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昭和歌謡大全集の映画を見て酷い気分になった。

 昭和歌謡大全集の映画を見て酷い気分になった。まずそれが何なのか、という事を説明する。

それは村上龍の小説だ。

映画のどこがクソだったか? という事を、具体的に言いたいので、ネタバレをする。

コミュニケーションが下手で、エネルギーを何に使っていいのかわからない、パソコンオタクが五人居る。彼らはその中の一人、主催者の家に集まってパーティを開くが、彼らは人に接した経験にあまりにも乏しいので、酒も用意してないし、食べものも用意していない。

たまに一人ずつ、自分で買ってきては勝手に食う。

ある時一人がカラオケ音源の入ったLDを持ってくる。

誰も歌わない。時々、伴奏をハミングしている声が聞こえる。

その時、向かいの部屋で、女がシャワーを浴びている様子が映る。

全員、感動する。勃起もする。自分たちのグループだけでなく、他者が居るのだ、しかもそれは女だ、という事に気づく。主催者は酒を振舞う、みんなはつまみを共有する、そうして、カラオケはそう変われた第一歩として、全員の趣味になる。

 彼らは時々大きな車に音響設備と衣装を積み、海岸に出かけ、ステージを組み、そこでカラオケをやるようになる。じゃんけんをして、勝った奴がメインボーカル、負けた奴は裏方で、運転手だ。(この時のじゃんけんをする様子が最高だ。ヨガをするぶぁい、ぶぁぁあい、ぶぁぁぁぁああああい、と叫びながら手を出す方法はイシハラ風と呼ばれる。)

ある時カラオケステージの興奮さめやらぬまま街を徘徊していたおたくの一人がおばさんを殺してしまう。

エネルギーを発散しきれず、それが飽和していたからだ。

おばさんはミドリ会、という名前が同じなだけのおばさんが集った仲良しグループに所属している。

ミドリ会は事件の解決は難しいだろう、と警察に言われる。

ミドリ会のメンバーはカナディアンクラブのスコッチを特攻前の日本兵よろしく、茶碗に入れ、一息で飲み干す。

こうして、ミドリ会と、おたく軍団の殺し合いが始まる。


と、まあこれが前半のストーリーだ。

ここまで読んでわかるとおり、かなりイカれている。

滑稽ですらある。しかし、面白い。


カラオケだとかそういう人のコピーを稚拙な方法で、内輪でしか出来ない、エネルギーを持て余している集団。


俺たちの世代だ。

結構昔の本なのだけども、(アップルIIとかの時代じゃないかな)そこがすごく面白い。


映画版のクソな所。

終わり方と主要人物の一人だ。

イシハラという人物が居る。

小説版の彼は躁病である。

行き場のないエネルギーをただ方向ななく放出させている。


ヨガをするぶぁい、ぶぁぁぁぁぃ、ぶあああああああい。

イシハラはおかっぱのかつらを被り、口紅を引き、いくわよ、と言った。

ギャハハハハノブちんノブちん、赤まんこ黄まんこ青まんこって言って絶対笑わないから


イシハラは感情豊かだ。

なのに空虚だ。

意味のある行動をしないからだ。

そこがロックスター的であり、パンキッシュであり、後の小説、半島を出よ、にも出てくるのだけども、詩人になっていて、だからイシハラは、詩人的なのだ。


映画版のイシハラは鬱的だ。

常に空虚だ。

エネルギーはあるように感じられる。

しかし放出させていないのだ。

オレの書いたお気に入りのシーンも一切存在しない。

わかりやすく言うとキアヌリーブスみたいだ。きみ、魂をどこかに忘れてきているよ……


おたく、のキャストは全員イケメンだ。

話題の俳優だ。

俺たちではない。


おばさん、のキャストは大御所女優たちだ。

テレビドラマでブイブイ言わせてたような連中だ。

彼女達が出てくると映画ではなく昼寝をした後テレビを点けるとくだらない昼ドラが映っていたときみたいな気分になる。

どの台詞を喋る時にもテレビ向けの喋り方をする。(あの、エイッ、今から喋ります、台詞を話します、みたいな話し方は、なんなんだろう。テレビドラマの音を拾うマイクだとか、そういうものに関係があるのだろうか。)


良いシーンもある。

最初のカラオケシーンだ。

ピンキーとキラーズの恋の季節を歌う。(余談だが、ピンキーとキラーズなので、ジャン・ケン・ポンではなく、ジャン・ケン・ピンキー、と言わなければならない。)

イシハラがメインボーカルをする。

口紅をひき、いくわよと言う。(あ、映画版だといわないけど。)

そのシーンはすごくいい。

鬱的なイシハラが唯一良い方向に作用している。

ヘタウマな棒読みのボーカル、何よりいいのは、その、動きだ。

そのもじもじしたような、ピンキーとキラーズをただなぞっただけの、洗練されていない動き。

そこに全てがある。

日本のクソロックは歌謡曲にリズムをつけただけ、という言葉の意味がよくわかる。

今の虚しさの意味もよくわかる。

そのシーンだけは最高だ。


じゃあ、一番許せないシーンについて書こう。


小説版では、ノブエとイシハラ、という二人だけが生き残る。

彼らは喪失感と無力感を埋めるためにホモ的になる。

しばらくすると、ふと、殺された仲間の顔や、様子や、記憶が、ぽろぽろと思い出されてくる。

ホモ的行為には何も意味がないと気づく。

また口だけで彼らとの思い出を大切にしよう、みたいな事にも意味がないと気づく。

おばさん達に復讐しよう、と決意する。

そうして大量破壊兵器を作り、おばさん達が住む調布市をまっさらにする。

イシハラは最後に、仲間がたくさん死んで悲しいけど、またすぐに出来るさ、そうしたら、カラオケパーティだって、また出来るさ。と思う。

最高のオチだ。


映画版のオチはこうだ。


ノブエ、は死に、イシハラだけが生き残る。

途中、何度何度か出てくる、一人の女が居る。

どういう女なのかというと、証人とかメッセンジャーみたいな役割だ。

最初におばさん側から復讐として殺されたおたく、その死体がある場所、殺害現場の近くに住んでいる。

その女は左右のバランスが崩れていて、醜い。

その女は小説版だと誰からも好かれない。

映画版、ノブエの居ないイシハラは、最初に友達が殺された所に行く。

女と出会う。女はイシハラの神秘的なところに惹かれている(あ、吐き気がしてきた。)

イシハラは女に抱きつき、泣く。オレだって限界なんだ、一杯一杯なんだ、わかってくれよ、そう吐露する。(吐きそうだ。)

女は同意する。


原作で書かれている事がある。


話しながら自分に酔って泣くような奴は最低だ。


その通りだと実演してくれたわけだ。


後は、同じ。ノブエが居るか居ないかの差だ。


あ、違った。


最後にイシハラはなんと、自殺しようとする。

でも、出来ない。

眠る。


タクシードライバーかよ。

他のものなら良かったかもしれない。


空虚の不気味さを描いているこの小説で、そういう中途半端な、悲劇の方向に走ってしまうというか、マイノリティ側に中途半端に立って、同情、わかってくれよというモノを描くのは、最低だ。


オレはわかってほしくなんかない。

ただマジョリティが嫌いなだけだ。

調布市みたいにまっさらにしてやりたいだけだ。


邦画の悪い所全てが出たような作品だった。

ストーリーをなぞろうとしている努力は見えるだけに、要らない改変が、余計に鼻についた。


 オレは製作陣のwikipediaを見た。

○○氏は新世紀エヴァンゲリオンに影響を受けー


あ、なるほど……。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 初めまして。小5のときにコインロッカーベイビーズを読んでファンになった者です。 「報復は報復をしか生まない」というメッセージを、僕はあの小説から感じ取りました。しかし映画からはまるでそれを…
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