尾張名古屋時代5
文治は、権座組に居候しながら、尾張、三河、美濃、北勢の地域の寺社を訪ね、寺子屋普及の交渉をして回った。
先ずは、権座組の近くにある寺社を訪ね、子供達に勤行に参加させる提案をした。朝のお勤めの両方に参加させるには、慌ただしい時間であるので無理としても、夕方のお勤めであれば、対応できる、むしろ、望ましいとの回答が得られた。住職としても仏の教えを説くことは、継続しての檀家確保と判断していた。
子供達に夕方のお勤めをする時の読経のために、自分専用の経本を持つ事が、子供達のやる気を出させるとして、経本を増やすことを提案した。だが、経本を得るための費用が無いこと、檀家に負担させるにも、経本が高額であることから、住職は難色を示した。
文治は、対案として、子供達に写経をさせ、その写経したものを自分の経本とさせるという提案をした。それであれば、経本自体を購入する費用が発生することは無く、紙と筆、墨の入手だけで済む。住職は承諾し、檀家の子供を集め、写経をさせることにした。
だが、今迄、筆を扱ったことなど無い子供達であるので、細かな文字を書くことなど到底できる訳もなく、大切な経本も仏間の畳や机も、墨で汚れ、三日で、住職から断念する連絡が来る始末。
筆を運ぶ練習をさせることが必須であることは明白であるので、その工夫をする必要がある。文治が書家を訪ねては聞いて回った結果、木板へ水を使って練習をするという方法を採用することになった。早速、数十枚の木板を携え、文治は住職の下を訪れ汚れが減って、乾けばまた使える教材で、先ずは筆運びを練習させ、一定の習熟ができたと判断してから、写経をさせるという説明をして、住職に承諾させた。
再び、子供達が集められ、筆運びの練習をさせながら、勤行もさせるという対応が始まった。二日程は、数名の子供は呑み込みが良く、墨と紙を使うことができる様になったが、それ以外の大半の子供達は、毎日、絞れる程に着物を濡らしていた。
そして、また、木板の上を滑らせるために、筆先が消耗して、筆が足りないという事態になってしまう。文治は、竹の先を繊維状になるまで割いてささらにしたり、藁先を束ねてみたり、端切れ布を使ったりと、代替えを提供して、子供達の練習が滞ることを防止していった。
そんな対応で、十日もすると、全員が或る程度筆を使える様になり、上手い下手はあっても墨を使って、写経を始められる様になっていった。子供達も、自分の書いた文字が自分の経本となって、坊さんと同じ様に経を読んでいるという達成感が得られ、互いに自慢し合うこととなった。中には、寺社の蔵書としても遜色が無い出来栄えの写本となった物もあり、寺側が引き取って普段使いに活用することになった。
この内容は、尾張の別院での集会で報告され、何社もの寺から見学に来たり、別院の住職が僧侶を伴って見学に来るということにまでになった。この状況に住職は鼻高々で、子供達への接し方も、上手く写経するための指導に熱が入り、更に蔵書が増える結果を招くことになっていった。
だが、紙の費用を捻出することが難しくなってきて、蔵書も充実してきた時点で、子供達への写経を無償で提供できなくなっていく。写経をする場合には、紙と筆、墨の費用をお布施とは別で求める様になり、大半の子供が自分の経本が行渡ったこともあって、読経以外は寺へ来る子供達は居なくなった。
文治は、別院や見学に来た他の寺社へ出向き、同じ様に檀家の子供達に写経をさせる事を提案して回った。しかし、実行段階で、紙や筆を自費で準備する段になると、資金不足で断念する場合が多くなってしまった。
対応として、郷士達の家を回って、寺社の経本蔵書を増やす活動に対する資金提供を依頼する提案をして、実際に文治が住職を伴って郷士を回ったり、時には、文治一人で郷士を訪問することもあった。
全てが、上手く回った訳では無いが、一つの地域が上手く回ると、隣接する地域でも寺社間で情報が伝わり、地域での競争意識を焚付ける様な話し方をすることで、徐々に子供達が写経をして、蔵書が増えるという地域が増えていった。
文治は、尾張の別院を訪ねた。文治の功績を把握している住職たちは、文治を快く迎え入れた。
「ご住職、尾張の真宗の各寺院では、子供達の写経による経本作成への取り組みが進んでいます。私としては、美濃の各寺院は、同じ取り組みが、し易いのではないかと思っています。と、言いますのは、美濃は紙の産地で、子供達へ紙を与えることが比較的容易になるのではないかと考えているからです。そこで、美濃の寺院をご紹介いただけないでしょうか。」紙の生産地である美濃であれば、紙の調達費用が安価で済むとの目論見である。
尾張の本山も、文治の意見に同調し、尾張でも美濃の紙を安価に分けてもらうことを期待するからであった。
「それと、同じ目的で、豊橋と鈴鹿の寺院もお願いしたいのです。各々、筆と墨の産地ですので、同じことが言えると考えています。」
「文治殿、豊橋には別院がありますが、鈴鹿には別院が無く、桑名か、宗派が少し違いますが津に大きな別院があります。鈴鹿を直接紹介するのは難しいですな。」別院の住職は北勢地域は、桑名か津の別院経由での訪問を求めた。
「分かりました。桑名の別院をご紹介ください。」
「文治殿、豊橋を紹介するのは構いませんが、その間には、岡崎や一色があります。そちらは、どの様にされるおつもりかな。」別院の住職は、間の地域を飛ばすことに懸念を示した。このことが後々、禍根を残すことになると判断したのである。
「その事については、ご住職にお願いしたいのです。別院のご住職の方々が本山に集まられる時期になっていますよね。そこで、今回の成果をお集まりになった方々へ大々的にお知らせいただきたいのです。ご住職を含めて、多くの寺院の方々が取り組まれようとされていると思います。この地域で展開されつつあることを他の地域でも実施されることを推奨するといった内容で、お知らせ願いたいのです。その中で、美濃、豊橋、鈴鹿、いえ、桑名の地域が有利に進めることができると、私が説明に伺うことにしたいのです。そして、他の地域へのご慈悲として、特産物を安価に別院の間、または、寺社の間で提供していただく様にお願いするということにしたいと考えているのです。」
「なるほど、確かに、間もなく本山へ出掛ける時期となります。拙僧が本山で説明することが先という訳ですな。分かりました、御仏の慈悲に、各地域の別院の僧侶達の心が動いてくれる様に、大々的に説明して参りましょう。」
「ご住職。無理を承知で、もう一つお願いがあります。」
別院の住職は、理路整然の文治の話しに、道険しくとも人心を導く仏への修行という気持ちになっていたことから、文治の無理な願いというのは、何でも聞いてやろうという気になっている。
「文治殿、何なりと申されよ。」
「ご住職、無理なお願いですが、宗旨の異なる寺院へも紹介をお願いしたいのです。」
住職は絶句した。真宗の中で異なる宗派への紹介は、本山でも話題にすることはできるが、宗旨の違う寺社との交流は、殆ど行われていない。確かに、尾張の中で、真宗の他に浄土宗、天台宗等が点在していることは知っている。数十メートル離れた寺院は浄土宗であるが、顔を合わせれば挨拶する程度である。そういった寺院への紹介をすることに本山を巻き込むことは容易では無い。
「文治殿、それは容易ではありませぬ。しかし、拙僧の修行の場を提供いただいたと、そのお申し出は、有難く拝聴いたします。」
言葉として、聞置くという意味は、やらないという意味として考えられる。
「いえいえ、文治殿、拙僧の申し上げるのは、必ずや紹介をします。ですが、紹介をする前に、異なる宗旨の方々と懇意になることから始めなくてはなりません。紹介は、その後となります。そうした道筋を辿りますので、拙僧の修行と申し上げたまです。」
住職は、文治の怪訝そうな顔を見て、慌てて、その意図を言い直した。
「分かりました。宜しくお願い申し上げます。」
経典は、写経されて、蔵書となっていったが、十分な量の蔵書が貯えられると、寺社は満足し、それ以上の子供達の受け入れは不要と判断する様になった。
それでも、写経をしたことで、子供達は知らずに読み書きができる様になっていた。
そうして、学んだ子供達の親への影響も少なくはなかった。坊さんに言われて、渋々子供を通わせた親が、子供の成長の早さを感じて、積極的に通わせる、学ばせる態度に変わった。そして、寺社が十分な蔵書となったことを理由に子供達の受け入れを止めると報じた時には、継続しての受け入れを求める親たちも少なくなかった。
「お坊さん、俺ん家で御触れが読めるのは梅吉だけだ。まだ、全部が読める訳じゃねえ。もう少し続けてくれねえか。」「家でも、和だけで、同じだ。もっと続けてちょう。」「ほうだな。続けてくれよ。」と、数軒の檀家が寺に集まって月参りをする度に要望が出ると、寺社としても対応を検討する様になる。
だが、郷士の善意も長くは続かない。檀家に紙の費用負担を求める様になると、檀家の寺社への要求も下火になっていった。
権座は、文治が活動している寺子屋の内容を子供達を通わせている人足の親達から聞いて知った。文治が居候になって2か月程経った頃である。夕食で話題にして、文治に内容を報告させることにした。
「文さん、人足達から聞いたんだが、文さんが寺子屋で子供達を教えているんだってな。」
「いえ、子供達を教えているんは和尚さんやお坊さんです。私は、お手伝いをしているだけです。」
「そうかい。ちょっと、そのお手伝いってやつを話してくれねえか。」
文治は、近所の梅葉寺での出来事を掻い摘んで話し、子供達の成長の速さを紹介したり、資金不足で継続が危ぶまれていることなどを話した。
「人足達から、寺で経を読んで、書く練習をさせていて、子供達が御触れを読めることに驚いたって聞いてる。何で、文さんは、そんな事をさせてるんだい。」権座は、率直な疑問を投げ掛けた。
「読み書きが出来る事で、自分で稼ぐ事を考える事ができる様になってきます。生活するお金が手に入れば、子供を身売りに出すことも無くなるでしょう。大人になってから文字を学ぶには、働く時間の他に学ぶ時間を確保しなくてはなりません。しかし、子供の時には、学ぶ時間を確保し易いので、子供の時に学んで欲しいと考えたのです。」
権座と組の者は、納得し、資金の調達の手助けについて話は言及していった。
その結果、梅葉寺では、蔵書が充実しても継続して子供達を受け入れることになった。権座組の資金支援も奏功したと言えるが、文治の考えに賛同した住職の度量で、自分達の食べる分を減らしてでもお布施を子供達の読み書きのために使うことを決めていた。、経典以外に故事の書籍、官制の写しなども取り入れ、その読みや内容も学ぶこととなっていった。




