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尾張名古屋時代2

辰吉に連れられて再び権座組に戻った文治を待っていたのは、組長の権座と

その配下の若頭連中だった。文治にしてみれば、初見では無いのだが、組の

者達は初めての客を迎え入れるといった風に、文治が入っていくと深々と礼を

して迎えた。「今日は。いらっしゃいませ。」若頭達は口々に言った。

そして、顔を上げて、文治を見て、全員が驚いた。「あれえ、いつぞやの粟餅

持って挨拶に来た若造じゃねえか。」「三吉の知恵袋っていうから、余程、

偉そうな御仁かと思ったぜ。」若頭達は、拍子抜けしたとの思いが見え見えで

先程までの緊張した雰囲気は霧散している。

「辰吉、ご苦労。さあ、文治さん、上がってくれ。辰吉から聞いて驚いてる

ところだ。あんたが三吉の知恵袋だったってな。そんな事も知らずにこの前は

ご無礼をしたな。」権座が前に出てきて言った。

文治は、三吉が権座組では特別視されていたことを知って、驚いた。確かに

人足達からは信頼され、人足達をやる気にさせ、自分で考える習慣付けをして

三吉のやり方を覚えて、他の人足に教えられる程に育った者も居る。その事を

紹介業の権座組が把握していることが、驚きだったのである。

普通の紹介業であれば、頭数の過不足については気を遣うが、余程の出来が

悪い人足の場合の手当のし直し以外は、関与しないことが多い。だが、権座組

では、人足達の働き具合まで把握していると思われるのである。

文治は、座敷で権座と数名の若頭達と話しをした。三吉が人足頭として働いて

いたことを権座は知らなかった。

しかし、紹介先の評判はすこぶる良く、夕方戻ってくる人足達の中で、三吉と

共に働いている者は、上機嫌で入って来て権座や若頭よりも三吉の周りに

集まって、報告をし合う事が頻繁に起きていた。

彼らの話しは、権座や若頭連中には、さっぱり理解できない議論で、それが

人足達と三吉の間で繰り返されていた。

権座や若頭連中は三吉と膝詰めで、彼らの話しの内容の説明を求めて、様々

な人足達への配慮が分かってきた。そして、三吉の説明の端々に文治の

名前が出てくるのである。即ち、三吉の知恵袋が文治であるということを

示す。そうすると、当然、権座や若頭連中は、文治に会ってみたい、話しを

聞いてみたいと思う様になり、松風の番頭の文治という人を招きたいと考え

ていた。

その矢先に、松風の仕事で人足が大怪我し、松風から人足達を引き上げて

しまうという事態となって、その思いは叶えられないままとなっていた。

そこへ、文治が訪ねてきたのである。権座も若頭連中も、これを逃す手は無い

と考えることになる。それなのに、若頭の一人なのだが、辰吉は、そのまま

返してしまう対応をしたのだから、権座は辰吉を酷く叱った、直ぐに連れて

くる様に指示したという状況だった。

「さあ、文治さん、上がってください。」辰吉は権座の機嫌を損ねない様に

文治を権座の思いに合う様に行動してもらう為に泣きそうな声で文治の袖を

引いて促した。

文治としては、三吉も気になるが、亀蔵や三吉に育てられた者達の去就も

気になっていたので、話しが聞けるのならと進んで権座の後を付いて座敷へ

向かった。既に、一度来ているので、主だった間取りは分かっている。

「すいません、厠を使わせてもらいます。済みましたら、座敷へ参ります

ので、そちらでお待ちいただけますか。」文治が途中で用足しに行く事を

告げると、辰吉は文治を逃がさないとでもいう風に、文治に付いて厠へ来る

ので、文治は、厠の場所も座敷の場所も分かっていることを告げるのだが

用足しが終って、座敷に入るまで従者の様に付いて回ってきた。

「辰吉さん、逃げやしませんよ。変な人だ。」

用足しを終えて座敷に入ると、権座が一人廊下を向いて座り、他の者は全員

権座に向かって座るという訓示をする様な隊形で待っていた。辰吉は廊下

から直ぐの所に座ったので、文治もその横に座ろうとした。

「文治さん、ここへ。」権座が、文治を手招きして、権座の真正面の座布団

を指差した。

文治は臆する事も無く、若頭達の外を回って権座の指定する場所に座った。

「お待たせしました。文治です。」

「済まねえな、呼び戻しちまって。三吉が、あんたを事ある毎に引き合いに

出して、上手えことをやれてるのは、あんたが教えてくれるからだって言っ

てたもんでな、一遍、話しを聞いてみてえと思ってたんだ。松風のとこは

俺の紹介する人足達を引き上げてから、左前になって、多分、もう長くは

商売できねえだろう。あんたも、見切りを付けて辞めちまったんだろ。」

「いえ。辞めた理由は、松風さんが人員整理をすると言われましたので、

他の方が無理に辞めさせられるよりは、たった私一人ですが、先に身を引き

他の方が少しでも仕事を続けられることを期待したからです。結果的には

その様に思われても仕方がない事になってしまいました。」

文治は、権座の様々な問いに答えていった。三吉を選んだ理由から人足達に

考えさせる事に成功した経緯、先日の人足を殴る若頭の確認訪問に至った

経緯等を脚色することなく事実を述べていった。

人足達に自ら考え、行動させる件では、権座のみならず若頭連中も身を乗り

出して聞き、納得の表情となっていった。この若者が人心をつかむことに

長けている事、本心から人足達の自立を望んでいることが、権座組の方針と

合致しているので、文治の説明や考え方に共感することになった。

「ところで、松風を辞めてから、暫く時間が経っているが、どうしていた

んだい。」率直に、権座は聞いた。権座の予想は、里帰りをしていたと

思っての質問だった。

「松風の時にお世話になりました貴族院の實小路さんへご挨拶に東京へ

行ってまいりました。」

若頭連中の中にどよめきが起きた。この若造が貴族院の議員と顔見知り

であるということなど予想もしなかった。益々、若頭連中は、文治という

人物が特異な者であると感じることになった。

「で、その貴族院のお偉方には、何て挨拶に行ったんだい。」

人足達の仕事を楽にするために倉を空けたかった事、長期の滞留在庫が

實小路の持ち物であった事、實小路が気前良く所有権を放棄した事、その

処分代を寺子屋支援に充てるつもりだった事、松風が処分した売り上げを

会社の収益にしてしまった事を掻い摘んで話し、所有権放棄の結果が役に

立たないものとなってしまった事を詫びるために挨拶に行ったことを

話した。

「その貴族院の先生も太っ腹な御仁だな。」権座は、實小路をお偉方から

先生、御仁と呼び直し、敬意を示した。「それで、文治さんよ。これから

どうするつもりだったんだい。」

「私が辞めた後の人足の方々が、どの様になさっているのか気になりまして

お訪ねしようと考えています。ただ、お困りの場合でも、ご協力できる事は

私だけでは微力でしかありません。助言を差し上げるのが精々なのですが。

もちろん、権座親分の配下の方々には、その様な事は無用かと思います。

それ以外の方々をお訪ねしようと思っています。」

「ふーん。文治さんよ、今、どこに住んでいるんだい。」

「松風を辞めましたと同時に長屋を引き払いましたので、今は定まった場所

を持っていません。里帰りされた方々をお訪ねすることもありますので、

旅先では寺社を頼ることになるかと思います。」

「ここ尾張の地では、どうするつもりだい。」

「未だ決めていません。」

「そうかい、そりゃ丁度良かった。どうだ、我が家の離れが空いている。

そこに居候するってのは。」

暫く沈黙が続いた。

「はい。では、よろしくお願いします。」沈黙の間、文治が何を考えていた

のかは、誰も分からないが、権座組に居候が出来て、人足達と同じ様に権座

組の者達が文治の指導を受けられるということは、全員が分かった。

「よっしゃ。今日は、文治さんの・・、面倒だから、文さんでいいや。文

さんを歓迎する宴にするぞ。今日の夕飯の当番は誰だ。」

若頭の甚助が返事をした。

「甚助か。そうすると、栄太郎と要も当番だな。敦三、お前の処も一緒で

早回しをしろ。文さんが長居してくれるんだ、いつでも話は聞ける。よし

解散だ。」

権座は、新しい玩具を手に入れた子供の様に上機嫌ではしゃいだ。


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