☆新規章【書籍版】44話 多智花真木の憂鬱①
多智花真木の朝は早い。
ジリリリリリリリリリリリッと鳴るスマホのアラームが起床の合図。
布団から手を伸ばし、画面タップで止める。
再び布団の中に潜り込み、目を瞑る。
……………。
ジリリリリリリリリリリリッ。
5分後に再び鳴り出すアラーム。スヌーズ機能。
それでやっと、多智花は起床した。
「くぅ……」
薄暗い部屋に漏れた、か細い女性の声。
24歳低血圧の多智花真木は、朝が壊滅的に弱い。死ぬほど弱い。絶望的なほど弱い。それなのに毎朝6時に目覚めなくてはならない億劫さといったら。それは彼女にとってほぼ拷問であり、行う度に精神をすり減らすルーティーンである。
「…………ねむ……」
寝起きの破滅的に悪い目つきで、多智花はカーテンの隙間から零れる繊細なオーロラのような光線を睨みつけた。
まごうことなき朝。疑いようのない早朝。
深いため息をつきながら、彼女は腰まで伸ばされた長髪を結って、血液の代わりに鉛が流れているかのような重い身体を洗面所へと運ぶ。
『ということで、今回は!実在するヤバすぎる冒険者3人を紹介したいと思いますぅぅぅぅぅぅぅぅ!』
「ぉご……」
タブレットでYourTubeを見ながら歯を磨くのが、多智花の朝の怠惰な日課。
寝ぼけ眼で歯ブラシをガシガシと繰りながら眺めているのは、最近ハマっている都市伝説紹介系YourTuberの動画。
『3人目……ミズキ。ミズキは、最近突如として現れた謎の日本人冒険者。発端となったのは、某おにゃのこ高校生系YourTuber詩のぶチャンネルで……問題の動画で呼ばれているのが、どうにも【ミズキ】と聞こえることから……また最近では、ホリミヤグループ創業者の破産にも関わっているとの噂が……』
「ほぇー」
途中で動画の再生を止めると、多智花はシャワーを浴びてから化粧に移る。
厚化粧する性質ではないのだが、最低限のエチケット。この世の中には、暗黙の『しなきゃいけないことリスト』が多すぎる。息苦しい。暑苦しい。厚かましい。
『また噂によれば、このミズキは【米国のデータベースにも存在しない未知のスキル】を使用しているらしく、各国の諜報機関が血眼になって情報収集にあたっているとか……』
面白おかしく編集された長尺の動画が終わりに差し掛かった頃には、多智花は朝の支度を一通り終えて、すでにスーツへと着替え終わった所だった。
家を出る時間まで、もう少しだけ余裕がある。
多智花はスーツ姿のままでベッドに腰かけてタブレットを膝に置き、動画を最後まで見終える体勢に構えた。
『ということで、実在するヤバすぎる冒険者3選でした!ということで、この動画を見て僕も冒険者になって詩のぶちゃんとニャホニャホしたいぞ♡と思った童貞のみんなは、高評価とチャンネル登録よろしく!ではではー!』
「………………」
パタン。折り畳み式のタブレットカバーを閉じて、ベッドの上に放り投げる。
ボスン。定価4万円弱の薄型精密機械は、整頓されずに盛り上がった布団の上に墜落して、情けない音を立てた。意識が一時的に高かった時期に、仕事とか色んなことに活用しようと思って買ったタブレット。でも今ではYourTube専用機。一緒に買った何やらペンシルは何処へ仕舞ってしまったか。
最後に鞄の中身をチェックしてから家を出て、通勤用に買った中古車に乗り込むと、エンジンをかける前に、ふとため息が零れる。
「…………仕事、行きたくない」
ハンドルを抱えてもたれ込みながら、多智花はそんなことを呟く。
冒険者になれば、朝も早く起きなくていいのかなあ。
ふとそんなことを思う。
自分でも、すぐに大金とか稼げるようになるのかなあ。
でも冒険者って、どうすればなれるんだろう。
たしかアレって……最初にスキル買ったりレベル上げしたり、訓練受けたりしなきゃいけないから……最低でも1000万円くらいかかるって聞いた。それくらいお金と時間をかけても、職業冒険者でやっていけるのは一握り。医者や売れっ子芸人になるより大変らしい。はーあ。やっぱ無理だよなあ。凡人は地道に働いて地道に稼いで地道に貯金して地道に毎朝早起きするしか無いんだよなあ。
そんなの、わかってるんだけど。
ドルルン。
エンジンキーを回して、車を発進させる。
職場である大守市役所まで、車で二十分ほど。
◆◆◆◆◆◆
「多智花くん。あの件だけど、まだ見つかってないの?」
大守市役所危機管理対策室。
その室長室にて、多智花は冷や汗をダラダラと流している。
「す、すいません……その……」
「見つかってないのか、と聞いているんだが?」
室長にピシャリと問われて、冷汗の噴出が瞬間的に激しさを増した。
「見つかって……いません……」
「披露式の日程、わかってるよね?」
「ら、来週、です……ね……」
「一体どうするつもりなんだね」
圧し潰すような声色。
多智花は胸の動悸が激しくなるのを感じた。呼吸が苦しくなり、息が上手く吸い込めなくなってくる。喉が絞られて、通気孔がミリまで狭くなってしまったかのようだ。
まずい。息ができない。
「披露式には、はるばる東京からもお偉いさんが出席するんだぞ。そのときに、君のペアだけまだ決まってないなんてことがあったら……」
そこまで言った所で、室長は首をかしげる。
多智花は脚を振るわせて、その場で蹲ろうとしていた。
「……ぇぅっ……ひぃっ……」
「君、大丈夫かね?」
「ぁ……ずみまぜん……ちょっと、か、過呼吸が出始めたみ、たいで……」
「……またかね? ああ、もういい。あとでもう一度来なさい」
「ぁぃ……ずみまぜん……」
吐く寸前のようなふらつき具合で退室した多智花は、部屋を出てすぐに壁に寄り掛かり、いったん呼吸を止める。
「ふぅっ……うぐ……」
そのままうずくまるようにして背中を丸め、腹に手を当てて呼吸に集中する。
静かにゆっくりと、しかし確実に息を吐き出す。
吐き切る。
腹の中の臓器が上下に蠕動するのが感じられる。
腹式呼吸。腹式呼吸。腹式呼吸。
息を腹まで吸い込み、また確実に、腹から空気を吐き出すことだけに集中する。
「すぅ……はぁ…………!」
手慣れた様子のある自己応急処置によって、過呼吸症状が少しずつ改善されていく。
空気の交換が楽になり、窒息するような苦しみが紛れて霧散していく。
目に薄っすらと涙が溜まっていた。それをスーツの袖で拭いながら、呼吸が通常運行に戻ってくれるのをひたすら待つ。
これは体質的なものだった。精神的なストレスを許容量以上に感じると、多智花の呼吸器系はすぐに混乱し、過呼吸症状を勃発させる。それは小さい頃からの持病のようなもので、そうなってしまった際の復帰の手際というのは、もはや熟練の域である。
「げぇ……おっけぇ…………」
気道のつっかえが、ようやく取れてくれた。
多智花はゆらりとして立ち上がると、壁に手をつき、這うようにして歩き始める。
足が重い。胸が苦しい。唾に妙な味が混じっている。
ああ嫌だ。
困った。死にたい。困った。死にたくない。辞めたい。




