尾張名古屋時代6
文治の普段は、便利屋、何でも屋をしていた。長屋の屋根修理、どぶ掃除、刃物の研ぎ、祭礼時の調理の手伝い、ネズミ退治、等々読んだ書籍の種類が多岐に渡っていたので知識となっているものは何でも引き受けた。
どぶ掃除では、水路の破損修理、通り道への石灰を混ぜた土での修繕、どぶの排水傾斜の確保といったことも併せて行った。当然、手間賃では修理・修繕に使う部材を手に入れる費用で消えてしまって手元には何も残らなかった。居候だからできることではあった。当時としては、衛生という観念は未だ定着している訳では無かったが、汚れた水が滞る事で運気が低下するという風水の話しを持ち出す事で、長屋の大家を含めた者達が文治の修繕を受け入れ、長患いの者が快方に向かい、子供達の下痢も少なくなる効果が直ぐに表れることになった。
この内容は、直ぐに噂になって、権座組の文治に相談すると良いということになっていった。その後、様々な相談が寄せられ、近隣の婦人達が権座組の勝手場に出入りする様になっていった。
夕食時に、文治を訪ねて勝手場に居た婦人達が手際の悪い権座組の若衆連中から庖丁を取り上げ、手早く調理をしてやったり、濃いだけの味付けから調味料を節約しつつも旨味を引き出す方法に変える方法を教えてやったりする事があった。そうすると、若衆から婦人達の手際を率直に尊敬する言葉が出た。数か月前には、自分を見下しているとの自意識から、凄んでみたり、無用な手出しと拒否していたのだが、文治の影響で、良いものは良いと評価できる様に、若衆達は変わっていた。婦人達にとっては、大した事では無いのだが、そんなことでも褒められると悪い気はしない。結果として、文治を訪ねる以外の用事でも、近所の婦人達が勝手口からではあるが、権座組を出入りする様になっていった。
若衆は、婦人達が来る時には、素直に手早く美味しくなる調理を学んだ。時には、若衆が婦人の家まで行って教えを乞うといったことにまでなっていった。
当然、若頭や権座の耳に入ることになり、権座から婦人達に賄いの仕事を正式に依頼するということになった。このことで、若衆も若頭も当番の食事について悩む事から解放され、数日に一度、午後から仕事が手に付かないということが無くなっていった。
婦人達は、最初は、夕飯の惣菜を調理する手伝いだけだったが、文治への相談が長引いて、夕食の時間にまで掛かってしまう事も生じた。幸い、文治はいつも台所の勝手場に近い所だったので、婦人達は文治に給仕をしながら、相談を続けることができた。文治に給仕をする延長上に権座、若頭、若衆の給仕をすることになっていた。
そんな事が数日続くと、婦人達は順番で夕飯の給仕をしてくれる様になって、いつしか日常になっていった。
それでも、食後の食器の洗い物は、若衆の全員で手早く片付けることは続けられていた。当然の事ながら、調理時の屑や残飯は排水に流さないことが徹底されている。汚れた水が滞らない様にすることで運気が下がることを防止するためである。この事は文治の入れ知恵ではあったが、婦人達は甚く感心し、忠実に実行している若衆達は褒められて単純に喜んだ。
だが、婦人達は、夕食の準備を始める前に、昼食の食器が流しに放置されているので、洗い物から始めなくてはならない時があることを指摘し、固まった汚れが落とし難い事を理由に改善を求めた。
「あんた達、夕飯の片付けは真面目に手早く済ませるのに、お昼の食器が汚れたまま流しにほかってあるよ。長い時間置いとくと汚れが取れへんから、お昼も怠けずに食器を洗うんだよ。」
「姉さん、昼は忙しくって、朝飯の残りで自分達で準備して、飯を掻き込んだら直ぐに現場へ戻らなくちゃならねえんだから、洗ってる時間なんて無い時が多いんだ。」
「仕方ないねえ。そんじゃ、私達で昼ご飯を準備してあげるよ。」近所の婦人達は顔を見合わせて頷き合った。
「有難てえ。だけど、良いのかい、家の事が出来なくなってしまうんじゃないのかい。」
「おばさんの力を侮っちゃいけないよ。何十年もご飯を作ってきてるんだ、あんた達の20人や30人の昼ご飯なんて、朝飯前よ。」
「すげえな。そんじゃ、頼んます。」
そんなやり取りがあって、近所の婦人達が権座組の食事を賄うことになっていった。幼い子供を持つ婦人は子供を連れてきて、若衆と共に昼食を摂ったり、婦人の代りに娘が出入りしたりと、男臭い権座組が華やいだ店へと変わっていった。
それでも、夕食時は、婦人達が文治への相談という事には変わりが無く、また、相談事が無くても文治と話しをするだけの為に婦人達は集まって、色々な噂話や新しい時代の先行きが生活を変えていくことなどの話しに花を咲かせていた。
文治は、寺での読み書きを子供達にさせることの大切さを婦人達に分かり易く説明して、婦人達をその気にさせていった。
文治を頼りにするのは、婦人達だけではなく、権座、若頭や若衆連中、そして、かつて松風で共に働いた人足達も文治への相談をする機会は少なくなかった。また、近隣の店の者が文治に商売の相談をする事も多かった。その助言は、かなり的を得ていて特効薬になった場合も少なくなかった。そういった事情から文治が商売を始めれば、成功することが約束されていると、商売に誘うこともしばしばだったが、文治は誰の誘いに乗らなかった。貴族院の實小路との約束が全ての言い訳として使われた。半年先には洋行に同行する事を回答する約束となっているというものである。
そんな活動をして、師走の時期となっていた。實小路との約束の期限が近付いていることになる。権座組には、文治宛の歳暮が大量に届いて、一部は権座組の食卓に、また、一部は近所の婦人達の食卓を賑わせることになった。ただ、かなりの歳暮は文治が質草にしていた。文治は、歳暮を貰った全員に返礼の手紙を書いた。この手紙は、単なる礼の手紙だけではなく、夫々の相手に対して、今の課題とこの先推奨する対処方法を追伸として細かく書き込んだものであった。中には、返礼挨拶の何十倍もの追伸の文書が書かれたものもあった。
権座組に一通の書状が、宛先人他界の為、帰ってきた。差出人が途中書きで出されていたので、組の誰が出した物か分からなかった。権座は、この書状を開封し読み始めた。
初めの返礼の挨拶で、文治の物だと分かったが、思わず先まで読み進めてしまった。文治は、歳暮の礼を述べた後、もう直ぐ権座組の居候を止めることを伝えていた。そこから先は相手の商いの現状を細かく分析し、現在抱えている問題点を幾つか指摘していた。指摘の仕方が非常に具体的で、裏返せば、ほぼ行うべき事項が思い付く、見出せる事となると権座には思えた。
文治が、これ程迄に入り込んだ指摘をすることは、滅多に無い。宛先の者が他界したことで戻って来た書状なのだが、その宛先の店の者が引き継いで商売をしていることは確かで、どんな対応をしているのかを知りたい、行って見てみたい衝動に駆られる。
夕方になり、文治が帰ってきた。権座は、書状を差し出して、返送されてきたこと、差出人が書かれていなかった為に中身を改めたこと、返送されてきた理由が宛先の者が他界したことによるとの情報と共に、文治に返した。
「そうですか、三吉さんが亡くなりましたか。未だ、若いのに可哀想なことです。四十五では、隠居するにも早すぎると思います。」
十代の文治が四十五の者が若いと言うのは可笑しな話なのだが、権座は何の違和感もなく文治の感想を聞くことができた。
「文さん、これから三吉の店に行ってみねえか。未だ、夕食には早いし。」
「権座さん、これから三吉さんのお店に行くのですか。帰りは夜中になってしまいますよ。」
「・・・そんなに遠いのかい。」
「桑名ですので、馬を使って二時間半程です。往復で五時間です。」
権座は、二の句が継げなかった。
文治の書状は店の状況を詳細に分析したものであったことから、文治が店の問題と解決策を示唆するには何日もの観察を行うことが必要であった筈だ。往復五時間の桑名までの道を一人で走り回ったことになる。文治の行動力の凄さが思い知らされる。
暮の付け届けの数十名全員に返礼を書いていて、全ての礼状に何がしかの示唆を記述しているとすれば、文治が如何に労力を使っていたのか想像することさえ難しい。
「・・・文さん、明日の朝、行くかい。」権座は、やっとのことで、口にした言葉である。
「そうですね。では、そうしましょう。明日の出発時刻は、夕食の時で決めさせていただいて宜しいですか。少し、文を書かせていただきますので。」文治は、権座に書状を受け取ってもらった礼を言い、離れに退いた。
夕食には権座と配下十数名と文治が座って、近隣の婦人が配膳をするという、最近では珍しくない光景である。配膳が終ると、末席に座る文治の横に婦人達が給仕として座っている。食事が始まって、若衆が文治の周りに集まり始める。文治の話しを聞こうとする者達である。給仕をしながら、婦人達も文治の話しに耳を傾ける。という光景となる。
いつもは、若衆や婦人達の問いかけに文治が答えるということから、色々な話に広がっていくことが多い。だが、今日は、文治から話しを始めた。明日の朝早くに桑名へ権座と共に出掛けるという話しである。この名古屋に戻って来た理由の一つが三吉の消息を確認するためでもあって、三吉とは手紙でのやり取りや文治が桑名まで行ったりしていたが、三吉が他界したとのことで、明日の朝、桑名へ出掛けることを話した。
辰吉を含めた若頭の何人かは、三吉を知っていて、文治を迎え入れる切っ掛けとなった人物で、若頭達は、僅か1年も経っていないのだが、当時を振り返って三吉の人となりを褒めて、対する自分達の失敗を笑い飛ばす話しへと広がっていった。
翌朝、朝食もそこそこに文治と権座は、馬上、桑名に向かっていた。
途中、長島で馬を休ませている時に、文治は、権座に改めて東京へ行くことを決めたと報告した。既に、返ってきた書状には書いてあったので、権座は分かっていたが、面と向かって話しを聞くと、文治の意思が固いことが分かる。
「文さん、それで、いつ旅立つつもりなんだい。」
「はい、左義長が終りましたら、出発しようと思います。」
「なるほど、今年の土地神との別れと合わせて旅立つというところか。律儀な事だな。・・・・」それ以上、権座は言葉を継ぐことができなかった。言いたい事は山ほどある。
文治が居たことで、若頭連中が、既に親分を張れる程の度量を身に付けた事、近隣の婦人達と打解けたことが切っ掛けで権座も街の盟主に名を連ねる迄になっている事など、文治が居候を始める半年前に比べ雲泥の差となっている。権座組としては、理想以上の状態となっていて、文治に礼を言えば、語り尽せない程である。だが、未だ、学ぶことは多い。文治を手元に置いておきたい欲求は強い。
間も無く、桑名という所で、権座は文治に訊いた。「文さん、俺の桑名までの道行きを聞いてくれたくれたのは何故だい。」
「権座さん、大変申し訳ありません。実は、権座さんを試させていただきました。書状をご覧いただいて、権座さんが、どんな行動をとられるのか、ということです。結果は私の期待以上でした。」
「え、試しただあ。」
「はい、三吉さんが亡くなった事を知ったのは、書状の戻ってきた昨日です。昨日、組に帰ってきた時に、丁度、権座さんが書状を読まれている時で、辰吉さんから宛先他界で返ってきた書状を読まれていると聞きました。それで、多分三吉さん宛に私が出した物だと分かりました。そこで、書状を権座さんが読まれて、どの様な対応をされるのかを私なりに推測し、見させていただこうと考えた訳です。恐らく、三吉さんのお店の方々を気にされるだろうと。それが、直ぐに行くとおっしゃって、更には、この様な立派な弔問の手土産まで用意されるとまでは予想していませんでした。」
「で、試した理由は何だ。」
「はい、私が東京へ旅立つに当って、権座さんに三吉さんの様な方々を全員、様子を見ていただけないかと考えています。どこまでお願いしたら良いのかと迷っていました。今回の事で、全てをお願いしようと決めました。権座さんであれば、お願いしても大丈夫だろうと。」
「・・・文さん、酷でえな。文さんじゃなきゃ、ぶん殴っているところだ。」
「申し訳ありません。ご相談を先にすべきでした。私も思案していまして、今回の事で決意したものですから。書状をお返しいただいた後、夕刻まで色々考えさせていただきました。夕食では、途中から楽しい雰囲気となってしまって、切り出せませんでした。」
「しゃあねえな。」