東京時代9
藤神は、文治を連れ、屋敷に戻った。藤神を出迎えたのは、仲居の冬美である。運転手を務めた梅吉とは夫婦である。
「旦那様、お帰りなさいませ。こちらが文治様ですね。ようこそおいでくださいました。」
冬美は深々と頭を下げて迎え入れた。これに応えて、文治も挨拶をした。
「お世話になります。文治と申します。二週間と短い間ですが、宜しくお願いします。」
「冬美。文治君を部屋に案内してやってくれ。儂は和江に用があるからな。」
藤神は、實小路家で聞いた由井の話を和江に伝えたくて仕方がないと、文治を冬美に押し付けて調理場へ向かっていった。
「まあ、なんてことでしょう。御主人が、あの様な事になるなんて、今迄一度もありませんです。文治様、どうぞ、お気を悪くなさらないでください。ともあれ、お部屋にご案内致します。どうぞこちらへ。」
「あ、すいません。お名前は何とおっしゃいますか。それと、宜しければ、こちらのお宅の方々についても、教えて頂けると有り難いのですが。」
「えっ、私ですか。冬美と申します。運転してきましたのは、私の夫で梅吉です。お部屋に荷物を置かれまして、その後で、家の中をご案内しますので、その時にでも、こちらの者、御主人様のご家族についても、お話ししましょう。」
「そうですか。冬美さん、宜しくお願いします。」
横に立っていた梅吉は文治の荷物を持って、文治の部屋迄運んできてくれた。
文治に与えられた部屋は、畳敷きの6畳で、机と座布団が用意されているだけだった。天寿には、電灯が付いていて、夜間の読み書きも可能である。
「ちょっと手狭かも知れませんが、こちらをお使いください。何か要る物がありましたら、おっしゃってください。荷物の整理を為さいますでしょうから、少ししましたら、また来ます。」
そう言って、冬美と梅吉は出ていこうとした。
「あっ、冬美さん。荷物の整理は後程行いますので、御屋敷をご案内頂けますか。」
「まあ、そうですか。では、参りましょうか。」冬美は、先に立って歩き始めた。
「あなた。私がご案内するから、お部屋に戻っていても良いわよ。」冬美は、梅吉にそう言って部屋に行かせた。
隣が冬美と梅吉の部屋である。手洗い、風呂、大広間、台所、炊事場と行った所で、藤神が和江を捕まえて熱弁を振るっているところだった。
「今晩は。今日からお世話になります文治です。宜しくお願いします。」
藤神が、和江に対して一方的に話をしている間を縫って、文治が和江に向かって頭を下げた。和江は、真剣に藤神の話を聞いている呈だったが、文治が挨拶をしたのを機会に、文治に向き直って、笑顔になって言った。
「あ、文治さんですね。和江です、宜しく。」
話の腰を折られて、藤神は黙ってしまった。そして、文治の方を向いて、「文治君。後で私の部屋に来たまえ。」そう言い捨てて部屋へ戻っていってしまった。
藤神が出て行った事を確認してから、和江は文治に話した。
「良い所に来てくれたわね。御主人はワインについて、一度話し始めると長いのよ。話の概要は初めに話し終えるのだけど、その後が用件以外の事なんかを延々と言われるもので、私の仕事が停まっちゃうの。あのままだったら、後10分は話を聞かされていたわね。でも、文治さんが挨拶してくれたので、終わって良かったあ。」
「和江さん、毎日の料理は、和江さん御一人で用意されているのですか。」
文治は、炊事場の広さから、3,4人が料理作業ができると思えて訊いた。
「えっ。ああ、私は料理人じゃないの。でも、殆どの料理は私が作っているけど。そこの冬美さんが手伝ってくれたり、曜日で通いの料理人の加納さんが来てくれたりしてるけど。」
「そうですか。かまどの薪が見当たりませんが、どうされているのですか。」
「へっ。ああ、勝手口を出た所に積んでありますよ。文治さんは、薪を使うんですか。」
「いえ、お邪魔するお宅では、かまどの近くに薪が置いてあることが多いので、こちらの炊事場の景色が違うと思えたものですから。そうすると、炭なども同じ様に外なのですね。いえ、お借りする部屋で火鉢を使いたいと思っています。炭を足す時に、場所を聞いておこうと思いましたので。」
「ああ、そうですか。炭も薪の横に、袋に入ってます。でも、言ってもらえれば、私や冬美さんが準備しますよ。ねえ、冬ちゃん。」
「そうですよ。お客様に炭を足すことなんてさせませんよ。」と冬美が応えた。
その時、和江が聞き耳を立てた。女性の声が聞こえる。
「はーい。」和江は、大きな返事をして、飛び出していった。そして、直ぐに戻ってきて、
「冬ちゃん。奥様が、コロが居なくなったって。後で、探すの手伝って頂戴。じゃ、探すから。」
そう言って、和江が出て行った。
「あの、コロというのは、何でしょう。」文治は、冬美に尋ねた。
「コロというのは、奥様が可愛がっている犬です。御主人方が海外へ旅行された際に、香港で手に入れられたとかで、お座敷で飼われているのです。でも、時々、居なくなって大騒ぎになったりするんですよ。」
「そうですか。藤神さんには、お子さんはいらっしゃらないのですか。」
冬美は肥をひそめて、「御主人が幼少の頃に患った熱病で、子種が無くなってしまったんですって。だから、子供は居ないのよ。」と、事情を説明した。
「そうですか。こちらの御屋敷には、他に、どなたがいらっしゃるのですか。」
文治は、實小路が言っていた英語を話せる使用人が未だ居ると思って訊いた。
「うーん、通いで沙菜ちゃん、光三さんが来るわね。さっき、和江さんが言っていた加納さんの他には、庭師や獣医さんが週に一度来るけど。沙菜ちゃんと光三さんは夕方に帰ったから、今は居ないわね。」
「そうですか。英語が話せる使用人の方がいらっしゃると伺ったのですが、どなたでしょう。」
「英語・・・。あ、それなら和江さんね。御主人方が旅行に行かれた時に和江さんも一緒されたから。旦那は外人だけど、異国の言葉なんか使っている所を見た事無いわね。」
いついか、冬美の言葉から丁寧語が消え、井戸端会議で使う言い方になっている。噂話をする様な状況が、そうさせたのかも知れない。
「こちらが、お座敷で、奥の納戸部屋が奥様とコロの部屋です。御主人は、離れに書斎を設けてあって、そちらに居らっしゃる事が多い様です。離れも、3部屋在って、お客様によって、離れで応対されたり、お座敷で応対されたりと分けていらっしゃる様です。・・・あっ、コロ。コロ、コロ、こっちへおいで。」
冬美は、庭先で地面の臭いを嗅ぐコロを見つけて呼んだ。すると、奥から女性が飛び出してきて、裸足のまま庭先に下りると、コロを抱き上げた。そして、足の冷たさに気付いて、また、小走りで縁側に上がってきた。
「冬美、ありがと。」とだけ言って、納戸部屋に篭ってしまった。
中から、コロに向かって掛けている声が聞こえる。冬美と文治は、顔を見合わせて苦笑した。
「冬美さん。ご案内、有難う御座いました。後、火鉢だけお借りできますか。取り敢えず、藤神さんに呼ばれていますので、このまま、藤神さんの書斎に参ります。」
「では、お部屋に火鉢をお届けしておきますね。」そう言って、冬美は戻っていった。
文治は、一旦、庭に降り、渡り用の下駄の音を鳴らしながら、藤神の居る離れへと行った。離れは、冬美の言った通り、3部屋を備えるだけあって、結構な大きさである。玄関も有り、手洗いも有る、廊下が有って、全ての部屋に扉が有る様子は、小さな板張りの洋館と言っても良い程である。
灯りの漏れている扉の前に立ち、文治は声を掛けた。「文治です。藤神さん、居らっしゃいますか。」
中から椅子を動かす音がして、扉が開いて藤神が文治を手招きした。招かれるまま、文治は藤神の書斎に入っていった。
「文治君、そこに腰掛けてくれたまえ。」
藤神の書斎には、實小路よりも蔵書が多い。和文ではない書籍も、かなりの量である。6畳程の部屋で窓側に机が置いてある。他には、書棚が置いてあって、8割程が埋まっている。
「文治君。我が家には實小路家程の使用人は抱えてはおらん。従って、實小路の研修の話が有った時も出さなかったというよりも、出せなかったと言った方が良い。白井などが効果を口にする程であるので期待をしておるが、一体、どうすれば良いのだね。使用人達には、君が二週間、我が家の客として泊まるという事以外は、何も言っとらん。」
「はい。私も何をすれば良いのか、今は、全く分かっていません。何かご期待されるものが有りますでしょうか。私としては、和江さんに英語について、御教授いただける事を期待しておりますが。」
「おう、そうであったな。君は英語を学ぶ事を望んでおったのだな。宜しい。過剰な期待をするものでも無いのであるから、取り敢えず、君が英語を学ぶということで進める事にしよう。」
「有難う御座います。和江さんから、英語についての御指導を頂く事にします。」
「文治君。英語なら和江より、妻の幸子の方が得意だぞ。妻から学んだらどうだ。」
「えっ、そうなんですか。宜しいのですか。」
「まあ、本人が承諾すればの話だが、私は一向に構わん。今日は、休みたまえ。明日、我が家の紹介をしよう。」
「はい。それでは、失礼します。」
部屋に戻った文治は、隣室の冬美に礼を言って、少し書き物をして、荷を一部解いて、就寝とした。
翌朝は、和江が文治を起こしに来た。流石に、昨日までの強行軍で疲れた文治は、呼びに来られる迄、床に就いていたままだった。
「あれ、和江さん。お早う御座います。」
「随分と良く寝てたわね。枕が変わると寝られない、なんて人も居るのに、他人の家に来て初日から、ぐっすりとは、驚いちゃうわ。」
「はは。殆ど、根無し草の様な生活でしたので、どこでも良く寝られるのです。ところで、今、何時ですか。」
「8時半よ。片付かないんで、早くご飯を食べちゃってね。」そう言って、和江は出て行った。
文治自身も、毎日の起床時間に比べて、約2時間も長く寝た事に驚いた。考えてみれば、東京へ来て3日目に、かなりの強行軍で、四日目の朝である。疲れが有っても仕方がないのかも知れない。
一人、食堂で朝食を摂り始めた文治は、給仕をしてくれる和江に話し掛けた。
「和江さん、少しお話しを伺っても良いですか。」
「文治さん、何でしょう。」
「これから二週間、お世話になるのですが、お願いしたい事ができた場合には、事柄によって、和江さんにお願いするのが良いのか、冬美さんにお願いするのが良いのかを知っておきたいと思います。食事の準備意外の分担は、どの様にされているか、お伺いできますか。」
「特に、分けてませんよ。御主人も奥様も、二人のどちらかの最初に見つけた方に声を掛けられますから。」
「そうですか。今日は、私一人の余計な朝食の御給仕に、お付き合いさせてしまって申し訳ありません。いつもなら、6時半過ぎには起きるのですが、寝心地が良かったからかも知れませんが、寝坊してしまいました。」
「いいのよ。丁度、洗濯も一段落したし、御主人の今日の予定では、出掛けられないことになっているので、一日、書斎に篭っていらっしゃる筈だから、時間は有るの。でも、文治さん。毎朝6時半起きなんですか。御主人は7時頃に起床されますので、朝食は7時半頃となる様に支度をしていますが、文治さんの時間に合わせて、7時頃には朝食が食べられる様に準備をすることにしましょうか。」
「いえ、7時半で構いません。朝は、書き物とか、散歩をしますので。」
「そうですか。では、その様にします。」
「ところで、和江さん。和江さんは英語が堪能と聞いています。奥様は、それ以上とか。実は、こちらにお邪魔しているのは、今夏に藤神さん等7名の方々が洋行されるのに同行するに当たって、事前に英語を学ぶためなのです。」
「へー、そうなんですか。確かに私は、普通の話し位は、できます。奥様は、欧州の高貴な方々と冗談を交えて会話をされる程で、あちらの国の習慣なんかも分かっていらっしゃるのです。そのためか、英語の方が日本語よりも合っていらっしゃるのではないかと思ってしまう程です。」
「そうですか。私の様な書籍で学んだだけの者では、奥様に英語の教えを請うには、十年早いといった事でしょうか。」
「そうねえ、奥様は気難しい所もあるから、或る程度できる様になっていないと、飽きられて、突き放されてしまうかも知れないわね。・・・・じゃ、私が先生になってあげるという事にしましょうか。」
文治の話しから、そういうことを望んでいることが分かるので、和江は、自分から提案した。
「宜しくお願いします、和江先生。」
「えーっと、英語の先生の時は、ナンシーと呼んでもらおうかな。それで、何時から始めましょうか。」
「先ずは、藤神さんに朝のご挨拶をしまして、和江さん、いえ、ナンシーさんから授業を受ける事を報告します。その後から始めるということで如何ですか。」
「はい、分かりました。じゃ、後程。声を掛けてくださいね。文治さんの部屋の向かいに居ますから。」
文治は、言った通り、藤神の部屋を訪れ、和江との会話を報告した。
「ふむ。まあ、良かろう。そうだな、文治君を家内に紹介だけは、しておくか。今日は、沙菜も光三も来る日なので、来たら文治君を紹介するとしよう。」
半分、独り言の様に言って、藤神は立ち上がり、文治を従えて、母屋へ歩いて行った。
「幸子。居るか。」座敷の奥からコロを抱えた夫人が出てきた。
「なあに。」
「お前に、文治君を紹介しておこうと思ってな。こちらが文治君だ。二週間、我が家で英語を学ぶことになった。和江が、文治君の相手をしてやる事になっておる。お前には、特に何も無いと思うが、取り敢えず、紹介しておく。」
「文治です。幸子さんの方が、英語に長けていらっしゃると伺っていますが、全くの初心者ですので、和江さんに、お手数を掛けることになりました。宜しく、お願いします。」
最初に、藤神が言った、和江が教えるという言葉に、幸子の表情は明らかに不機嫌になっていたが、初心者相手ならば、和江でも十分であることを伝えた事で、仕方なしとの表情に変わった。
「和江さんでは、お分かりにならない事が出てきましたら、申し訳ありませんが、幸子さんにお伺いすることも有るかと思います。その節には、御教授をお願いできますでしょうか。何しろ、藤神さん達と洋行するに当たっての学習です。政治や軍事についても学ばなければなりません。恐らく、そうした事については、和江さんでは難しいかと思っています。」
高度な事項は、自分が頼りである事を聞かされて、幸子の表情は和んだ。
「そうね。渉外となったら、和江じゃ無理ね。ふふ、困ったら、何時でも訊きにいらっしゃい。」
幸子は、得意分野で自分が頼りにされる事に気を良くした様子になった。
「あなた。今日は、コロを連れて出掛けてくるわ。」
幸子は、コロを抱えて、梅吉を呼びに向かった。
「おい、文治君。君は、幸子の機嫌を取るのが上手いな。いつもなら、膨れっ面をして、奥に篭ってしまう。今日は、上機嫌で出掛けると言う。何が、違うんだ。」
文治には、藤神が普段、幸子と接している風景が思い浮かぶ様であった。
「藤神さん。幸子さんは、お気持ちを直ぐに表情に出されます。その表情から、どの様なお気持ちなのかを考え、その理由を考えれば、どの様に接するべきなのか判断することは、難しい事ではありません。」
「ふうん。そんなものか。それで、さっきの幸子は、どんな風だったんだ。」
「幸子さんは、気位の高い方なので、私が和江さんから英語を学ぶという事に対して、何故自分からでは無いのか、自分の方が優れているのに、と思われた様で、お気持ちを害した様でした。そこで、私は初心者ですので、幸子さんの御手を煩わせる迄もなく、和江さんで十分である事をお知らせしました。そうすると、少し、お気持ちが和まれた様でした。
その後、私に求められる英語力が、藤神さんを始めとして7名のお歴々と政について学ぶ事にまで及ぶ事になりますので、その部分については、幸子さんを頼らなくてはなりません。最後の砦は、幸子さんで、頼りにしていることを申し上げました。
幸子さんは、御自分の位置付けが高位で、そして、頼りにされている事を感じ取られた様でした。それだけの事です。」
「ふーむ。そんなものか。」
藤神は、文治の説明を理解はしたが、自分には難しいかも知れないといった表情をして、自室へ戻っていった。




