帰京2
車の音がして、その音が静かになった。
「お帰りなさいませ。」「長旅、お疲れさまでした。」
そんな声が何度かして、応接室の扉が開いた。
「おう、貴君が古荘殿か。實小路である。」
實小路が、入るなり大きな声で言った。
實小路は、上着を脱ぎ、後から来た女中に渡した。
女中は、上着を受け取った後、汗拭きを渡した。
「おう、有難う。我が家の職員の対応は、嬉しいな。早苗、飲み物を頼む。あっ、古荘殿にもな。」
そう言って、實小路は、応接用の椅子に腰を下ろした。
「何だ、古荘殿。上着を着たままではないか。脱いでくれて構わん。見ているこちらが暑くなる。」
「あ、いや、しかし。」
古荘は、困っている様子である。
實小路の後ろに控えている早苗が、實小路に耳打ちをした。
早苗の言葉を聞いて、實小路は笑い出した。笑いが収まった所で、實小路は古荘に言った。
「古荘殿、下着姿で構わんよ。あ、そうか。」
そう言って、實小路も上に着ているものを脱いで、肌着姿になった。
古荘は、實小路の行為に促されて、上着を脱いだ。
「古庄殿。水うちわを使ったかね。まあ、普通のうちわでも涼しいのだが、それに輪を掛けての涼しさというものが、結構気に入っておるのだよ。」
そう言って、實小路の前にも用意された水うちわを水に浸して、顔を扇いだ。
「この水うちわはな、文治君が土産に持ってきたものだ。美濃地方の特産らしい。東京近郊でも生産している所が有るらしいがな。
おっと、そうか。文治君については、後程、紹介するとしよう。我が家の書生だ。
彼が、わざわざ美濃から紙を仕入れて欲しいというのだよ。近場の上州に生産地があるのにな。
まあ、その紙質について、上州と美濃の生産者へ行った折に、美濃の帰りでの土産だ。
この水うちわを使ってみて、紙の技術の良さに文句が付けられなかった。そういう、代物なのだよ。」
實小路の話が一段落着いた時に、再び、早苗が入ってきて、實小路に耳打ちをした。
「うん、わかった。」
實小路は、そう答えただけだった。
「實小路殿。小生が本日伺ったのは・・・。」
古荘が、そこまで切り出した時、實小路は、古荘の言葉を制して言った。
「古庄殿。明日は日曜なので、学校は休みであろう。急ぎの用が無ければ、少々早いが、夕食を一緒にしたい。貴君の都合は、どうかね。
儂個人の都合なのだが、今朝まで、まともな米の飯が無かったので、茶漬けで良いから食したいと、職員に頼んだら、味噌汁も魚の煮付けも用意してあるということで、早く和食を喰いたいのだよ。」
「はあ。まあ、今日明日は、取り立てて用件はありませんが。」
「よし。早苗、飯にしよう。」
實小路は古荘を連れて、食堂に入っていった。
食堂には、いつもの席に文治が座り、重吉と話をしていた。
文治は、實小路に気付いて立ち上がった。
「古庄殿。紹介しよう、文治君だ。」
實小路は、古荘を文治の横に連れていった。
「文治君。こちらが、古荘殿だ。第一高等学校の校長をしておられる。」
「文治です。古荘様、宜しくお願いします。」
「あ、いや、自分は、校長を退いて、木下に任せておるので、今は、校長では御座らぬ。ただ、卒業した者達との交流が有るので、米国への派遣候補者達と話を致して、その結果の報告をするために参っただけなのだが。」
「まあ、兎に角、飯にしよう。古荘殿、ここへ座ってくれたまえ。」
實小路は、古荘を席に座らせ、自分も文治の横に座った。
文治は、實小路と古荘が座ってから、椅子に座った。
食卓には、既に、煮魚と茄子の田楽、香の物、菜物のお浸しが並んでいる。
「さて、頂くとしよう。文治君も和食が恋しかっただろう。」
實小路は、言うが早いか、箸を持って、魚を口にした。
「美味い。」
一言だけ、感想を言うと、後は、黙々と料理を口に運んだ。
文治も、同じ様に料理を楽しんだ。
「うーん、これが海外で食べられたら嬉しいですね。ただ、この花鰹は枯節を作る必要がありますので、容易では無いですが。」
文治は、和食の素晴らしさを感慨深げに称えた。
「文治君。生節は、それでも美味かったぞ。」
「ええ。でも、あれは単なる茹で魚の燻製です。帰りに寄ったハワイで、刺身の漬けを楽しみ始めていたのには、驚きましたが。」
「それは、当然だな。燻製にする木材が少ないのだから、燻製を作るのは難しい。だから、刺身を魚醤で味付けする。そうして、地域独特の文化となっていくのだろう。」
實小路と文治は、古荘そっちのけで、話しながら和食を楽しんでいる。
「古庄さんは、海外へ出られた事は、ありますか。」
のぞみが、文治の前に飯を置いたので、手を休めた文治が、訊いた。
「ええ。英国と米国に行っています。」
「そうですか。實小路さんの様に、和食が恋しくなりましたか。」
「そうですねえ。英国も米国も、酒は、それなりですが、食材を、そのまま楽しむというのが多くて、和食は食材の旨味を引き出すという点で、他よりも美味いと思います。でも、私は、ウィスキーが美味ければ、他は、あまり気にしなかったので、和食が恋しいとは、思わなかったですね。」
「そうなんですか。ウィスキーがお好みなのですね。」
「ええ。英国でウィスキーを口にしたときは、かなり衝撃を受けました。日本で、麦の酒といえば、焼酎だったので、木桶で熟成させると、こんなにも違う酒になるのだと、初めて知りました。」
「おう、古荘殿。貴殿はウィスキーが好みか。葡萄酒は、どうだね。」
古荘の発言に、實小路はが応えた。
「ワインですよね。私は、あの渋味の後味が、好きではないですね。」
それから、暫く、酒についての話が続いた。
茶漬けになり、西瓜が口直しに出された。献立が終わったことが意味する。
「あっ。」
古荘が、声を上げた。
「済みません。肝心な報告をしていません。」
古荘は、楽しい夕食に、實小路家を訪れた目的を、すっかり忘れていた。
古荘は、席に座り直し、真顔になった。
「第一高等学校の校長は、木下に代わりましたが、それまで務めた人脈で、卒業生達に米国の技術習得を打診しました。
その中で、8名の者が手を上げてくれまして、明後日に米国へ向けて出港する予定となっています。
鉄鋼に関しては、住友が調査団を出しているという事ですので、他の自動車、鉄道、石油、化学等に1名ずつ、学びに出向きます。
えーっと、彼等の名は・・・、応接に鞄を置いてきてしまいました。後程、紹介します。」
「そうか、有難う。航空機についてはどうだね。儂らは、何度か、米国内で乗ったが、直線で向かうことができるので、自動車よりも早く目的地に着く事が出来る。それと、通信はどうかね。我が国でも電話は普及しつつあるが、様々な技術が、米国で芽吹きつつある。」
「はい。候補者は居るのですが、各々が、企業の中核を担っていて、経営者が、米国へ行かせる事に難色を示しているのです。」
古荘の言葉に、實小路は、文治を見て、微笑んだ。
文治は、實小路の様子を見て、口を付けようとした紅茶を食卓に置いて、話し始めた。
「どこの企業も同じですね。中核を担っていらっしゃる方々は、次の飛躍の原動力です。10年後も、今と同じ仕事が続く訳ではありません。
中核を担っている方は、その技能を若手に伝承し、その者達に、更に次の技能を磨かせる責務を負っています。
それを遂行する為には、中核の方も若手の方々も、より多くの事を学ぶ必要があります。
経営者は、彼等に、その機会を与える責務があります。そうでなくては、企業は、5年、いや、3年で、事業が傾いてしまうことになるのです。
古荘先生も、その為に教鞭を取っていらっしゃったのですよね。」
古荘は、文治の言葉に天を仰いだ。
「言われる通りです。彼等の為になることを伝えわすれていました・・・。
文治さん。しかし、貴方は、若いのに、そこまでの知見を、どうしたら持てるのですか。」
文治は、笑みを浮かべながら、答えた。
「はい。色々な方々と、お話をさせて頂いていますので。」




