たのしい幽体離脱
男は不意に目が覚め、そして、自分がアストラル体であることに気がついた。
アストラル体というのは、男自身にもよくわかっていなかったが、半端な知識だけはあった。
つまり自分はいま、『幽体離脱』をしている。
男は、住み慣れた自分の部屋に浮かんでいた。
八畳一間のアパート。
浮遊している状態からどうやって動いたものかと悩んだが、寝返りを打つように腰をひねってみるとゆっくりと回転した。
暗い部屋の中で、布団に横たわり寝息をついている自分が見えた。
いざ自分の顔を目の前にしてみると、不意に恐怖が湧いてきた。
大体それは、見慣れた鏡の向こうの顔ではないのだ。
鏡と形こそ同じだが、位置関係は逆になる。
芸能人を突然間近で見てしまったようなものだった。
見慣れた顔なのに、いざ間近にいられると落ち着かない。
どうしてこんなことになった?
……いや、落ち着け。
何かで読んだことがある。
これは夢なんだ。
夢の中で夢だと気がつく、明晰夢の一種。
アストラル体というのも、いつかどこかで読んだ本の中の言葉だ。
『幽体離脱』という体験は昔から報告されているが、それもそのはず、何ら不思議なことじゃない。
ある特殊な夢の一形態、つまり、生理現象に伴うものであるからだ。
そんなことをまた別の本で読んだことがある。
だとすると、気は楽だ。
どうも夢だとは思えないほどにリアリティを感じるが。
それでも、夢は夢だ。
ならば、楽しめばいい。
男は窓に向かって、両手で空気をかきわけてみた。
平泳ぎをするようなイメージ。
そのイメージどおり彼の体は前進しはじめ、そうして上手く停止が出来ず、窓にぶつかる、と思った瞬間にガラスをすり抜けた。
男は外へ出ていた。
見上げると星の姿まではっきりとわかる。
普段の自分の夢はもっとぼんやりとしているのに。
怖いぐらいにリアルだ。
でも、夢のはずだ。
せっかく飛べるのだから、いっそ宇宙の果てまで飛んでみようか。
ふとそんな考えが湧いてきた。
しかし空へ向かって高度を上げていく途中、男の目に、とある建物が留まり、それで気が変わった。
それはある女のアパートだった。
男も女も、二人とも大学生である。
まったく別の地方から上京しており、大学ではじめて出会った。
今は週に二度同じ授業を受けており、二人は近くの席に座ってよく話す。
二人は恋人ではなかった。
しかし、男は女に好意を抱いていた。
それを態度ではっきりと示してもいた。
女は男のことが嫌いではなさそうだったが、じゃあどういう気持ちを持っているのかというと定かではない。
どうせ夢なんだ。
そんな考えが男の頭には浮かんでいた。
自分はいま、ガラスをすり抜けた。
だから、……彼女の部屋にだって入れるかもしれない。
何しろガラスだってすり抜ける体だ。
部屋に入って一体何をするのか、などと考えもしたが、それでも男は女のアパートへ飛んでいった。
歩けば三十分ほどの距離がある。
飛んでいる今は、もうすこし早かった。
女の部屋の位置を男は知っていた。
みんなで開いた飲み会の帰り、一度送ったことがある。
そのときは中には入れてもらえなかった。
男もやすやすと引き下がった。
だけど、今なら。
三階にあるその部屋のベランダへ向かい、男は着地した。
足をつけることが出来た!
男は喜んだ。
物に触れることが可能なのだ。
そして足に伝わる触感も、視覚と同様、信じられないぐらいにリアルだった。
そうだ、これは夢で、自分の頭の中のことだ。
もしかしたら、自分の望むものをすり抜け、そして、触れることが出来るのかも。
男のその考えは当たっていたらしい。
ベランダのガラスは、簡単にすり抜けることが出来た。
女の部屋は暗かったが、夜の中を飛んできた男には、薄ぼんやりとした中の様子を目にすることが出来た。
この部屋には入ったのははじめてだ。
だから、室内の様子はすべて想像の産物であるに違いなかった。
しかし、一目見たところでは無理のない女性の部屋にしつらえてあった。
散らかってはおらず、少ないがこぎれいな家具でまとめられている。
女の趣味らしい、小さなぬいぐるみが部屋の隅のシンプルな机の上に乗っている。
そして女はベッドの上で眠っていた。
どうせ夢なんだとはわかっていても、女の姿をそばにした男は、ためらっていた。
女に触れることもできるはずだった。
普段なら見られないところだって、見れるかもしれなかった。
それは、男がこの部屋にまで飛んできた動機の一つでもあった。
だけど、いざ女を間近にしてしまうと、自分のそんな欲望が、ひどく情けないものに感じられた。
夢だからといって、何をしていいわけでもないよな。
男はため息をつき、再び外へ出るためにベランダへと向き直りかけたが、そこで動きを止めた。
……でも、まあ、寝顔を見るぐらいならいいかな。
ベッドの上の女にゆっくりと近寄る。
そして額までかぶさっている布団に手をかけようとする。
声がしたのは、そのときだった。
「……あなた、誰?」
声の主は、いつのまにか部屋の中に立っていた。
いや、立っているのは部屋の中に、ではない。
この部屋にあるのは上半身だけだ。
こちらを覗きこむように、部屋の扉の向こうから、体を突き出している。
やがて、声の主は扉をすり抜けて部屋に入ってきた。
そうして男がやりかけていることを認識すると、目を丸く開き、大声をあげた。
「あ、ちょっと、わたしに何やってるのよ!」
男は耳を疑った。
わたし?
そうだ、すり抜けてやってきた声の主の姿をよく見ると、それはベッドに横たわっているはずの彼女自身だった。
……まずい!
男は腕で顔を隠し、すぐにベランダから飛び出した。
後ろでまだ何か声がしたが、全速力で自分のアパートに向かって飛び、高鳴る胸を押さえながら、まだ寝ている自分と重なろうとした。
何度か失敗し、自身をすり抜けてしまった。
しかし、最後には体に戻ることが出来た。
そこでちょうど目が覚めた。
すでに朝が来ていた。
意識の中では、ついさっきまで夜だったはずなのに。
※※※
翌日、駅で女と会った。
内心ではびくびくしていたが、どうせ今朝の出来事は夢だ、そう思いながら声をかけた。
女はちょっとうさんくさげな顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔を向けた。
やがて、女が昨夜見たという夢の話がはじまった。
それまで聞いたことはなかったが、女はよく金縛りにあうらしかった。
そして時には、自分の体を抜けでて、いわゆる『幽体離脱』をして、夜の街を自由に飛び回るそうだった。
これは別に霊的な現象ではなく、睡眠時に起こる生理現象の一つであり、明晰夢と呼ばれる夢の一形態でもある。
女はそう説明した後、少しいぶかしげな顔をした。
「でも、昨日の夢は変だった。自分の体に戻ろうと、つまり、そろそろ夢を終わらせようとしたら、なぜか知らない男が部屋にいたの。わたしの自由になる夢なのに、何でそんなことが起こったのかわからない。わたしの体はベッドに眠っていて、そしてその知らない男は、そっちのわたしを襲おうとしている。その男が、なんかさ……あなたみたいに見えたのよね」
話す口調こそ楽しげだったけれど、そのときの女の目はあまり笑っていなかった。
男も同様に内心を隠した。
無理に笑い飛ばして、口を尖らせた。
「なんだよ、それ。人を変態みたいに言って」
「……まあまあ、夢の話だから、怒らないで。もし本当にあなたなら、そんなこと、しないもんね」
もちろんだとも、と男は頼もしい口調で請け合った。
その背筋には汗が伝っていた。
※※※
それからしばらくして、男がはじめて、女の部屋に入る機会を得た。
そのとき見た女の部屋は、記憶にこびりついているあの夢の中でのものとほぼ一緒だった。
もしかして、あれは夢じゃなかったんだろうか?
本当に、アストラル体というものがあって……そして、あの日は偶然、彼女の方もそうなっていて……。
冷汗が噴出したのがわかったけれど、男はすぐに思い直した。
まあ、結局はうまくいったんだからいいさ。
今ではこうして堂々と、恋人になった彼女の部屋に入れるようになったんだから。