ようこそお嬢様。早速ですがご両親とのご対面です。
それは深夜に差し掛かろうという時でございました。
お屋敷の端にある従者用の寮で、就寝しようと身支度を整えていた私の元に、夜番のメイドであるキリエさんが駆けつけてきました。
「ジャンヌさん、ルクレツィアお嬢様が!!」
その慌てように、私は時が来たと悟りました。この物語に降り立ち、二年。ルクレツィアお嬢様のお世話係として仕えておりましたが、まだ覚醒の兆しはありませんでした。
一応覚醒イベントとして節目節目に命に関わる危険な事故や病気などありますが、そこは神の采配によりお嬢様の命は保証されているので、慌てることもありません。
私は寝間着から、お着せに支度し直し、叩かれている扉を開きます。
「落ち着いて下さい、キリエさん。お嬢様がどうされたのですか」
私の様子が落ち着きすぎていたのか、焦りと苛立ちに顔を歪めながらキリエさんはお嬢様が寝ている最中に突然悲鳴を上げ、暴れ始めたと教えてくださいました。
お嬢様の部屋に向かう道すがらにも、詳しい事情を聞いていきます。
「随分と苦しそうで、私の呼びかけにも返事がなく、ただただ悲鳴を上げていらっしゃって」
「左様ですか。それは心配ですね」
「………」
キリエさんの顔は見ておりませんが、眉を潜めている空気を感じます。私は、何もおかしな事は言っていないはずなのに、何故そのような顔を向けられるのか。
気になりますが、まずはお嬢様の容態を確かめる方が先決です。使用人用の通路を辿り、最短経路でお嬢様のお部屋の前に参ります。
お嬢様の悲鳴が扉越しにまで聞こえていました。
「お嬢様、ジャンヌです。失礼します」
断りを入れてから、入室いたしますと、お嬢様は天蓋ベッドの中で、頭を抱えながらのたうち回っていらっしゃいました。
夜光灯の下、ベッドの上で千々に乱れるお嬢様の黒髪はお嬢様が動くたびに蠢き、まるで呪いの手がお嬢様から伸びているよう。五歳のお子様の異様な事態は初めて目にすれば恐怖に立ちすくむ事でしょう。
私はすぐさまベッドに駆け寄り、お嬢様に声を掛けます。
「お嬢様、ルクレツィアお嬢様。どうされたのですか、頭が痛いのですか」
無論、返事など来るはずがありませんが、私は声を掛け続けます。
「大丈夫ですよ、お嬢様。ジャンヌが参りました。すぐに痛みを払いますね」
そう告げ、お嬢様をお呼びしながら片手は額に、もう片方の手でお嬢様の豊かな黒髪を漉くこと数回。お嬢様の様子は次第に落ち着きを取り戻し、穏やかになっていきました。
「高熱が出ていますね。このせいで頭痛が酷かったのでしょう。この高熱は多分三日程続きますね」
猫のように丸まり、荒いながらもしっかりとした寝息を立てているお嬢様を見守りながら、キリエさんに伝えます。
「水桶と手拭いを持って来てもらえませんでしょうか。旦那様へのご報告はお休みになられていますし、明朝に。お医者を呼ぶのも朝で大丈夫と判断します。私はこれからお嬢様の容態が回復するまで付き添います」
私の言葉にキリエさんはこくりと頷き、退室されました。
玉汗をかく額に貼り付いていた御髪を取り除き、ぽん、ぽんとお嬢様の背中を叩きます。今、お嬢様の中では前世の記憶が流れ込まれて混乱の最中に居るはずです。
「大丈夫ですよ、お嬢様。私がついております。安心して下さい」
朦朧とされているお嬢様に伝えても、聞こえてはいないでしょうが、それでも何もしないよりはマシだと思われますから。
キリエさんが持ってきて下さった水桶で濡らした手ぬぐいで額を冷やそうと思っていましたが、猫のように丸まっているお嬢様に乗せるのも座りが悪く、汗を拭う程度に留めます。
お嬢様の目尻に涙が溜まっていました。何を思い出されているのでしょう。
私は過去のお嬢様方の前世を知ることはありませんでした。どのような人生を過ごされたのか。前の名前は、家族は。昔と違うこのクリューメイ家での生活をどう思われているのか。
お嬢様は言葉で伝える代わりに行動で示されていましたが、誰にも話せない記憶を持って生きていくのはどれだけ孤独であったか。
私は、お嬢様に付いていく事しか出来ません。
お嬢様の物語の中で、あくまでサブキャラでしかないのです。少しでもこの世界がお嬢様の住みやすい世界に、と思うばかりです。
お嬢様は私の見立て通り、医師の手立てによっても三日三晩高熱を出し続けました。
その間、お嬢様の様子を代わる代わる見に来ていらした旦那様と奥様は、僅かな時間ですが目覚めぬお嬢様の枕元で神に祈りを捧げたり、侍女の仕事を代わったりとお嬢様のお世話を甲斐甲斐しくなさっていました。
夫婦仲は冷めていても、子供に対する愛情が残っているのは想定通りです。単に彼らは愛情をどう示せば良いのか分からない不器用な人として生きておられます。
子供に見向きもしない親という設定を付け加えるのは流石に神でも憐れと思って下さったのではないでしょうか。
ハッピーエンド好きの神の事ですから、極端な鬱展開は歓迎されてないのではないかと思います。物語といいましても、今私達の存在する舞台は現実的ですし、お嬢様にとってはリセットの効かない一度きりの人生なので、洒落になっていないのですけどね。
物語の舞台は王冠の薔薇全世界。そこに生きる全ての者に物語があり、それを一粒の砂と例えます。多くの砂が形を作り、時間という名の水を流して、歴史という大河を成形したと考えれば神の偉大なる力は本物だと言えるでしょう。
その川の中で転がり続けるお嬢様という宝石の原石に、神は目を付けられたのです。どう輝くのかはお嬢様次第。
ようやく目を覚ましたお嬢様は目の前の出来事が理解できていらっしゃらない様でした。
見知らぬ部屋で起きてしまった、というように、きょろきょろと周りを見渡します。
「お嬢様、ルクレツィアお嬢様。ジャンヌの事がお分かりですか?」
お水を渡しながらお嬢様が何者なのか、私がどの立場であるのか、確認するそぶりで声を掛けますと、お嬢様の目は見開きました。恐る恐るといった体で「ジャンヌ…?」と私の名前を呼ばれます。
「はい、お嬢様のお世話係のジャンヌでございます。お嬢様はご自分の事がお分かりですか? 名前を言えますか?」
「わたくしの名前は……ルクレツィア・ルイーズ・クルューメイ……」
畳み掛ける私の質問に、呆然としながら答えたお嬢様は、自らの名前に気が付かれ、慌てて水をお飲みになられた後手鏡を求められます。お嬢様の容姿──今は乱れていますが、整えれば緩くウェーブのかかった豊かな黒髪、意志の強そうな赤い瞳、陶器の様な白肌は『王冠の薔薇』の悪役令嬢であるルクレツィアのもの──と自覚された様です。
間違いなく覚醒されました。
ようこそいらっしゃいました、お嬢様。
この辺りで、一度お一人で考える時間が必要でしょう。
「お嬢様は三日程高熱で、うなされていたのです。旦那様も奥様もお嬢様の容態を随分と心配されておられました。寝ている間ほぼ何も口にされてませんから、空腹になられているでしょう。旦那様への報告と共に消化に良いものを持ってきます。しばしお待ち下さい」
簡単な状況説明と退室理由を述べ、お嬢様の部屋を辞します。
多分、今頃お嬢様は前世でプレイされていたゲームの悪役令嬢に転生した御自分に対して混乱を鎮めようとされているはずです。
前世の知識と現在の状況をすり合わせ、ルクレツィアの設定を思い返し、死亡フラグをあぶり出す。侍女に怪しまれない様に、違和感を持たれないようにと、考えていらっしゃるのでしょう。
まずは消化に良いものとして、ポタージュスープをお持ちしたところ、お嬢様は音を立てずに飲み干されました。
「わたくしは大丈夫だから、しばらく一人にしてちょうだい」
「申し訳ありませんがお嬢様、それは出来かねます」
申し訳ございません、お嬢様。一人になって覚えている事をノートに書き留めたいお気持ちはよくよく理解できるのですが、そうは問屋がおろさないのです。
「わたくしの言う事が聞けないというの?」
赤い瞳が私を睨みつけますが、幼子の怒る姿は愛らしいと思えど、恐ろしくはありません。
愛らしいお姿が見れたご褒美としか思えません。本当に申し訳ありません、お嬢様。
何故なら理由はこちらの方が正当だからです。
「お嬢様がお目覚めになったと奥様にご報告しましたところ、すぐにでもお会いしたいと」
苦々しく顔を顰めるお嬢様。目覚めたという報告を申し上げた時の奥様の顔をお見せしたい。ルクレツィア様として、どれ程心配されていても、お嬢様にとってはいきなり見知らぬ他人に押し掛けられる可能性があったのですよ。
お嬢様はまだ意識がはっきりしておらず、落ち着いてからお見舞いに行かれては、と奥様に提案した私はいい仕事をしたと思いますのよ。
「……分かりました」
お分かり頂けて何よりです。
奥様はお嬢様のお顔を見るなり、ほろほろと涙を零されます。お嬢様の成長されたお姿と瓜二つのお顔を持つ奥様の突然の涙は周囲の者達をぎょっとさせました。
私もこの反応は一人目のお嬢様の時ならともかく、女王教育に熱心になられた奥様はまず心配させた事に対して怒りを覚え、まだ病床の上であるお嬢様の頬をぶつのが通常でしたので、どう反応していいのか分かりません。
お嬢様も戸惑っておられます。
「おかあさま……」
お嬢様のお声を聞いた途端、奥様はその場で顔を覆ってしゃがみ込み、嗚咽を漏らしはじめました。
「奥様?!」
「奥様!」
慌てふためく従者達。無理もありません。
普段は凛とした佇まいで、冷淡な印象を持つ奥様が人前で感情をあらわにするなど、予想だにしていませんから。
「お母様……」
お嬢様も咄嗟に奥様の元へ行こうとなされますが、未だ目覚めたばかりの体に無体は働けません。
「お嬢様、お目覚めになられたばかりですから、無理に起き上がっては」
お嬢様に忠告する私の声を聞き、顔を上げる奥様。意外とお化粧が崩れていないのは流石の一言です。ゆっくりと立ち上がり、よろよろとした足取りでお嬢様の側に行かれました。サイドチェアに腰を下ろし、感極まったようにお嬢様の顔を見続けたと思えばまた涙が目の縁に。
お嬢様が奥様に手を伸ばすと、奥様はお嬢様を抱きしめ、「ルクレツィア……」と震える声でお嬢様のお名前を呼ばれました。それだけで、どれ程お嬢様が愛されているのか判るというもの。
……過ぎた事は仕方ないとはいえ、これはお嬢様の容態が豹変した時、すぐに報告した方が良かったのでしょうか。まさかこれ程まで奥様がお嬢様の事を気にかけていらっしゃるとは思いもしていませんでした。
「お母様、心配かけてごめんなさい」
「何を謝ることがあるのです。あなたは何一つ悪くありません。ああ、本当に良かった……」
抱きしめたまま、良かった、良かったと繰り返す奥様に対して、罪悪感がこみ上げてくるばかりなのですが、いつまでもそうしてはいられません。
「奥様、お嬢様の病症はまだ分かりません。過度に接触して、奥様も病が移るといけませんので」
良心が痛みますが、奥様タイムの終了を告げた矢先に、「ルクレツィアが目覚めたのは本当か!」と叫びながら旦那様がいらっしゃいました。いつもは撫で付けている黒髪の毛が所々落ちている事から、余程慌てていらっしゃったのが察せられます。
旦那様現れた事に警戒したのか、お嬢様を抱きしめる奥様の腕の力が強くなってしまったようです。お嬢様がカエルの様な声を出されていますが、奥様はお嬢様よりも、旦那様に意識を割かれています。
旦那様は奥様の腕の中で目をぱちくりとされてるお嬢様のお顔を見た途端、ベッドの側まで駆け寄り、奥様に抱きしめられたままのお嬢様の手を握りしめました。その手を旦那様の額に押し付け、「良かった……!」と申されます。
「ルクレツィア、加減はどうだい。三日間ずっと目を覚まさなかったんだ。体の不調は? 食欲はあるのか? どこか痛い所は無いのかい」
顔を上げた途端、矢継ぎ早にお嬢様への質問を重ねる旦那様に、眉を潜める奥様。旦那様に対してのヘイトが凄いです。神よ、夫婦仲はただの仮面夫婦という程度の冷え込み具合ではなかったのですか。
「旦那様、見れば判るでしょうに、まだ病床の娘の前で質問をまくし立てなくてもよろしいのではなくて?」
「ああ、居たのかディアナ」
旦那様の声色はお嬢様に対するものから随分と冷ややかで、部屋の空気が一気に張り詰めました。
「ええ、突然淑女の部屋に侵入する悪漢から我が子を守らねばならぬので、側に控えさせていただきました」
奥様は先程涙を浮かべていた筈だというのに、その気配すら感じさせない微笑みを旦那様に向けて浮かべていらっしゃいます。
ひぇ……と何処からか声が上がりました。部屋にいる侍女の誰かが漏らしたのでしょう。その気持ち、とても良く分かります。
何故お二方ともお嬢様対しては愛情が過剰な程だというのに、お互いに対しては憎しみとも言える感情をあらわにしていらっしゃるのか。
見えている地雷を踏み込む勇気はありません。
侍女の誰も声をかけられない中、その張り詰めた空気の糸を切ってくださったのはお嬢様でした。
「お父様、お母様、わたくしの心配をして下さるのは嬉しいのですが、皆が怖がっています。どうか、落ち着いて下さい。お父様もお母様も本当はお互いが大好きなのでしょう?」
お嬢様は、そう言い切りましたが、果たしてそうなのでしょうか。