落ちてきた色彩
灰色だった。
気づいたときには世界から色は消え失せていた。
空も海も大地も、植物も動物も人間も、風や太陽の光さえもが私には灰色に見えていた。
聞こえてくる音、声さえも灰色だった。
さりとて、不満はなかった。
私の人生に美しいものはなかったが、醜いものもなかった。
ゆえにこそ、私は幸福であった。
大きな喜びはなかったが、激しい悲しみに苛まれることもないのだ。静かに、日々のタスクをこなしていく。そのことに集中できていた。
けれども、ふとした拍子に私は一人になる。
大事な仕事も放棄して、自分を心から慕ってくれる付き人からも逃れてふらりと雑踏の中に消えるのだ。
おそらくだが、無意識下に積もったストレスの発散なのだろう。
適当なベンチに座ってコーヒーを飲み、ぼおっと空の向こうを眺めて、そのうちに帰り支度を始める。
この日もまた、私はふとした拍子に一人になり、少しして公園にたどり着いた。
花壇の石垣に腰掛け、自販機で買ったコーヒーを飲もうとする。だがその前に、ぼんやりと空を見上げた。
そして、目があった。
空から飛んでくる少女と目があった。
「うぉぉ、ぶつかるぅぅ! 頑張れ、私ぃ!」
衝突する寸前、ぐいんと跳ね飛ばされたように少女は軌道を変更。私を回避し、硬いアスファルトの地面とぶつかった。
交通事故のような音がしたが、少女は元気に飛び起きた。
「ごめんごめん、お兄さん。いやあ、ついつい調子に乗っちゃったわ。怪我とかしてない?」
「……私のことか?」
「お兄さん以外に誰がいんのよ」
私は周囲を見回した。傍には誰もいなかった。
「まっ、無傷みたいね。よかったわ」
少女は軽やかに笑っていた。
「君の方こそ、怪我はないのか。ものすごい勢いで地面にぶつかったが」
「空を飛んできたことよりもそっちを気にする? どうかご安心を。私、頑丈なので」
えっへんと少女は胸を張った。
やせ我慢をしている様子もない。本当に無傷のようだ。
だったら私も彼女に言うことはない。空を飛んできたといっても、街中ですれ違っただけなのと大差ない。
――ちょうどいい頃合いなので帰ろうとしよう。
私はそう思ったのだが、足が動かなかった。
どういうわけか、少女のコロコロ変わる表情に目が吸い寄せられていた。
「ん? なに? あー、質問? 質問とかあるの、お兄さん。いや、そりゃあるよねー。ていっても、私はまだなんもわかってな――」
「どうして君はそんなに笑っているんだ?」
少女は眉をひそめてしまった。
「その質問おかしくない? 普通、どうやって空を飛んできたのか尋ねてこない?」
「……あー、いや、かまわんよ。どうでもいい。君がなんでそんなに楽しそうなのか、というのが気になる」
なぜそんなことが気になるのか。少女はそのキラキラした目で問いかけてきていたが、私にもわからない。
しかし、その笑顔こそに、私の心が反応していた。
「ん~~、なんでって言われてもねえ。そんなの決まってるじゃん」
少女は空を見上げた。
「自由に飛ぶのって、めちゃくちゃ気持ちいいもん。そりゃ笑う、大爆笑」
カッ、コッ、コン。
踊るように少女はタップを刻み、とんっとジャンプした。
そのまま落ちてこない。ふわりと宙に浮かんでいる。
「んじゃね、お兄さん。私、また空を飛ぶわ」
「写真も映像も撮られるだろうが、それはいいのか?」
「ぜんっぜんよくないけど……、いまは全力で楽しませてもらうわ。んじゃ、ばいばーい!」
少女は手を手を振って、空へと飛び上がっていった。
彼女の笑い声は遠くに消え、やがてその姿も雲の中に消えてしまった。
「冷たい、寒いと騒いでるのかな……」
私は手に持っていたコーヒーを口に含む。
そして、思わず地面に吐き出してしまった。
「――あまっ、甘い! 甘すぎる!」
たしかにブラックではなかったが、こんなに甘かっただろうか。
いや、冷静に思い返せばこんな味だった。ただ単に、私がこの甘さを気にしたことがなかったのだ。
しかし、いまはとても飲める気がしなかった。
そこでふと、私は気づいた。
空が青かった。
雲が白かった。
太陽は黄金に輝いていた。
「おお――、なんてことだ」
ドクンと、私の心臓が跳ねた。
喜びだった。全身が弾け飛ぶほどの喜びが生まれていた。
世界に色彩が溢れている。
空、雲、太陽。芝生と木々の深緑さ。
耳を劈くセミの鳴き声。肌を撫でる生ぬるい風。
舌に残るコーヒーの甘さ。
――脳裏に焼き付いた少女の笑顔。
私は、笑っていた。
「はっはっは! あっはっはっは! あーっはっはっは!」
生まれてはじめて、腹筋が攣るほどに笑っていた。
この日、私は蘇ったのだ。