れてんの。ところで、そっちはなにか進展はあった?」
ミクのウィンドウが正面に回ってきた。
『進展、ありましたわ。その目で確認したほうが話早いと思いますので、後日、デートをしていただけます?』
「……私にはそっちのケはないよ。デートは、するけどね」
『そのお返事だけで光栄ですわ。それではまた』
ミクのウィンドウがふっと消えた。
アイリはゴーグルを戻し、病院の敷地から出ていった。
迎えの車などはなく、山道もすっかり荒れ果ててしまっているので夜闇を見通せても徒歩で進むのは危険だった。
そもそも人里まではかなりの距離がある。
ではどうするかというと、アイリは空を仰ぎ、唱えた。
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」
途端、アイリの体がふわりと浮き上がった。
そのまま重力の鎖を断ち切って、鳥よりもなお自由に飛翔した。
ヘッドフォンからは大昔のジャズナンバーが流れてくる。アイリは地上の煌めきを枕にしてメロディを口ずさんだ。
「――この状況が解決しても、この能力だけは消えないでほしいわね」
アイリは東京上空を風になって飛んでいった。