尾張名古屋時代3
若頭の辰吉は、文治を連れて離れに案内をした。渡り廊下で繋がった部屋ではあるが、ほぼ納戸である。文治を迎えることを決めていたのか、一応掃除はしてあるのだが、長い間使われていなかったと見えて、床板が浮いてしまっている箇所がある。辰吉は明日には修繕をするからと詫びた。
文治は、育った家では普通のことだったので、全く気にならないことを伝え寝具や炭、火箸などの細かなことを確認した。
準備があるのでと、辰吉が戻って行ってから、文治は囲炉裏に火を起こし、手荷物を解き、衣紋掛けに衣類を吊るし、紙と筆を取り出して、手紙を書き始めた。2通程を書き終えた時点で、辰吉が夕食の準備が出来たことを告げ迎えに来た。
夕食は、座敷と台所のふすまを外して膳が30程並んでいる。膳の上には、焼き魚、お浸し、天ぷらが用意されて、大鉢には煮物が用意されている。
当番制で慣れているとはいえ、1時間少々で、これだけの準備をするのは結構な苦労が有ったことが伺える。
権座は、文治を横に座らせようとしたが、文治は居候で、新入りなので末席にすると、権座の招きを固辞した。固辞の仕方が、そこに居る者が納得のいく筋論だったので、権座も諦めた。文治が展開した筋道は、実際には、誇張や人情などを交えての内容だったので、論理のほころびを指摘されれば、成立しない内容だったのだが、筋道立てての説明に慣れてない者達には、反論のし様が無かった。
宴が始まると、それでも文治は一通り箸を付けた後、全員に酌をして回り、権座の右後ろで権座に酌をしに来る者達と話しを交わしながら、時折、権座へ酌をするという対応を行った。
その場に居る者達や権座には、文治が権座の求めに応じて横に居ること、若頭連中には、権座の次席の場所が認められていることの両方が満足できる状況となっているので、居心地としては、悪くない状況となっていた。
いつしか、権座と文治の周りに輪が出来、いつもならば30分程で若頭連中が席を立つのだが、給仕当番の若衆も加わって2時間もの夕食の時間となっていった。
権座が、切りを付ける宣言をしたので、夕食を終えることになったが、膳を片付けながらも、文治に声を掛ける若頭達が少なくない。文治は、応対しながら片付けの手伝いを始め、それに釣られて全員が片付ける作業をしていく。勝手場の流しで洗い物、食器の片付けをしながら、話しを続けるという事態となっていく。
当番で月に数度は全員が行っているので、誰も作業に戸惑うことは無かったが、普段ならば2時間以上も掛かる作業が30分もしない間に終わってしまったことに、誰もが少々感動を覚えた。黙々と作業をすれば、もう少し早く終わっていたであろうが、話しをしながらでも、大勢で片付ければ時折手が止まることがあっても早く終える、そんな当たり前の事に今更ながら気付くというものである。
誰言うともなく、驚きの声を上げた。「あれぇ、もう片付いちまった。」「本当だ。皆でやるとこんなに早えんだ。」「飯食い終わっても何もする事が無え事が多いんだから毎日皆でやりゃあいいんだ。」「それじゃあ、飯の支度も当番の人数を増やしゃあ直ぐにできちまうってことだな。」
その後、暫く勝手場で話し合いが続き、炊事当番の割り付けが見直された。
「文治さん。あんたが居るだけで、こうも違うものなのかい。」「俺たちぁ、文治さんと話しをする為だけに勝手場に付いてきただけなのに、こんなことになるなんて思いも依らなかったぜ。」若頭達の率直な感想である。
「いえ、私は何もしていません。私は食器の片付けをお手伝いしただけです。何時かは皆さんが気付かれる事が、たまたま、今日だったのでしょう。」文治は自分の行動を評価してくれた若頭連中に戸惑いながら答えた。
だが、そこに居た者は、文治が謙遜しているに違い無いと思い込んでしまうのをとめる事はできなかった。何しろ偉い貴族院の先生と知り合いで、人足達から尊敬されている者である。何も言わずに行動し、周りの者に気付きを与えることができる能力を持っていると。
翌日、文治は亀蔵を訪ねて松風の事務所に居た。番頭の和正と剛太以外は好意的に迎えてくれた。亀蔵を訪ねてきたことを告げたが、昨日と今日、亀蔵も、人足頭の吉次も休みを取っているとの回答で、それ以上の事は何も聞かず事務所を後にした。
荷役場では、荷量が目に見えて減って、かつての活気は失われていることが分かる。人足も竹佐組の者が減って、見たこともない組の作業着を着た者が作業をしている。これでは、顧客の信用が益々減ってしまうのだろうと文治には思えた。
通用門を出て、暫く歩いた所で、文治は警官が集まって何やら指示をしている場面に出会った。何か大捕り物でもあるのだろうと、その横を通り過ぎた時に、誰かが声を掛けてきた。
「文治さん、今日は。」警官の人垣を縫うように一人の警官が出てきた。なんと、亀蔵である。
「あれっ、警官の服なんか着て、どうされたんですか。」
「実は、私は警官でして・・・」「亀蔵、出発するぞ。第4機動隊出発、」
何の話もしない内に、出発の号令が掛かって、警官達は走り出してしまった。警官達は松風の通用門から、次々に中に入って行った。
中から怒号が響き、数分間大きな音がしていたが、直ぐに静かになった。通用門から捕縛された和正を先頭に、見知らぬ作業着を着ていた人足達が連なって出てきた。その後、大門が開いて、車に荷物を乗せ、数名の警官が曳いてくるのだが、その車を曳く者の一人が警官の服を着た吉次である。
文治は、亀蔵や吉次が警官の服を着ている事も驚きだったが、松風の中で捕り物が行われたことが更に驚きだった。
警官達は、黙って文治の前を通り過ぎていった。文治と同様に剛太も通用門の脇で呆然と警官達を見送っていた。何が起きたのか理解できないという風に。
街の噂は直ぐに広まった。清国から阿片を持ち込んで、廓に流す手助けを松風がしていた。それを警察機動隊が取り締まったということである。それから暫くして、松風は店を閉めた。
数日して、権座組へ亀蔵と吉次がやってきた。警官の制服を着た二人が入ってくると、その場に居た者達に緊張が走った。何も取り締まられる様な事はしていないのだが、人足達は因縁を付けて殴ったり、小銭を巻き上げたりする警官が少なくない時世であるので、組の者達への難癖付けをしに来たのではないかと構えた。
「おう、源太、久しぶりだな。」「あれえ、吉次さんじゃねえか。何だよ、警察の格好なんかして、驚いちまったじゃねえか。」店先に居合わせた源太に吉次が声を掛け、警官が、かつての人足頭をしていた吉次と同じく亀蔵であることを知って、店の緊張が解けていった。
「親分居るかあ。それと、文治さんがいるんだろう。ちょっと話しをしたいんだ。」
若頭が権座と文治を呼びに行き、権座が出てきた。
「おう、亀蔵、そっちは吉次さんだったな。大捕り物だったらしいじゃねえか。まあ、上がってくれ。文さんは、もうじき帰ってくる筈だし。」
権座は、文治を文さんと呼ぶ様になっていて、組の者達も真似て、文さんと呼ぶ様になっていた。権座は、警官姿をした二人に何の驚きも無く接し、奥へ招き入れた。店先に居た人足も若衆も驚きを隠せなかった。
権座の言葉通り、直ぐに文治が戻って来た。店番をしている若衆が文治に亀蔵達の来客を告げると、文治も座敷へ向かっていった。
座敷の襖を開けると、権座が難しい顔をして二人と睨み合いをしていた。
「おう、文さん。ここへ。」権座は文治を手招きして、自分の横に座らせた。
「亀蔵さん、吉次さん、今日は。先日の捕り物では、御顔を拝見する程度でしたので、何が起きているのか全く分かりませんでした。帰って来てから権座さんに理由を伺って、ようやく分かりました。お二方共に密偵をされていたのですね。松風でご一緒していた時には、全く分かりませんでした。」
「文さん、今日、二人が来たのは、難題を押し付けに来やがったんだ。」権座は苦虫を噛み潰した様な顔をして、文治に話し始めた。「こいつ等、今回の事で面が割れちまって、密偵をできなくなったって言うんだ。それでな、俺ん所の誰かを密偵にしろって言いやがる。無茶苦茶な事だって言ってやってるんだ。」
「いや、親分。密偵なんてことでは無くて、若衆が行っている廓の女郎達から話しを聞きだしてもらうだけで良いんです。今回大量の阿片を押収する事ができましたので、手に入らなくなっているでしょうから、ちょっと、今回の捕り物の話題を出せば、女郎が知っている範囲のことが聞こえてくると思います。それを、聞かせてもらうだけで良いのです。」吉次は権座の誤解を解こうと色々な説明をした。
「分かった。女郎と遊ぶ若衆達に話しをさせて、阿片についての話しは報告させる様にする。だが、それだけだぞ。それ以上の話しを引き出させるには、命懸けのことになっちまうんで、危ねえ橋を渡らせることは無しにしてもらう。それで良いんだな。」
権座も過去には危ない橋どころか、死線を潜り抜けている。そこで失ったものについては語ろうとしないが、反面教師として今が在り、そうした行為をさせないための組の運営を志としている。密偵ではあっても、1年以上権座組に世話になった亀蔵は、そのことが痛いほど分かっている。それでも敢えて頼みに来て、権座を説得しているのであるから、それだけの意味を持っていることを示している。
「有難うございます。女郎から集めた情報は、この亀蔵が毎日聞き取りに来ます。」
「おう、亀蔵。毎日来るんなら、その制服は止めておけ。人足の格好をしろとは言わねえが、目立たねえ方が良いんじゃねえのか。」
「親分。ご心配有難うございます。その様にします。」
「さて、文治さん。」吉次が、文治へ向き直って正座し、畳に額を擦り付ける程お辞儀をした。亀蔵もこれに倣って同じ様にお辞儀をした。
文治は、何が起きたのか分からず、思わずすがる様に権座を見た。権座も、訳が分からず文治を見返した。
「文治さんの御蔭で、こんなにも早く阿片の蔓延を防ぐことができました。あと1年遅れていたら、この地の廓も清国と同じになっていたことでしょう。」吉次は、声を震わせながら、それだけ言って、下を向いて黙ってしまった。
亀蔵は、吉次に代わって説明をしてくれた。
吉次の姉は、吉次が幼い頃に売られていって、行方が分からなかったが、数年前に奇跡的に再会し、廓に居ることが分かって、身受けのために吉次は必至に働いた。ところが、姉が阿片で縛られ、昨年、自らの命を絶ってしまった。自殺する数か月前は、幻聴や吉次さえも分からない様な状況になってしまっていた。その頃には、女郎として店に出ることも無く、牢に閉じ込められていたらしい。そんな状況は、清国の至る所に見られるという事を聞いて、阿片への人一倍の憎悪と姉の様な者を出さないこと、清国と同じになる前に止めるという使命で松風で人足として密偵をしていた。だが、人足達は言われた事を単にこなすだけで、阿片の手掛かりは全く得られないままだった。
そんな折に、文治が番頭として来てくれて、荷役を楽にする方法を人足頭や人足達と考える様になり、怪しい荷を容易に見つけられ、人足達が異常な荷を報告してくれる迄になって、阿片の動きが丸見えにする事ができた。という事だった。
だが、未だ阿片を一掃できた訳では無い。廓での情報を集めたいが、捕り物に参加した二人では、顔が見られてしまっているので警戒され、廓に入ることさえも容易ではない。そこで、廓での情報を集める方法のひとつとして、血気盛んな若衆が廓へ行き、女郎達の話しを集められる権座への頼みとなった訳である。
売られていった姉という箇所では、同じ思いをした文治にとっては、心揺さぶられるものがあった。
「私は、皆さんが楽に仕事ができる様にすることしか考えていませんでした。ですから、吉次さんに深々とお礼をされるというのは、筋違いです。」文治は、吉次が礼を言う理由は分かったが、結果として、吉次や亀蔵が、それを利用しただけのことなので、礼には及ばないと考えている。
「ところで、亀蔵さん。あの捕り物で、顔が覚えられているので、廓へは行きにくいと考えられているのは何故ですか。直前に荷役場に入りましたので覚えていますが、捕縛された者以外では、竹佐の人足さんが数名と事務所には、番頭の方々と事務員の女性が数名だったと思います。」
「文治さん、それは私から話しましょう。」吉次が顔を上げて言った。
「私が密偵をしておりますのは、私の里が甲南でして、村は忍びの里の一つだからです。そして、既に時代遅れになっているのかもしれませんが、8歳まで、実際に忍びの訓練をしてきました。その忍びとしての感覚で、監視されていると判断しています。今日も親分の所へ来る時に、それを感じました。」
「おい、それじゃあ、屋敷の中にも間者が入り込んでいるんじゃねえのか。」権座が床の間に飾ってある指物に手を伸ばしかけた。
「いえ、未だ大丈夫の様です。私と亀蔵の行動を監視しているだけの様で、細かな内容までは報告していない様です。ここ2日間、監視され続けてきましたが、細かな会話までは聞かれていないと判断しています。監視され続けていることを本部で話しをしましたが、監視のされ方は変わっていませんので。」
「それなら、吉次さんよ。あんた、竹佐の紹介での人足だったな。この後、竹佐へも寄ってから帰りなよ。権座の所だけに来たとなると、細かい会話まで監視しに来るかも知れねえからな。そうだ、店先で一芝居打つか。」
権座は、柏手を2拍手し、若頭の辰吉を呼んだ。
「辰吉、これから警察の旦那衆がお帰りになる。お前は、店の外まで案内して、大きな声でこう言うんだ。旦那方、ひと月も前に手を引いたんで、今では一切の関係が無いんで、すいませんが、もう来ないでください。お願いします。とな。」
「えっ。親分、もう亀蔵とは会えねえんですかい。」辰吉は、言わされる言葉を真に受け、心配をした。
「たわけ、今回は亀蔵が来たが、違う警官が来て欲しいのか。警官なんてものは面倒で仕方がない。制服の警官には、もう来るんじゃないってことだ。」
「なんだ、制服じゃ無ければ会えるんだ。へい、分かりました。じゃ、お二方、どうぞこちらへ。」
警官の制服を着た二人は帰っていった。