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尾張名古屋時代1

「お姉ちゃん、行っちゃやだ!」文治は隣家のハツの背中にしがみついて叫んだ。

自分の中で迷いを断ち切ったハツにとって後ろ髪を引かれる思いを呼び戻す

言葉にハツは動けなかった。いままで、この村で暮らし、苦楽の思い出が、

またフラッシュバックされてくる。そして、その思い出を再び断ち切るために、長い時間が掛かった。

実際には数十秒だったが、ハツにとっては、涙をこらえ切るための時間となっていた。

ハツは、しゃがんで文治の肩に手を置いて、

「文ちゃんにまた逢えるよ。ハツは、これから一生懸命働いて、ハツの父ちゃん

母ちゃんにお金を送ることにしたんだ。お金が貯まったら文ちゃんに何か送って

あげるよ。」

文治は、幼心に売られていく娘の事を分かっていた。この村から売られていった娘が、その後、一切の音信不通となる事も。村の遊び仲間で同じ思いをした者が、二人三人と居るからだった。そして、娘を売らなくては暮らしていけない事も知っていた。

それでも、文治はハツにしがみついて最後の思いを叫ばずにいられなかた。

ハツは仕手人に促され、風呂敷の荷物を首に巻き、仕手人と共に村を出て行った。

その後の文治の全ての行動には、この出来事に対する怒りが判断基準の一つになる。


文治の家も決して豊かではなかったが、父親も母親も身を粉にして朝から晩まで働く姿を見て育った。隣のハツの家は父親の酒癖が悪く、ハツの母親は苦労し、長女のハツを筆頭に、その下の兄弟達は幼い頃から僅かばかりの手間賃を稼ぐことを強いられていた。

地主と、その家族は、それに比べて、使用人を雇い、裕福な生活を送っている姿を見ている。

富める者は更に富み、貧しき者は日々の食事だけの為に働き、他の事を考える余裕など無い状況となっている。文治の家は幸いな事に父親も母親も良く働いたので、文治には学び、考える機会を得ることができた。

村には旧藩主の元指南役で、老いて若い者に道を譲った老人が僅かばかりの耕作地を貰って自給自足の生活を送っている。文治の家から徒歩5分程の処に居を構えていた。

この老人の家は、老人が子供たちを招くこともあって、溜り場の一つとなっていた。

当然、文治も、彼の兄弟も、ハツやその兄弟も、老人の家で遊ぶ仲間の一員だった。

智爺ともじい、今日、ハツ姉ちゃんが売られて行っちゃった。」元指南役の老人は自分のことを智爺と呼ばせている。寂しさを隠せない文治に老人は「そうか」と一言返すだけだった。

文治に何か言葉を掛けても効くものなど何もない事を良く知っているからなので

あろう。それよりも文治の肩に手を置いてやることの方が、余程効く事を老人は

知っている。

「明日から、また儂の話しを聞きに来るかな。」


話しを聞くことは、寂しさを紛らわすためでなく、今後、文治の様な思いをする者を減らすことが実現できる様になるために考える基となる。老人は、そのことを直接口にもするし、話しの端々に、その思いを滲ませている。

老人の言葉には、

「金が無いから不幸が起きるのではない。何故なら、金は単なる道具でしかない

からだ。人の幸せとは、食べるに困らないこと、寒さに凍えてしまわないこと、家族が元気なこと、子が育っていくこと、それだけで充分。」

「その上の欲は、帷子を多く持つ、自らの所有する家を持つこと。更には、周りに認められ、頼りにされること。」

「金を多く持てば、色々な物を手にする事ができるが、物は自らを幸せにしてくれるとは限らぬ。」

「だが、残念なことに金が全く無いと富む者の無理に逆らう事ができぬ。」

「お主の父母が身を粉にして働くのは最低限の抗いができる様にするためだ。」

「金は道具だ。道具は上手く使えば人を幸せにすることができる。自らの幸せとは他の者の幸せ、平穏の中に在る。」

「文治よ。ハツの不幸せは、家族と共に居られない事。お主の様な仲間と苦楽を分かち合えぬ事だ。ハツやお主の様な者を出したくなければ、金を稼ぎ、その金をハツやお主の様な者を減らす為に使うがよい。」

「幾らの金が要るのか。それは、どれだけの者を不幸から解き放つのかに因る。また、時勢、時代、そして相手によっても色々な変化となってくるだろう。稼いだ金の分だけを使うというのが身の丈というものだ。高みを目指す事も良いが、あまり欲張らないことだ。一度に沢山の事をするとか、今よりも倍の事をするとかいった事は、お主だけでなく周りの者をも巻き込んで大変な労力を要することになる。

そうすると歪が必ず生まれ、歪を修復するに時間と金が要る様になり、その時間と金を捻出する為の労力が必要となってくる。これを避けるためには、自らと周りの者の技量、能力を量って、合わせた全力を使っての、求める状態と時期を企てるのが良い。道程というものを図れる企ては実現することができる。道程を描けないものは実現することはできぬ。今の時点での行う者達の技量での企てを進める中で、全員の技量は徐々に上がっていく。だから、企ては、今の全力で進める企てとする。

上がった分の余力は、休む事、振り返る事に使えば良い。初めから余力を残す企ては中弛みが出て、これが歪となる事が多いからな。」

「先ずは、何からするのか。それは、先ず何をしたいのかという事を考えることだ。

ハツやお主の様な者を出したくないのならば、何故そうなったのか、そうならない為には、どうなっていれば良いのか、そう成らせるためには、誰が何時迄に、

どうなっていれば良いのか。それに対して、今は、どうなっているのか、その違いは何故なのか、違いを直す為に誰が何時迄に、どうなっていて欲しいのか、その為に、お主は何をするのか、という事を考えねばならん。」

「お主の父母の様に身を粉にして働くことが、直ぐに要る事になるやも知れぬ。」

「どうなっているべきなのかを調べるためには、街に出掛けて行って訊いて回ることが要る事もある。そのためには、身成を整え、宿を借りる事ができる者である姿であることが必要じゃ。見た目で人は区別されるべきではないが、尋ねる者が、それなりの身成であれば、相手も好い加減な事は言うまい。」

「語る者の言葉には、その言葉に至る背景がある。同じ事を語っていても、その者の捉え方に依って異なる姿として現れる事も少なくない。良いか、文治。一つの事柄を訊くに、二人以上の者から語らせ、客観的な事象として理解することじゃ。まぁ、慣れてくれば語る者の背景が透けて見えてくる様になるものでの。二人に語らせれば分かる様になってくるものじゃ。多くの場数を踏むことじゃ。」

「後一つ、これは頼みじゃ。お主が考え抜いた図り事が、或る程度出来上がったら、紙に書いて見せてくれんか。恐らく、この年寄りからすれば、忠告する事は少なくないと思うが、それは、敢えて言わぬ。ただ、お主の決意というものを見てみたいのじゃ。」

それから文治は、数日、近所の子供達と遊ぶこともなく、老人の庵に朝から晩まで籠って、老人の蓄えた書物を読み漁った、先人達の知恵に、自らのこれからを描くために。

書物を読み、中身を理解するというのは、易しいものでは無いが、文治が3,4歳の頃から、今の十四歳になるまで、老人は庵に訪ねてくる子供達に読み書き算術を遊びと思われる様な方法を使って学ばせていた。この事が文治に書物を理解させる能力を蓄えさせていた。

老人の庵には、どこから手に入れたのか、西洋医学書、国内外の国々の旅行記、

外国の習慣や考え方を歴史や宗教を元に考察した国民性についての解説なども貯えていた。それでも、個人の蔵書である、文治が今迄手に取り、読破した書物ばかりであるので、文治にとって自らの将来を描くに参考となるものを選り、数回の繰り返し読みをするには、数日で充分であった。


次に文治が行った事は、街に出掛けていくことだった。1か月の間、毎日出掛けて行っては、日々何がしかを持ち帰ってきた。その後、街へ出掛ける頻度は数日に一度と減ったが、毎回持ち帰る物があることは変わらなかった。

そして、3か月が経った頃、文治は父親の前に座し、暇を告げた。

「父さん、暫くの間、街で暮らしたいと思います。お許しをいただきたい。」

父は無言で文治の顔を覗き込み、深く溜息をついて、立ち上り、勝手口から出て

行った。入れ替わりに母親が弟と妹を連れて入ってくると、母は文治を抱き締め、「体に気を付けるんだよ。」と言って握り飯の入った弁当を渡した。

文治は呆気に取られてしまった。何がしかの詰問や引き止め、最悪、反対が有ると思っていたからだった。何も言わず送り出してくれるなど、気持ちが悪く、どうしたことなのか知りたい気持ちに駆られてしまう。

弟が「兄ちゃん、これ」と、一通の封書を渡してくれた。封書には、「父より」と書かれていた。全ては封書の中に書かれているということを示している。

多くを語りたがらない父らしい対応だと思った。

妹は、さすがに、「兄ちゃん、何時帰ってくるの。」と、無邪気に訊いた。文治は、「果奈が字を書ける様になった頃には帰ってくるかも。」と答えるだけだった。

出発すると決心した時から荷物は整えていたので、文治は、その足で家を後にした。

母と弟、妹が見送りに立っていてくれた。文治は一度たりとも振り返らず街への道を辿った。この先、やるべき事が多く、家族に未練を感じていては出始めから勢いが削がれてしまうと、自らに言い聞かせたからだった。


街に着き、宿を取った文治は父からの手紙を開いた。

「文治、桂山の智爺殿よりお前のことは聞いている。

村から売られていく娘は少なく無く、お前の母も赤川の爺様が税を払えずに身売りの説得を受けた一人だ。お前の爺様婆様が、赤川の爺様と旧知で、赤川の役所と掛け合って、税の免除を受け、身売りを留まった。だから、こうして、お前の父母として暮らしている。

智爺殿は、お前の理解力、行動力、謙虚さが有れば、村から娘を売る家を無くす事ができるかも知れない。先の隣のハツは、可哀相なことだが、これを切欠にお前が、そのつもりになった。と言われる。

毎日の様に街へ出掛け、何がしかの給金を得て、旅立ちの準備を進めていることは、母ツネから聞いていた。お前は、何も言わないが、母は、お前を心配して、勝手に風呂敷の中身を検めていたそうだ。

本当に、身売りの無い村にすることが出来るのかは、父は思い描くことができない。

だが、智爺殿が言われるのであれば、お前を信じることにする。そんな大きな夢に向けて、進むのであれば、家族のことを振り返ることは無用。やるだけやってみよ。

お前の帰りは待たぬ。

父より」

そして、紙の最後に、母の下手な仮名文字が記されていた。

「からだにきをつけて。」

父母からの精一杯の応援が記されていた。


文治は、尾張名古屋に居た。戦国の終りに織田、豊臣、徳川が戦略を練った地を先ず選んだ。西の京都、東の東京を学ぶには、その地よりも少し離れた地で客観的に学ぶことが良いと考えたからだった。東京、京都、大阪の都市の情報は、噂話として聞けるだろうということでもある。

文治は運輸の会社を訪ね、働き口を尋ねた。小ざっぱりした紳士という出立で訪ねたことから、相手も相応の対応をしてくれた。村での姿であれば、精々、人足見習いとして雇われるだけだったろうが、若干十六になったばかりの若造を番頭として使ってくれることになった。算術に長け、丁寧な語り口が、最初に面談した一番番頭のお眼鏡に適ったからである。老獪な一番番頭にすれば、自分の手足として使えると判断したのだろう。

文治は貪欲に学ぶ姿勢で誰彼となく話しをした。年配の人足、若手で頭角を現した人足頭とも素直に話を聞き、彼らの行動の目的を訊き、彼らにとって有効となる提案をして、行動に移すことを繰り返すことで、人足達から驚かれ、尊敬される様になっていった。

「三吉さん、この二番倉は使わないのですか。一番倉と四番倉は毎日使って、たまに三番倉を使う様ですが、二番倉は、この三ヶ月間、一度も使っていません。倉に支障があるのでしょうか。」

人足頭の三吉に文治が尋ねた。

「あぁ、二番倉は貴族院の實小路様と東京銀座の睦井様の貯蔵品が入っていて、

年に一度荷の出し入れがあるかどうか程度なのさ。倉は他と同じで丈夫にできていて、雨漏りも鼠の心配も無い。」

「実小路様と睦井様の荷は、この二番倉でなければならないのですか。三番倉にすることはできないのでしょうか。」

「さぁな、まぁ、確かに、三番倉の空きからすれば、二番倉の荷くらいは収まってしまう量だが。文治よ、何で、そんなこと聞くんだ。」

「はい。船の荷を揚げて、明日には配送するのに、一番奥の四番倉へ入れるのは何故なのかを、良治さん、亀吉さん、留義さんに聞いても、そうする様に言われたからとおっしゃるだけで、不思議に思ったものですから。三吉さんは、その理由をご存知ですか。」

「そういやぁ、三年前までは、睦井様の荷は大量に扱っていたが、鉄道ができてからさっぱりだな。でっけぇ荷があるときだけは届くが、それも年に一度くらいだ。」

「そうですか。実小路様の荷は如何ですか。」

「実小路様の荷は、ここ五年、倉に入ったきり出も入りもしない。まぁ、預かっているだけだな。」

「分かりました、有難う御座います。それでは、實小路様、睦井様の荷を三番倉へ入れてしまうことについては、何か支障がありますか。」

「入れ替えることについては造作も無いが、客が文句を言わねぇか、それが心配だ。」

「お客様は、荷を保管する位置をご指定なのですか。保管位置を変えると何かご迷惑になるのでしょうか。」

「さぁな、客との交渉は、あんたの仕事だろ。まぁ、三番倉へ動かすことになったら言ってくれ。」

三吉は質問攻めに辟易といった風で、首を振りながら人足達を指示するために戻っていった。

確かに渉外は番頭の仕事になっている。三吉の言うのは当然のことなのである。

文治は、先ず、二番倉の帳簿確認から始めた。荷受け荷払いの記録は文治も日々

行っているので、膨大な量になることを覚悟していたが、帳簿を整理してみると、三年以上前の帳簿は廃棄されていて、追跡することができない状況であった。

それでも、三年前の正月から半年間は睦井の荷量が大量であることを示す記録が残っていて、大得意先であることが読み取れる。その後、荷量は目に見えて減っていき、昨年は二件、今年は一件のみの配送であること、今年の二番倉が開けられたのは、その一回のみであった。しかも、二番倉の棚卸が実施された記録が一切ない。

人足達が二番倉の中身は、實小路と睦井の滞留在庫と言っているが、三年前からの受け払い帳簿を確認しても、滞留在庫となる記録が残っていない。三年前から現在まで、受け入れた荷は、全て配送済なのである。

文治は、三吉を連れて、二番倉の棚卸をすることにした。荷札は真面目に付けられ大半が實小路と睦井からの荷であることが表示されている。だが、配送先が未記入で配送できない状況となっていることが分かった。そして、その荷札が五年から七年も前の発行であることも分かってきた。

文治は棚卸一覧と共に一番番頭へ報告をした。当然、運輸業務の怠慢の結果であるので、客先に詫びて、返却や配送をするべきである。一番番頭は、客への詫びと処理を文治に押し付けた。

文治は快く、その面倒な詫びと処置方法の伺いの作業を引き受けた。

三吉は読み書きが出来たので、荷の出入りの帳簿記録を任せ、文治は東京へ出掛けて行った。


先ず、文治は東京支社の事務所を訪ねた。電話での確認で、当時の荷受け業務を担当した者が既に退職し、当時の記録も残っていないとの報告を受けているが、それでも当時の資料が残っていないかを探す作業を行うためである。

「あんたが倉番頭の文治さんかい。若いねぇ。」そう言って迎えてくれたのは、

東京支社の一番番頭の幸樹だった。

「電話では、資料が廃棄されてしまっているとのことでしたが、関連する資料でも保管されていないかを確認したく、お邪魔しました。」

「ご覧の様に多忙でね、何も手伝えないとは思うが、好きに家探しでも何でもしてもらって構わないからさ。」

「では、遠慮無く見させていただきます。書庫以外も事務所の書棚もご迷惑にならない様に見させていただきます。」

「あいよ、じゃぁ。」

東京支社の書庫は、文治が予想した通り整理整頓が行き届かず、積み上げてあるだけの状態だった。それでも、文治の依頼で古い帳簿を探したのだろう、およその年毎には仕訳し直した形跡が伺える。当然、帳簿は廃棄されているのであるが、関連する預かりの控えであるとか、人足への支払いだとかは、捨てずに残されていた。最近の帳簿の整理状態と比べれば、まだ探す気になる程度ではあったが。

文治はロウソクの灯りを頼りに資料整理に励んだ。さすがに、3年以上前の資料の多くは廃棄されていたことから、それ程の量では無かったが、朝から初めて昼過ぎまでには、ほぼ整理が終わり、その間のロウソクの交換は3度となっていた。

遅い昼食を摂った後、文治は事務所の書棚を確認する作業を行った。特に、受付窓口の何でも入れには、上から入れて、上から出す箱が使われていたので、箱をひっくり返すことで、8年前の開所当時の資料が出てくる状態だった。

これらの資料を文治は整理し、関連する資料を綴り紐で綴じて、過去の資料や処理済み書類を書庫へ運ぶ作業を行った。

事務所の資料整理を始めてからは、事務所の者たちは、文治の作業を見て感心し、自分達の作業がやり易くなる事に気付いてからは、全員が空いた時間を文治の手伝いに回った。

日々、午前と午後に10分程度の時間を充てれば、資料の整理ができていくことに気付くには簡単なことだった。

書庫へ資料を運んだ者は、文治が行った整理を見て、再び驚くということになった。

こうして、1日を費やし、文治は大半の在庫一覧の受付日と配送すべき先、内容などを把握することができた。一部の在庫に関する資料を見つけることはできなかったが。

資料整理と平行して、文治は本社へ幾度となく電話をして、一覧に細々と書き足して一枚の在庫一覧が十数枚の資料に膨らんでいった。

その晩、東京支社の事務所の者たちは、文治を囲んで居酒屋での歓談を行うことになることは、必然となった。


翌朝、文治は、實小路宅に居た。約束の時間よりも10分以上前に着き、約束の時間を30分以上待たされることになったが、文治は出されたお茶に手を付けることもなく、實小路との面会までの時間を座して待った。

「實小路様、本日はご面会有難うございます。つまらないものですが、お口汚しに持って参りました。」名古屋なら「ういろう」なのだろうが、實小路の好みを聞いて桑名のしぐれ煮を持参した文治だった。

「本日、お邪魔しましたのは、5年前に弊社をご利用いただいた際に、配送されないまま、送り先不明として弊社の倉に保管されている荷物が数点御座います。大変申し訳ありません。本来であれば、ご確認をいただく連絡を差し上げるべきでしたが、当時の實小路様には洋行されておられ、連絡が取れないまま、弊社の倉に入ったままという状態のものです。こちらが、弊社で保管している物の一覧でごさいます。」

實小路は一覧を手に取り、自慢のあごひげをしごきながら配送不能の備考理由を

一つずつ確認していった。

一つには、配送相手の死去と家族の受取拒否、拒否理由、一つには相手先転居で転居先が手狭なために受取拒否、一つには洋行で帰国時期不明などの確認し、小さなため息をついて頷いた。

「弊社でお預かりしております荷物について、弊社としてはお返ししたいと考えておりますが、實小路様には、どの様な対応がお入用でしょうか。」

「君、文治君だったね。良く分かった。なに、送った物は大した物では無いし、5年も前の品だ。返してもらっても使い道が無い。そちらで始末してくれないか。しかし、5年も保管してくれたとは驚きだ。しかも、届けられない理由まで教えてくれて、この後、私が届かなかった者たちに何をすべきか分かり易い。有難う。」

「早速のご判断、有難うございます。弊社としては、届けられなかった場合には、直ぐにでもお返しすべきでしたが、返送にも手続きを決めておりまして、實小路様の様に、洋行された場合の対処方法を定められないことが課題であると考えています。

お得意様ですので、日頃のご機嫌伺や御意向などを把握しておくべきでしたが、これも弊社の中で怠けていたと反省をしております。ご意向に沿った形で、弊社の中で処理させていただくことにします。」

他にも、必要があれば転居先の紹介やその方との連絡を取る、手紙を書くのなら届けるといった対応をすることも受けるといった提案をするのであった。

「貴重なお時間を頂いて有難うございます。明日、御意向の書類を持参させていただきご署名をいただきたいと存じますが、如何でしょうか。」

「所有権を放棄するという意思の文書だね。良いよ、明日の夕刻、6時くらいに来てくれたまえ。」

「はい、では、その様にいたします。宜しく、お願いいたします。」


次に、文治は睦井を訪れた。

睦井は、大物から小物までを取扱う商社で、在庫として保管されている睦井の荷物は商談が成立するまでの仮置き状態のまま長期滞留となっている。つまりは、倉庫として場所を提供していることになる。取引量が大幅に減った現状としては、保管管理の費用を貰って、倉庫として活用してもらうことが、双方にとって納得のいく商売ではないかと、文治は考えていた。

睦井の渉外部の広末が対応に出てきた。広末は、恰幅が良く、いつも笑みを湛えながら話しをする癖になっている様な雰囲気の男である。しかし、その眼光は鋭く、獲物を逃すまいとする猛獣の目であることは、文治には容易に判断できた。

ここからは、完全な商取引の場面で、淡々と、状況説明と滞留在庫の対処方法、倉庫管理料による保管継続の提案などをして、後日の回答と契約書の締結、その期限などを決めるだけの作業となった。


東京支社へ戻ってから、文治は本社への報告をして、本日の業務記録や明日の實小路での書類作成を終わらせた。そこへ、再び、東京支社の連中が文治を夕食へ誘いに群がってくるという構図となった。


翌朝、睦井との打合せ内容に基づく契約の依頼を東京支社の連中に依頼し、在庫一覧の他の客先4軒を回り、夕刻には、實小路を訪問していた。

實小路は、文治が用意した書類の内容を確認することもせず、さっさと署名し、文治を夕食に誘った。

「文治君、君の気遣いが大変気に入った。君の分まで夕食を用意した。食べていきたまえ。」

文治は、形ばかりの遠慮をしてたが、實小路と夕食を摂ることになった。この時間に書類を持参させるということは、夕食を誘うことであることを分かっていた。貴族院の人が誘うことに断れる庶民など居ない。

夕食を一緒にするということは、それなりの会話が必要となるが、貴族院の者たちが何を話題にするのか全く想像がつかない。文治は、昨晩の東京支社の連中から實小路について、それとなく情報を引き出し、何を話題にすべきなのかを今日の移動時間の中で思い巡らせていた。

食堂に案内されて、文治は驚いた。實小路との夕食は、家族の食事の末席を汚す程度と考えていたのだが、数名の貴族院の方々と思しき面々が席に着いていたからだった。

「文治君、こっちだ。」

文治が案内されたのは、實小路の横の席だった。さすがに、文治は、かなり固辞する言葉を並べた。もちろん、一蹴されることは分かっていたが、貴族院の面々の手前、そうすることしかできなかったのである。

「諸君、今日紹介した文治君である。」

貴族院の面々は、口々に第一印象を口にした。

「成りはそれなりだが、非常に若いじゃないか。」「眼光鋭いという訳でもなさそうだ」

「實小路殿の隣席を辞退する時の言葉遣いが一世代前の語り口で、この若さとは」

「實小路君が初見で気に入る人物には、とても思えない」

「まぁ、諸君、取敢えず食事を始めよう。君たちも文治君を気に入ると期待するよ。」

文治は、さすがに食事が喉を通らない程の緊張を覚えた。實小路の情報は或る程度持っているが、貴族院の人々との食事ということが何を意味するのか想像するに余りある事だったからである。

實小路に一人ずつ紹介をしてもらい、顔と名前を覚えることに必死になった。里での智爺の言葉が思い出される。「多くの人から情報を引き出し、本質を見極めるべし。」

最初の前菜やスープなどは、貴族院の面々の質問に答えることで、手を付けることができなかった。また、出される料理が今まで口にしたことの無い料理ばかりだったが味わって食べることも、ままならない状態だった。

最後の紅茶と果物を前にして、文治は恐縮するばかりだった。實小路が自分を気に入ってくれて、貴族院の面々に自慢するために開かれた夕食だったのだ。

「申し訳ありません。この様な豪華な西洋料理は頂いたことがありませんでした。皆様のお話しも少し伺えますでしょうか。」

貴族院の連中は、實小路を含めて、食事中に文治の在庫一覧を作成するに当っての苦労話や東京支社の連中の協力体制、東京と本社の意思疎通の問題などを話させ、自分たちのことは、あまり話さなかった。文治の話題展開の絶妙さも、そういった状況となった原因でもあるのだが。

臨席した面々は笑いながら話しを實小路の洋行の体験について話題を変えていった。

實小路は、洋行の想い出を順を追って話し始めた。途中の上海や香港、ジャカルタでは現地の酒場や売春宿のことに触れ、日本人女性が現地に居ることを語る。所謂、唐行きのことで、香港で一夜を共にした女が、相手が日本人であることを知ると、自分は家の借金の代りに売られてきた里の家族が恋しいと思うことがしばしばあると泣いたので、辟易した、と言う。後で、現地の案内役に聞いたところ、お涙頂戴で、祝儀を弾ませるための芝居だったと言われたと付け加えた。

文治には、郷里のハツ姉の姿が重なって、無性に腹が立つ話である。

その後、實小路の話は、ハワイ島、カリファルニアと続き、アメリカの最新情報が満載の話となっていった。貴族院の面々は、時折、冗談を入れて茶化す程度で、本気で實小路の話しを聞く気が無いことが見て取れた。彼らにとっては、それが娯楽の一つであろう。

誰かが、實小路の洋行について、文治にアメリカ人をどう思うかと水を向けた。

文治は、里の智爺の書棚にあった旅行記の中のアメリカに関する情報を元に、實小路が語ったことを分析する様な発言をしたので、一同は黙ってしまった。

文治は、「しまった」と後悔した。實小路の話しが、旅行記の内容と重なって、まるで郷里の智爺の書斎に居る様な懐かしい感覚に浸ってしまったことから、不用意な発言をしてしまった。

「と、最近手にした書籍に書いてありました。」文治は、何とか誤魔化して、臨席の方々の面目を潰さない様に取り繕った。

「どうだ、文治君は博学だろ。」實小路は、自分が気に入った者が、他の面々が絶句する程の機転を利かす者であることを自慢した。

その後、他の面々の自慢話が酒宴が進むにつれて盛り上がっていった。その話の

中で、文治は水を向けられる毎に機転の利いた切り返しをして、一同を盛り上げさせていった。

夕食が始まって、2時間を過ぎた頃、文治は、翌朝の汽車で名古屋へ帰るためと

断りを言って、實小路家を抜け出した。


翌日、文治は東京支社で協力の礼と結果について報告をした。

「皆さんのご協力で滞留在庫を解決する目途が立ちました。

睦井様の在庫は、倉庫使用料を頂くことで解決。吉永様はお引き取り願えるということで、先に説明した日程で返送しますので宜しくお願いします。加藤様は未達に対する補償を要求されていましたが、我社よりも加藤様の問題が大きいということをご納得いただき、競売に掛けて、売却金額の8割を受け取られることでご納得いただきました。

實小路様の在庫については、無償で所有権を放棄されるということで、廃棄をする様にとのご指示でしたが、競売に掛けて収益金を子供達を学ばせる寺子屋の建設資金とする提案を差し上げたところ、快諾されました。

我社には寺子屋を実施するための知識や経験がありませんので、寺子屋をされている村の寺を訪ね、資金支援が必要な寺子屋への提供をすることになります。寺子屋については、先の吉永様が知見や複数の寺子屋との付き合いをされているということで資金支援という観点で、各寺子屋を訪問いただくという、ご協力の申し出があり、お願いしてきました。

これで、滞留在庫が一掃できる予定です。重ねて、ご協力有難うございました。」

たった三日で滞留在庫の処理を決めてしまった文治の行動力に東京支社の者たちは自分達も同じ悩みを持っているだけに感嘆した。来訪の初日、二日目は文治と夕食を共にして、文治の話題の豊富さと誰でも引き込まれる話術について認識していたが、それらを駆使しての短期での問題解決ができる行動力と判断力に舌を巻いた。

東京支社の誰よりも若いのに、自分達では、束になっても、とても太刀打ちできないと実感するのである。本社で、役職を得る人材であると誰もが思った。


夕刻、名古屋に戻った文治は、早速、交渉結果の報告を一番番頭の和正にした。

二番倉の滞留在庫一掃ができる状況となったこと、實小路家の在庫の所有権が放棄され売却することで、子供たちの教育に貢献すること、教育機関の寺子屋は吉永に任せること、睦井の在庫は、倉庫代を貰って保管すること、加藤家の在庫は返却代金を自社負担で返却することを告げた。

「よし分かった。売却手続きは、やったことが無いだろうから、儂がやる。文治よ、お前は、他の処理をしてくれ。」と、和正が指示をした。

「和正さん、二番倉の荷を三番倉に移す作業を並行して行います。通常ですと、大物は奥に、小物を手前の棚に入れるのですが、売れそうな物を手前に、買い手を探すに苦労しそうなものは奥に入れようと思います。如何でしょうか。」

「實小路の荷は、そのままにしておけ。後日、売却業者に引き取らせる。」

「二番倉を空けて、四番倉と入れ替えようと考えています。人足達が日常で出し入れする運搬の距離を短くしてやれば、荷役の時間も減らすことができますので。」

「文治、いい加減にしろ。儂の顔でお前を雇ってもらったんだぞ。俺の言うことに逆らうな。今のままで不都合は無い。要らぬことをするんじゃない。今回の対応もどうせ、東京支社の連中がやってくれたことだろ、分かってんだ。とにかく、お前は他の事を片付けろ。分かったな。」

頭ごなしに指示だけすると一番番頭の正和は部屋から出て行った。

4日も空けたので、人足達のこと、人足頭の三吉のことが気に掛かったが、夕方で、荷役作業は、終わっていたので、見回りだけ済ませて帰ることにした。

がんどう提灯を手に船着き場の足場確認、一番倉から四番倉までの施錠確認、収容忘れ人足達の忘れ物や落とし物などの確認を日課にしている。

と、そこへ物陰から、提灯の光を避けるように、二つの影が寄ってきた。

「文さん、お帰り。文さんが居ない間、三吉が人足に仕事を指示すると聞いていたが実際には、二番番頭の剛太の奴が来て、俺らに酷い仕打ちをしやぁがって、反抗すると権座組の連中を連れてきて、俺らを殴るんだ。文さん、明日から戻ってくるんだよな。これで、やっと、普通にできるぜ。」

「亀蔵さん、吉次さん、教えていただいて有難うございます。明日からは戻って参ります。三吉さんは、どうなさいましたか。」

二人は顔を見合わせて、頷いてから、吉次が口を開いた。

「三吉は、文さんが東京へ行ったその日に暇を出された。この亀が、文さんのやり方で三吉と荷の並びを運び易く変える工夫をしてたら、剛太の奴がやって来て、三吉と口論になって、番頭の和正が三吉を首にしちまいやがった。」

文治は、深くため息をついて、暫くの沈黙の後、

「亀蔵さん、吉次さん、教えていただいて有難うございます。明日からは、私が戻って参ります。この数日、ご迷惑となってしまいましたが、元の様に仕事ができる様にしていきたいと考えています。今日は、お帰りください。」

文治は、事務所に戻って、数日間の荷役記録を確認し、文治と三吉が居なくなった期間の人足の士気低下の度合いを計った。今まで、積み上げてきた信頼と協力体制が崩壊してしまっていることが読み取れる。明日は、睦井、加藤家への返送処理もあるが優先すべき人足達への話し掛けなどで、士気を戻すことであることが明確であった。

しかし、一番番頭、二番番頭の両名が、その障害となる恐れを感じ、邪魔させない方法を思い巡らすことになった。


翌朝、文治は三吉が居た時と同じ様に人足達を集め、朝礼を行っていた。

今日の荷の予定、人足の頭数の割り振り、昼食の時間、日当支払いの時間と場所を連絡する場で、通常は、5分程で終わるのだが、今日はその後に二番倉の加藤家へ返送する旨の指示を追加した。その仕事には、亀蔵と三次郎を指名し、返送に関する詳細指示を行うとして、二名を除いて、荷役に掛からせた。

文治は、返送に関する指示を二人にしながら。権座組のことについて話を聞く

ことにした。

「加藤様の荷は、大物2件と小物4件の合計6件。三次郎さん、大物へこの返送

荷札をつけてください。亀蔵さん、私と来てください。小物の確認をしながら、

荷札を付けましょう。」

三次郎に大物用荷札2枚を渡し、亀蔵と小物の棚へ向かいながら、亀蔵に権座組の対応について聞いた。

「亀蔵さん、あなたも権座組さんの紹介で働いていますよね。人足紹介の権座組

さんは、面倒見が良いのですか。」

「へい。親分の権座は、儂ら人足の子供やおっ母に何かあった時には、色々面倒を見てくれるんで、儂らは心配することなく仕事ができるんで。」

「亀蔵さん、この段の奥から三番目の荷に荷札を付けてください。あと、下の段の一番奥の荷もそうですから。こちらの2つは私が付けますから。」

文治は、昨晩の吉次の言葉が気に掛かっていた。「権座組の連中に亀蔵を殴ら

せるんだ」と言ったことである。他の紹介業の松三組だとか、竹佐組だとかなら

そうかも知れないが、権座組の対応は、今まで、紳士的なものだったからである。

吉次は、三吉に代わって人足頭を始めている。比較的呑み込みが良いのだが、

手抜きが多く、不誠実な処があると文治は見ている。三吉と話していたのは、

吉次が意識を変えれば人足頭として十分にやっていける者だということだった。

三吉が居なくなった今、吉次に任せるしかない状態であることは確かである。

「亀蔵さん、三次郎さん、今、荷札を付けた荷は、今日の7番船に乗せます。

7番船の荷卸しが昼までの予定ですので、荷積みが始まったら、一緒に積んで

ください。では、荷卸しへ合流してください。」

文治は返送についての送り状と東京支社への連絡をするために、一旦事務所へ

戻った。

そこへ、権座組若頭の辰吉がやってきた。一番番頭の和正、二番番頭の剛太も

居なかったので、三番番頭の国次が応対した。

人足達の日当を受け取るためだった。人足の人数、人足頭の人数分の日当には

権座組の歩合も含めて支払われる。

「おい、辰吉。他の松三や竹佐に比べて権座組だけ組の歩合が高けぇそうじゃ

ねぇか。あんまり、あこぎなこと、するんじゃねぇぞ。」

「国次さん、他に比べて月10銭だけ余計に取っていることは確かだけど、人足

達は、承知の上で、うちの紹介で働いてる。嫌なら、他の組に移る筈だ。だから

これで良いんだ。」

「ふん。まぁ、それなら勝手にすれば良い。」自分の忠告を聞きもしない辰吉に

少し腹立たしく思いながら、国次は席に戻って行った。

帰ろうとする辰吉に文治が声を掛けた。

「辰吉さん。少し良いですか。」

「おう、文治か。何か様か。」

「国次さんの忠告を一蹴されましたが、何か理由をお持ちなのですか。差支え

無ければお聞かせ願えませんか。」

「なんだ、文治、聞いてたのか。お前みたいに、訳を聞いてくる奴は初めてだ。

訳を言ってやりてぇところだが、上手く言えねぇんで、親分に聞いてくれ。

夕方なら、親分も居るし、そこで聞いてくれ。」

「分かりました。有難うございます。では、夕刻に権座組にお邪魔します。」

「おう、親分には、文治が来るって言っておいてやらぁ。」

本当は、昨晩の亀蔵と吉次の話しを聞きたかったが、国次が居るので、事務所

での会話をする訳にはいかなかった。国次が話した内容を引き継ぐ形で辰吉と

話しをすることができて、国次にしてみれば、自分の顔を立てようとしてくれると思えるので、悪い気はしない。直接権座組へ行くという口実もできた。

文治は、東京支社に電話をし、加藤家の荷を送る手続きを頼んだ。電話の向こう

では、文治からの電話ということで、一昨日までの文治の活躍についての興奮が

蘇っている様で、事務所の中が軽い騒ぎになっていることが感じられた。

だが、文治は、多少の挨拶はしても、依頼内容を事務的に伝えるだけだった。

次はいつくるのかとか、事務所の中が片付いて文治の机を置ける程になったので

東京事務所へ赴任をしても構わないといったことが、電話を奪いながら数名の

者が口走るのを、はいはいと受け流し、必要事項の荷の送付を伝えて電話を

切った。


日が暮れる頃、再び辰吉がやってきて、人足達に日当を渡していた。松三や竹佐

の者達も同じ対応である。人足の人数は、松三と竹佐を足した人数と権座組の

人数がほぼ同じ、つまりは、人足の半分は権座組の紹介ということになる。

今まで何気なく見ていた風景にも背景には理由があることに気付いた。

まだまだ、学ぶべきことが多いと思う文治だった。


事務所での処理を終えて、文治は権座組を訪れた。手土産には酒が当たり前と

考えられるが、文治は粟餅を携えていた。先日の東京出張で吉永家を訪問した

ことで、吉永が文治を気に入り、今日の便で、吉永から大量に文治宛に送られた

粟餅の一部である。一人暮らしの文治にとって、食べ切れる量では無く、下宿の

大家、近隣に配ったのだが、それでも余る程の量だったので、携えてきたの

だった。

「今晩は。文治と申します。辰吉さんはいらっしゃいますか。」三和土に水を

打っていた若衆に声を掛けた。

「おう、文治。」程無く、奥から辰吉と恰幅の良い男が出てきた。

「辰吉さん、今晩は。こちらの方が、権座親分さんですか。親分さん、お邪魔

いたします。これ、粟餅ですけど、皆さんでお召し上がりください。」

渡された風呂敷の中身が粟餅で、手土産という状況に、受け取った辰吉も権座も

一瞬、動きが止まった。普通なら、酒か餅だとしても米の餅なのだが、粟餅。

何故、粟餅なのか、しかも、「つまらないものですが」と渡すのが慣例だと認識

しているが、「粟餅です」とはっきり言う。「こいつ、普通じゃねぇな」と二人は心の中で思ったに違いない。

「小ざっぱりした格好をしてるくせに、辰吉が言う通り面白れぇ奴だな。よし、

上がれ。座敷で話を聞いてやる。」

辰吉から報告を受けた内容では、月10銭の理由を聞きたがっている番頭が居て

わざわざ、組にまで聞きに来るというものだった。その程度の話しならば、上り

端で説明してやれば直ぐに終わると踏んでいた。だが、人を見る目が確かな権座は文治を座敷にまで招いて、話をしてやることにした。

廊下で強面の連中が軽く会釈する権座の後を文治は臆することもなく、付いて

いった。そして、勧められた座布団も遠慮することなく、充てて、懐から筆記具

そして、数枚の紙を取り出した。

「親分さん、辰吉さんから聞かれているかも知れませんが、再度、伺います。

人足さん達から月に10銭を徴収されているそうですが、その理由をお聞かせ

願えますか。できれば、権座組さんが人足さん達から人気がある理由をご存じ

でしたら、それもお話し願えると有難いです。」

「なぁに、講に入らせているだけだ。人足達は日銭だ。貯えをするにも、女房と

子供3人を食わせていくだけで一杯だし、雨が続けば、おまんまの食い上げに

なっちまう。まぁ、雨でも稼げる仕事も有るから、それができる奴らは違うが

荷運びだとか、土こねしかできねぇ奴らの方が多いから、そいつらのために組で

預かっておいて、そういう時に使ってやるということだ。普通の講とは少し

違うが、まぁ、そんな処だ。」

「まるで保険ですね。でも、月10銭だけでは、賄いきれないのではないと

思いますが、如何でしょう。」

「10銭だけじゃ無理だな。本当は、歩合の2割の中から工面してるんだ。

だけどよ、人足の奴らに只で面倒見てやると思われたら、怠ける奴らが少なく

ない。奴らには、自分が出してる10銭があるから、色々面倒を見られている

と感じさせるためにやってることだ。

俺たち人足紹介なんて大したことやっていないが歩合は取る。それじゃあ、ダニ

みたいないもんだ。紹介しているのだから、紹介しただけのことはやらなくちゃ

ならん。

やらなくちゃならねぇことは、紹介先で人足達がまともに仕事をする様に見張る

それから、人足達がまともに仕事ができる様に面倒を見てやるということだ。

で、10銭ということにしてるんだ。」

文治は、権座の考え方、やり方に敬服した。保険などと金融業と同じで評価

してしまったことに、反省をした。

「親分さん、大変参考になりました。有難う御座います。親分さんの生き方に

感服しました。」

「ふん、よせやい。褒めたって、何にも出ないぜ。」

「ところで、親分さん。」文治は、権座の言葉を無視して、話を続けた。

「先日、人足頭をされていた三吉さんという方が、暇を出されました。三吉さん

という方は、こちらの紹介で務めていただいていたかと思いますが、間違い

ありませんか。」

「おう、三吉なら知ってるぜ。賢い奴だったからな。」

「三吉さんと番頭の剛太が口論になって、剛太が暇を出したということです。」

「三吉さんとは、暫く一緒させていただきましたが、暇を出される程の口論を

するとは思っていませんでした。番頭の剛太とは、話ができていませんので、

詳細は、明日にでも聞こうと思っています。」

「剛太と口論か。儂も三吉がそれ程の口論するとは思えんが、紹介先での諍い

については、紹介元として詫びはするが、細かなことは聞かねぇことにしてる。

三吉が辞める時には、あいつは辞めることになったとしか言わなかったし、

剛太から文句も来なかった。だから、そんな事が有ったとは、初めて聞いたぜ。」

「そうですか、三吉さんが、その様な態度を採られたということは、何かの

事情で、自ら身を引いたということでしょう。三吉さんは、思慮深い方ですので

親分さんが人足さん達を思うのと同じ位に、人足さん達の事を思ってのこと

でしょう。」

「その後のことですが、権座組の方が、こちらの紹介の亀蔵さんという方が

言う事を聞かないので、殴ったりするのでしょうか。」

その言葉に、権座は目を剥いた。権座は、若頭衆を呼び集める号令を掛けた。

「おうい、若頭ども。居る奴は全員来い。」

総勢6名の若頭が集まった。

「こっちの文治さんが、組の者が言う事を聞かない人足を殴ったことがあるかと

聞いてる。お前らの若衆で、そんな事をした奴が居るのか調べろ。」

10分程して、若頭連中は戻って来た。どこの若頭の配下も、人足を殴ることは

していない。他の組の連中との諍いでも、手を出すことはしていないと言う

ことだった。

「文治さんよ、聞いての通りだ。腕っぷしのある連中ばかりだが、立場の弱い

人足は殴って言う事を聞かせたりしねぇ。」権座は勝ち誇った様に断言した。

「はい、有難う御座います。私も、その様な事は無いだろうと思っていました。

よく、辰吉さんが来られますが、人足達に慰労をすることはあっても、叱る

ことが無く、精々、諭す様に注意される姿を見ていますので。」

「一体、誰がそんな事を言うんだ。国次か、和正か。」

「すいません、今は申し上げられません。ご立腹させる様な事を申し上げて

申し訳ありませんが、私なりに調べまして、後日、報告とお詫びをさせていただくつもりです。今は、御収めください。」

「まぁ、良い。お前みたいな奴が言うんだ、信用してやる。」「おう、若頭達、

ご苦労だった。戻って良いぞ。」

文治は、礼を言って、権座組を後にした。


二番倉の前は、竹佐の人足で一杯だった。實小路の荷を一度に運び出す作業を

始めていた。外には、何台もの車を並べ、次から次へと運び出しては戻ってくる

という作業を繰り返していた。

並べた荷は、何人もの商人が値踏みをし、入札をするということで、道路は更に

入り乱れた状況となっている。

間違って、睦井や加藤家の荷を運び出して戻すという作業も混乱に拍車を掛ける

原因になった。

現場の指示は、剛太が行い、珍しく、和正も表に立っていた。文治が運び出しの

指揮を申し出たが、剛太の仕事だと一蹴されてしまった。案の定、人足達は

混乱し、3割程の人足は何もせず、おろおろしているだけだった。剛太は呑み

込みの悪い人足を叩き、何をして良いのか分からない人足の尻を蹴ったり、

怒号を飛ばしたりと、指揮が取れない状況に苛ついていた。

和正は、商人の入札価格を見て、薄ら笑みを浮かべながら算盤を弾いて、値を

上げさせる交渉をしていく。値が決まれば、竹佐の人足を使って、車を曳かせて

送り出すという対応をしていく。

暫くすると、荷を積んだ車が戻って来て、縄が緩くて荷崩れして、返品や傷物に

なったことでの値下げ交渉が必要な状況となり、そんな荷が数件発生し、何時間も混乱が続いた。

騒ぎが収まったのは、夕方になってからで、剛太も和正もへとへとになって

事務所の席に座っていた。

「剛太さん、お話があるのですが、良いでしょうか。」文治は、ようやく話が

できる状況となった剛太に声を掛けた。

「なんだ、文治。疲れたから、手短にしてくれ。」

「先日、暇を出した三吉さんのことについてです。私が東京支社へ出向いて直ぐ

三吉さんに暇を出したと聞きました。剛太さんの指示でしょうか。」

「あぁ、あれか。文治が居ない間、国次に代りをやらせたが、三吉が国次に

色々言うからやり難いって言うんで、俺が三吉と話をしたんだが、黙って言う

事を聞かない様だったから、お前は要らない、もう来なくて良いって言ったんだ。

そしたら、次の日も同じなんで、暇を出した。」

「三吉さんとのお話しは、どんな内容だったのでしょう。差支え無ければ・・」

「あー、もう、煩い。疲れてるんだ、黙ってろ。」

「剛太さん、それでは、亀蔵さんの・・」

「黙ってろってんだ。もう疲れたから、帰る。和さん、御先っす。」

剛太の挨拶を無視し、和正は疲れていたが、算盤を弾きながら、薄笑いをして

帳簿の整理をしていた。

結局、剛太と話をすることができないままになってしまった文治は、二番倉に

戻って、加藤家への送付のための荷役を吉次に指示し、人足達で汚れた棚や床を

亀蔵達に掃除させる指示をするだけだった。


翌日、一番番頭の和正の了解を得て、睦井の荷を三番倉へ移す作業を指示した。

再度、睦井の荷の一覧を整理し、要求が有ればいつでも出せる様に整理をして、

三番倉の他の荷も同じ様な整理をすることを亀蔵に指示をした。

亀蔵は、黙々と指示された内容を進める。その進め方は、どうすれば早く正確に

できるのかを自分で考えながらであるので、順調に片付いていく。

吉次は、人足頭として荷卸しと荷積みを人足達に指示する様になっていたが、

さすがに三吉の様に無駄なく人足を動かし、人足に無理をさせないという指示は

できていない。

文治は指示の仕方を理由と共に吉次に伝えるのだが、自分の今に問題があると

認識していないので、全く伝わらない。しかし、諦めること無く、気付いた時に

毎回、指示をするという姿勢は変えなかった。

午後になって、空いた二番倉を今までの四番倉にして、出し入れの頻度が多い

荷に使うことを吉次以下、人足達全員に伝え、四番倉を二番倉に移す作業を

文治が自ら指揮を執って、通常の荷役と平行して行わせた。

余分な作業なので、どちらかが遅れてしまうと誰もが思ったが、夕刻までには

両方の作業が終わったことで、皆が驚いた。

明日からは、荷役の場所が近くなって、往復で50歩程なのだが、作業が楽に

なることを知って、喜ばない者は居なかった。

吉次も今日の文治の指揮を見て、改めて文治の指示を聞く気になるのだった。

今日も剛太は和正と共に朝一番で出掛けてしまった。残念ながら三吉の話しは

今日もできなかったと、帳簿の整理を終えて、文治はため息をついた。


實小路の荷を搬出して二日目、珍しく、店主の松風がやってきた。肥えた体を

無理に洋服に押し込め、口ひげを貯え、酒焼けした赤ら顔で、事務所の上座で

所員を集めて訓示を始めた。

「あー、諸君。今日は、我社に多大な利益を出してくれた番頭の和正君、剛太君

に賞状と金一封を渡すことにしたので、諸君らも祝ってやってくれたまえ。」

そう言って松風は賞状を読み上げ、封筒を渡した。

表彰された和正は、受賞の感想として、所員へ話をした。

「皆さん、この名誉は皆さんの努力の御蔭です。今回、倉の中に眠っていた

在庫を処分し、店の利益にすることができました。これからも、粉骨砕身、

仕事に励んでいきますので、ご協力をお願いします。」

この話に文治は、飛び上がらんばかりに驚いた。實小路家の荷は売却して、

その収益を寺子屋への支援に使うことで、實小路と約束してきた。それが、

店の収益になってしまうという報告だからだった。

「和正さん。それでは、約束が・・・」文治が声を上げると、剛太が来て文治を

事務所の外に引きずり出した。

「おい、文治。手前ぇ、和正さんの顔に泥を塗るつもりか。」

「しかし、それでは、實小路様への顔向けができません。」

「誰の御蔭で番頭をやらせて貰えてるんだ。そこん処を良く考えて物を言う

んだぞ。店が儲かりゃ、給金だって上がる。店の者達も嬉しい。和さんの顔を

潰して、喜ぶ者など一人も居やしない。」

「でも、約束が・・」

剛太は、文治の腹と顔に拳骨を食らわし、黙らせた。文治は、そのまま気を

失ってしまった。


文治が気が付いたのは、夕方になってからだった。剛太に殴られた顔は、痣に

なっていて、吉次と亀蔵が手拭で冷やして介抱してくれていた。空になった

四番倉の中である。

「あ痛たた。」文治は上半身を起こし、殴られた顔の眉間の上辺りの青あざに

なってしまった所を押さえて、顔をしかめた。

「あっ、文治さん、気が付きましたか。」吉次は、文治の顔を覗き込んで安堵の

声を上げた。亀蔵も、ほっとした顔になり、そして、泣き始めた。

倉の中は、いつも暗いが、暗さが深く、夕刻になっていることが分かる。

「吉次さん、亀蔵さん、介抱していただいていたんですね。有難う御座います。

もう、夕刻になってしまったのですね。人足の皆さんは、お帰りになられて

いますね。さあ、もう帰りましょう。」

事務所も灯りが消えて、誰も居ない。出入り口には、常夜灯と居眠りをしている

門番だけ。

通用口を出て、夜道を歩きながら、吉次は独り言の様に小声で文治に謝罪と

顛末を語った。

「三吉は俺よりも後に入って来たのに、先に人足頭になった。俺は、そんな

三吉を羨ましく思っていた。三吉は、文治さんが番頭になってから、益々腕を

上げて、だから、文治さんが三吉を好んで使っていると思ってた。文治さんが

東京支社へ出掛けてから、剛太が来て、三吉が煩いから文治さんが居ない間に

辞めさせて、俺を人足頭にしてやるから手伝えと言ってきた。亀蔵さんは、

そんな俺を止めようとしてくれたが、人足頭に成りたかった俺は、剛太が言う

通りに動いて、荷を駄目にして、三吉の責任になる様に仕向けた。そこを剛太

の奴が、損金を三吉が自分で払うか、辞めるかって迫って・・」

「仕事で起きた荷の損害は、会社が責任を取ることが決まっていますよね。」

「三吉も、そう言ったんだが、剛太が言うには、客にとってたいそう大切な物

らしく、激怒して、犯人を連れてきて、その場で首にすることを要求してきた

ということで・・」

「でも、実際に荷を駄目にしたのは三吉さんじゃ無いですよね。」

「荷を駄目にしたのは、竹佐の紹介で初めて来た人足で、次の日から来なく

なっていて、剛太は、現場責任者の三吉が代りになれ、ということでした。

剛太の奴、今日辞めれば、客の目の前で首にするなど、酷い事はしない様に

計らってやるって、恩着せがましく言って、辞める以外の道がないと仕向けて

結局、文治さんが帰ってくる前に辞めさせちまった。俺が欲を出したばっかりに

三吉の奴・・」

「吉次さん、貴方が協力しなかったら、恐らく、貴方が辞めさせられる羽目に

なっていたでしょう。邪まな計画を知った者を、そのまま放置する筈がありま

せんので。

ところで、吉次さん。一昨日、私が戻った時に、亀蔵さんが言う事を聞かないと

権座組の方が来て、亀蔵さんを殴ると言われました。何故、その様な嘘を言われ

たのですか。」

「本当は、剛太の奴が、殴るんですが、店の者が人足を殴るなんて、普通では

考えられないことで、亀蔵が権座組の紹介だってことで、つい、そう言っちまい

ました。すいません。」

「そうですか、実は、昨晩、権座親分と会ってきました。」

吉次も、亀蔵も文治の行動の速さに驚いた。そして、吉次は既に文治が自分の

嘘を見抜いていたことにも。

「吉次さん、剛太さん側に居なくて良いのですか。私を介抱したことで、今後

剛太さんから酷い仕打ちを受けることになりますよ。」

こんな状況でも、自分を気遣ってくれる文治に、吉次は恐縮するばかりだった。

「文治さん、俺と亀蔵は同郷で、亀蔵とは色々話をしてるんで。三吉をはめた

時だって、こいつは、色々、忠告してくれた。ただ、こいつは口数が少ないんで

こっちは、亀蔵の言いてぇ事が分からねぇことが少なくなくて、無視して動いて

後で、亀蔵の言葉が思い出されるってことが良くある。んで、こないだも、

三吉を追い出した後で、亀蔵から三吉が人足頭をやれてたのは文治さんが居た

御蔭で、三吉と一緒に居た亀蔵から文治さんが教えてくれた人足頭の仕事の

やり方を、俺が教わった。文治さんが仕事を教えてるなんて、人足の時には

全然分からなかった。」

吉次は、改めて後悔の念を強くしたという呈で、言葉を区切った。

「三吉の指示で、人足達は凄く楽に仕事ができる様になった。それが文治さんの

教えで、今、人足頭をやらせてもらえているのも、亀蔵から聞いた文治さんの

教えの御蔭。そんな文治さんを殴る剛太の事なんか・・」

「吉次さん、亀蔵さん、仕事は仕事です。仕事をする上で、嫌な人と仕事をする

こともあります。仕事は、その嫌な人のためにするのでは無く、お客さんの為

そして、自分の家族のためにするのです。そして、世の中に役立つためにする

ということです。仕事という字は、仕える事と書きます。何に、誰に仕えるのか

ということを考えた時に、お客さんや自分の家族だと思えば、その嫌な人を飛び

越して、その先を見れば良いのです。」

二人とも、目先の剛太や和正を嘆いていた顔から、明日の希望を思う顔へと

変わった様だった。

「一つだけ。嫌な人でも、策略を以って陥れることだけは止めましょう。その

人たちは、自ら、後悔する事態に墜ちていくのですから。」と、文治は剛太

達を蹴落とすことをやりかねない二人に釘を刺した。


翌朝、文治は、顔の痣を気にする風でも無く、和正の前に立って實小路資産

売却益の供出交渉をしていた。

だが、和正は、實小路家の在庫の売却益を寺子屋支援に使うことを反対した。

所有権が放棄されたのであれば、自社でどの様に処理しようが勝手である。

既に社長へ報告済みの様に全額を自社の収益に組み込むことにするというもの

だった。

それでも、文治は、収益に組み込んだ後、店が慈善事業をするという名目で、

寺子屋支援をすることができないか、店として収益は帳簿上で計上できるし、

世間には、慈善事業を行っていると名を売れ、實小路への面目も立つという

丸く収まる提案をしていた。

だが、正和は聞く耳を持たなかった。松風も和正も利益は自分達が贅沢する

ためにあると考えているからだった。

文治も、人足達の管理業務を担っているので、それ以上の時間を費やすことは

しなかったが、最後に「それでも、もう一度、ご検討ください。」と言い残し

通常業務へと戻って行った。


昼前に、事務所は張り詰めた空気になっていた。丁度、文治が午後の予定表を

取りに戻った時である。権座組の辰吉が剛太と睨み合いをしていたのだ。

昨日、配送途中で、事故が発生し、権座組紹介の人足が大怪我をした。その

原因の一つに荷崩れしそうな程、大量の荷を車に乗せたことにあるという事で

収益優先で安全管理に手落ちが有ったことに対する責任の所在と補償、再発防止

を要求するものであった。

文治は、船と倉の間の担当番頭だったので、蔵出しから配送は関与することを

許されなかったこともあり、権座組の者の話しを横で聞いて驚きを隠せなかった。

運輸の業界では一回運ぶ人足手間賃は一定なので、一度に大量の荷を運ばせる

ことは常識なのだが、人足の安全を脅かす程の荷役をさせていることには道義上

問題であるとは否めない。

「辰吉、人足の上前を撥ねて稼いでいる奴が偉そうに言うんじゃねぇ。」剛太は

権座組若頭の辰吉に凄んでみせた。「権座組が人足を出せねぇってんなら、

明日っから来なくていいんだ。他の組からの人足なら、幾らでも出させられる

からな。」

辰吉は口を真一文字に結んだまま、立ち上がり、踵を返して事務所の扉まで進み

こちらを向いて深々とお辞儀をしてみせた。

「長らくのお付き合い有難うごぜえやした。」精一杯の大声で挨拶をした後、

辰吉は、荷役の各現場へ出向き、権座組が紹介した人足達を次々に呼び、一人

ひとりに同じことを伝えた。

たった今から、権座組はこの現場から手を引く。今日は、もう帰っても良い。

今日の日当は、権座組が出す。明日からは別の現場へ行ってもらう。

という趣旨を伝えた。最初は戸惑っていた者たちも、一人二人と帰り始めると

権座組紹介の人足の大半が帰っていく事態となった。

亀蔵は、文治に気を遣って、帰ろうとはしなかった。

「亀蔵さん、御帰りになって結構ですよ。いや、むしろ、お帰りになった方が

良いと思います。」そんな、亀蔵を見て文治は忠告をする。

給金の支払いは、権座組が担っているのだから、今の仕事を放棄する指示が出た

のだから、これに従うことが当然のことなのである。安全を確保するつもりの

無い店に勤めるのは、命を代償に得る物が有れば仕方ないが、そうでなければ

避けるべきであるという理屈は、当然のことである。命を金で買われていった

ハツのことが脳裏を過ぎる文治には、亀蔵を犠牲にすることなどできない。

一段落ついた時点で、亀蔵も帰ることになった。亀蔵は吉次に文治の事を頼み

何度も振り返りながら、出て行った。

配送を担当する国次は、真っ青になって二番番頭の剛太に状況を報告し、前後の

見境無く大騒ぎとなっていた。人足の半数は権座組の紹介で来ている。配送には

期限があって、遅れると文句が来るだけでなく、遅延の補償をすることになって

いるので、損金が膨大になる。

昼から配送に向けた荷を車に積みつつある時に権座組紹介の人足達が帰って

しまったので、店の前には車と荷とが山積みになったまま放置されて、残った

人足達だけでは処理できないと、他の人足達は諦めて座り込んでしまって、

何も手が付けられないままとなっていた。

文治の担当する船からの荷下ろしと船への荷積みも同様に歯抜けになった荷役

現場は完全に麻痺状態となった。それでも、荷下ろし作業は午前中で終わって

いて、帰り船への荷積みは量が少なく、吉次の采配であれば、残った人足でも

定刻まで掛からない状況となっている。

一番番頭の和正はいち早く姿を晦まして、剛太は配送の人足達を大声でけしかけ

国次は、配送先へ電話を掛けて配送遅延の補償請求をしない様に依頼をする

対応を続けるという状況に陥っていた。


翌日から、剛太が頼んだ竹佐の人足達が大量に入って来た。だが、右も左も

分からない者達が、上手く動ける筈も無く、まして、字が読めない、数も数え

られない者も多く、混乱に拍車が掛かった。

そんな状況になると、運輸の依頼は減り、定期での輸送契約も打ち切りになり

補償請求だけが重く圧し掛かってくる。負の螺旋を描きながら落ちていくだけ

となって、使う人足も減り、使われなくなった車が倉の前に並んだままになり

活気が無くなっていく。

月末の給金支払いの時に、店主の松風が来て言った。

「商売の量が減ったので、事務の量も減った。要らぬ事務員を雇っておく余裕は

無いので、要らぬ事務員は辞めてくれ。」

文治は一番に辞意を申し出た。店は、中核を失うことになるのだが、店主には

一番番頭、二番番頭が自分の成果として報告していたので、文治を失うことの

人材資源への影響を測ることもできず、慰留は形ばかりのものだった。

「吉次さん、米太さん、梅五郎さん、・・」文治は、人足達全員に声を掛け、

退職することを伝えた。

吉次は、亀蔵が居なくなり人足達の範となる者を失い、次の者を指導し亀蔵の

代りの者達を育成することに注力していた。それには、文治の助言を必要と

していたが、今度は、文治をも失うことになった。

頼りにしている者が居なくなると、自らの努力で克服することを目指すのが

普通なのかも知れないが、居なくなる原因が店の番頭であることを知っている

ので、吉次は自助努力をする気力が湧いてこない。

気力が失われると、全てのことが暗転していく。小さなことで間違いを犯したり

人足達への指示が不正確で何度もやり直しが生じたり、そうしたことで、焦りが

生じて、更に間違いが起きてしまうといった具合である。

二番番頭の剛太は、間違いを犯す吉次に怒ったり怒鳴ったりするのだが、人足

を減らした今となっては、吉次以上に人足頭を任せられる者が居ないことは

十分に理解しているので、何の手も打てない。

文治が去った二日後には、船の荷を下ろし忘れ、帰りの船に荷を乗せ忘れ、

諦めずに利用してくれていた大手の丸金が、終には、利用を止めると通告して

きた。

剛太は、吉次に暇を出さざるを得ない状況となってしまった。代わりとなる

人足頭が居ないので、剛太は番頭の国次にやらせることにしたが、その指示を

受けるや、国次は、邦に帰るといって辞めてしまった。

仕方なく、年の入った人足に人足頭をやらせるといった付け焼刃で対処を決め

正和へ判断を仰ぐことにした。

要領だけで生きてきた者に急場を凌ぐ技量も無く、店主の松風に相談するから

任せると言って、そそくさと出掛けて行ってしまうのだった。

こうなっては、奈落の底へ落ちていくのと同じで、店を閉じるまで二週間も

掛からなかった。


文治は、退職して東京へ向かった。實小路や吉永への詫びのためである。

實小路へも吉永へも事実を有りのままに報告した。何か言い訳をして誤魔化す

ことも、沈黙して何も語らずという選択肢も有るのだが、文治は、實小路や

吉永に人として接することしか考えなかったので、事実を報告する以外の方法は

見つけられないということである。

ただ、人は得てして誰かを悪者にして語ることが多いが、文治は悟りを開いた

者の様に、人の欲深さという性に問題を一般化して、松風、正和、剛太を悪者に

して語ることはしなかった。人であれば、誰もが陥る可能性のある事だからと

文治は付け加える。

顔に殴られ痣になったままで語る文治の言葉には、その客観性の故も有って、

實小路も吉永も、文治が次に何かを依頼なり要求なりをするだろうと感じて

文治の言葉を待ったが、文治は詫びの言葉で締めくくって、語りを終わって

しまう。


「文治君、売却益を一旦、店の利益にして、それを寺子屋支援という地域貢献を

店がするという提案は、かなり面白い。こちらに支援用の費用が回ってこなく

なるのは悔しいが、それでも、私を納得させるに十分な提案だ。それも出来なく

なってしまったのは非常に残念でたまらない。文治君の考え方を伝える方法を

私も利用させてもらって構わないかね。」

吉永は、寄付金集めに苦労していたので、寺子屋へ近隣の大店が直接支援をする

ことで、地域への貢献も、次の世代の客層獲得へも大きな意味があるという

内容を伝えることで、寺子屋支援を伸ばしていくという案で説得する方法を

使ってみることに文治の許可を求めた。

「吉永さんなら、色々な人脈をお持ちですので、きっと上手くいくと思います。

私も、もう少し信頼を得ておけば、違った結果となっていたのかも知れません。

やはり、半年の奉公では無理があったと感じています。」

「文治君、それで、これからどうするつもりなのかね。」

「はい、この後、實小路さんを訪問させていただき、同じ報告をさせていただく

つもりです。身の振り方は未だ決めていません。

ただ、先に辞めてしまったことで、人足さん達を置いてきてしまった形になって

いますので、人足さん達の困りごとへ微力ながらお手伝いできることを考えたい

と思っています。」

「文治君、人足諸君の処遇は君の責任では無いし、紹介元が人足の面倒を見る

のではないのかね。」

「はい、そうかも知れませんが、退職を余儀なくされた方々もいらっしゃいます

ので、少なくとも、その方々がお困りになっていないかを心配しています。

お困りの程度にもよりますが、私がお手伝いすることが良いと判断した場合には

その様にしたいと考えています。」

「そうか、君が責任を感じる必要も無いと思うが、そこまで決めているのなら

何も言わない。ただ、私と共に活動をすることを勧誘する。その気になったら

何時でも来たまえ、歓迎するよ。」

「お心遣い有難うございます。再び、お邪魔できれば良いと思います。」

吉永は若い文治の将来が楽しみで仕方がないといった風で、文治を送り出した。


「文治君、所有権を放棄したのだから、その後、どんな事になろうが、儂は

気にしておらんよ。君の顔の痣が、君の苦労と誠実さを語っておるから、何も

言う事は無い。そうだ、今日も夕食を一緒にしよう。職を失ったのだから、

急いで帰る必要も無くなったのだろう。」

「有難うございます。まだ、夕刻までには時間が長いので、出直して参りま

しょうか。」

「何を言っておる、先日は早々に逃げられてしまったのだから、今日は逃が

さんぞ。茶でも飲みながら、話を聞かせてもらう。」

實小路は、文治が気に入って話しをしたくて仕方ないという気持ちを隠す事無く

文治を自分の書斎へ誘った。

文治は、十分に顛末を話したつもりだったが、實小路の誘導に三吉の事や亀蔵

吉次などの人足達の話し、三吉と共に荷役を改善してきた事まで語ることに

なっていった。

当然、實小路の死蔵在庫の始末を思い立った切っ掛けも、荷役作業を軽減させる

ことを目指す手段の一つであることも語り、吉永、加藤、睦井の対応結果まで

語ることになった。

實小路は、人足達の負荷を軽減するために足かせとなっている課題を、そんなに

までして、解決していっこうとする文治に疑問を投げ掛けた。

「文治君、人足達は与えられた荷役を言われたままに行うのが役務だ。彼らの

作業軽減をしてやるという考えは、どこから来ているのかね。」

「はい、人足さん達も同じ給金を稼ぐにしても楽な作業の方が良いに決まって

います。楽な作業であれば、早く済ませることもできます。そして、早く片付け

られれば、余った時間で次の荷役をしてもらうことができます。多くの荷役を

してもらえれば、店としても儲かりますので、給金を弾むこともあります。

人足さん、御店、共に嬉しい状態にすることに手助けをしない手は無いと考えて

います。」

「その楽にしてやるという事を君がするのかね。」

「現場を一番知っているのは人足さん達です。人足さん達が自ら楽になる様な

考案をすることが最も効率的です。しかし、通常の荷役作業がありますので、

荷役作業を止めて、楽な作業になる為のやり方を変えるということは現実的

ではありません、では、誰がするのかというと、人足さん達を現場で指示する

役目の人足頭ということになります。それが、先にお話ししました三吉さんや

吉次さんです。人足頭の方々も、紹介されて働いていますので、店の許可無く

人足さん達の指示以外をすることは許されていません。そこで、店側の私が

許可を出しながら、更に楽になるための荷役作業の変更についての示唆をした

ということです。」

「なるほど。情けは他人のためならず、ということか。」

實小路の書斎には立派な背表紙の書籍や綴られた文書等が書棚に並び、外国語

と思しき書籍が読みかけであると思われる状態で積み上げられていた。

外国語に触れたことが無い文治には、何が書かれているのか非常に興味のある

書籍達である。

「實小路さん、あちらの書籍は、どんな書籍なのですか。宜しければご紹介

いただけませんか。」

「おっ、流石、勉強家だな。よし、見せてやろう。」

そう言って、手近な数冊を持ってきて、表紙の外国語を発音しながら、最初の

数ページを外国語、日本語の順で口に出して読み、文治に手渡した。

商売の理論や科学の論文、物語と分野が一定ではなかったが、實小路jが外国語

に堪能なのは良く分かった。所々で外国語をそのまま言うので、文治には理解

できない箇所もあった。文治が聞き直すと、日本語では適当な言葉が無いと

いうことで、外国語をそのまま使うということだった。日本語に無い概念が

外国語にあることが文治には新鮮な驚きだった。

「こいつ等は、香港に寄った時に手に入れたものだ。香港はイングランドの

植民地だから、そこに居留しておる者から譲り受けた。その者は、任期が終る

ので、本国へ帰るということで、結構気前良く譲ってくれた。私も、その商売

理論というのは、未だ読んでおらんが、文治君の役に立ちそうだから、進呈

しても良いぞ。」

文治は、外国語が全く分からないし、書籍を自分で所有することも経験が無く

どの様に対処すべきなのか判断が着かなかった。だが、与える気満々の實小路

の目は、断るなと言っていたので、文治は有難く貰うという返答しかできな

かった。

「實小路さん、外国語がご堪能の様ですが、どの様にして身に付けられたの

ですか。」

褒められた實小路としては、自慢したいので、日本に居留する外国人と友人に

なって、外国語を学んだこと、實小路の父親が外交団でアメリカやヨーロッパ

イングランドの植民地の幾つかを回ったが、その幾つかへ同行したこと、その

結果として外国語を身に付け、今では、渉外担当の重要な職務を任されている

ことを語った。

「文治君、君は博識で、人と接することが得意な様だから、次の洋行には、

私と共に渉外に加わってくれんか。そうすれば、外国語も学べるし、その本も

読むことができるだろう。」

實小路が文治に書籍を与えたのは、この為の布石ということだった。

「突然で、直ぐには返事ができません。暫く、考えさせてもらえますか。」

「まぁ、そうだろうな。次の洋行は来年の夏の予定だ。渉外担当として共に

洋行するには、手続きが必要となる。春には手続きに入らねばならん。年明け

には、返事をしてくれたまえ。」

既に、實小路の策略に嵌ってしまっている文治にとって、了承するしか手が

無かった。

その後、實小路は葡萄酒を飲みながら、文治は紅茶を飲みながら、それぞれの

思いを巡らせ、時に談笑し、時に真面目な議論をしながら、午後の時間を過ご

した。話しが先日の實小路の洋行について及んだ時に、使用人の金丸が入って

来て夕食の準備が整ったことを告げた。


食堂へ入っていって、また驚いた。先日夕食を共にした面々が今回も揃って

いて、面子が増えていた。

「今晩は。ご無沙汰しております。また、初めまして、文治と申します。」

「諸君、多忙の中、今宵の宴に参集してくれて有難う。佐々と姉尾は知って

おるな。神崎、白井、多羅尾、これが噂の文治君だ。」

先般、一度夕食を共にしただけなのに、佐々と姉尾は神崎達に文治と面識が

あることを自慢した。彼らの中で、文治がどれ程噂になっていたのかが良く

分かる。

「本当に若いな。私が彼の年齢時代には女の尻を追い回していたぞ。」

「實小路の言うように、本当に切れるのか。借りてきた猫みたいだぞ。」

「顔は、そんなには整っていないが、冒頓として話しやすい感じではあるな」

神崎、白井、多羅尾は、好き勝手な第一印象を口にした。

「まぁ、諸君、先ずは再会を祝して乾杯をしよう。」

給仕の注ぐ酒や葡萄酒が揃うのを待って、文治と實小路以下5名が揃って乾杯

をした。

誰が酒を好み、誰が葡萄酒を好むのか給仕は心得ていて、酒の好みを聞いた

のは文治だけだった。文治が酒が飲めないことを告げると、「では、乾杯の

ために、形だけご用意します。」と気を配ってくれた。

「實小路殿、立派な装飾をされておりますな。これらは、洋行時の土産ですか

な。」

「おぉ、神崎は拙宅に来るのは初めてだったな。先の洋行で手に入れた物は

ここには置いてはおらん。ここに飾ってあるものは、父親の趣味で手に入れた

ものばかりだ。諸君の気に入った物があれば、物によっては進呈しても良い。

そろそろ、私の物に入れ替えようと思っておるのでな。」

「この壺が、先程から気になっていて、譲ってくれるか。」

「グラスの壺だな。構わんよ、進呈しよう。他との調和が取れとらん物だから

最初に片付けようと思っておった物だ。おい、金丸。あのグラスの壺を神崎殿

のお宅へ送っておいてくれ。」

「實小路殿、グラスの壺とは何かな。私は、あのギヤマンの壺のことを言って

おるのだが。」

「ああ、イングランドではギヤマンのことをグラスという。諸君、今後、諸外国

と付き合うのなら、グラスという表現をしていくことだ。」

「神崎宅はギヤマンが揃っておって、朝方は朝日で眩しくて落ち着いて朝食も

できん位だ。」多羅尾が、グラス好きの神崎をからかう。

「何を言っておる。多羅尾には、ギヤマンの魅力が理解できとらん。この葡萄酒

を飲むときも、陶器の盃よりもギヤマンの方が旨い。そして、陶器よりも繊細で

割れやすいので、丁寧に扱わんといかん。優しく食器を扱うことなど、貴君には

できんことだろう。」

「また神崎のギヤマン話が始まった。グラスだからな、グラス。」

給仕が食事を配膳する間に金丸が来て、實小路に耳打ちし、實小路が頷くと

金丸は、もう一人使用人を連れてきて壺を棚から下ろし、運んで行った。

宴が明けてから送る対応をするだろうと思っていた文治は、即座に対応を始め

客の邪魔にならない配慮をする金丸の対応に驚いた。非常に対応が早く、他の

客たちは、気付いていない様であった。

神崎達だけでなく、旧知と自慢していた佐々と姉尾も加わって文治への質問攻め

が始まった。年齢から始まり、實小路と知り合いになった経緯、今の仕事と

いったことを聞きたがった。

途中では、實小路の自慢話が割り込み、その自慢話が他の客達の自慢話へ飛び

賑やかな宴となった。文治が席を立って、酒を注いで回ろうとした時には、

給仕の女性が、客の好みの酒瓶を文治に渡してくれたので、客は喜んで受けて

くれるといった状況となった。

前回、約1か月前は、そんな事は無かった様に思う。文治は、一旦、食堂を出て

行き交う給仕の女性を呼び止め、率直に質問をした。

「すみません、少々お尋ねしたいのですが、宜しいですか。」

「はい、文治様、何でしょう。」

「えっ、私の名をご存じなのですか。」

「はい、主人からお客様の名前を覚える様に言われていますので、我々、全員

今日のお客様のお名前を憶えております。」

「以前から、その様な対応をされているのですか。」

「いいえ、丁度、一か月程前から主人に言われまして、最初は、上手く覚えられ

なかったのですが、最近になって、ようやく、覚え方が分かる様になってきて

お客様をお名前で呼ぶことができる様になりました。」

「凄いですね。普通ではやられていないので、名で呼んでいただけると、何だか

嬉しいですね。お尋ねしたかったのは、お客さん達の好みのお酒を注いで差し

上げることができるのは何故なのでしょうかということでしたが、今のお話で

お客さんの名前と共に好みのお酒も覚えられているということでしょうから、

疑問が解けました。有難うございます。御呼び留めして給仕作業を遅らせてしまい

申し訳ありませんでした。」

給仕の女性は、笑顔を見せて調理場へ戻って行った。

文治が、食堂に戻り、出された料理に手を付けた時に、金丸がやって来て實小路

に何やら耳打ちをした。實小路は笑顔で頷いて、金丸に指示をした。

程無く、金丸が数人を引き連れて入って来た。それを見て、實小路は立ち上がり

一つ咳払いをしてから、

「諸君、紹介しよう。執事の金丸と今日の宴を準備してくれている我が家の

職員達だ。」

客の佐々、姉尾、神崎、白井、多羅尾は、怪訝な顔をしている。何故、使用人

を紹介するのか理解できないといった風である。

「何故、我が家の職員を紹介するのかというと、実は、文治君と関係がある。」

全員が、文治を振り返った。文治は、目を剥いて驚きの表情をしている。

「佐々君、姉尾君、私が君らを誘って文治君と宴を開いたことは覚えておるな。

最初は、君らも、神崎と同じ様に、私が何故若造の文治を気に入ったかと聞いた

が、その後、話をしていく中で、文治君の努力と行動力を知って納得してくれた

と思う。そこでだ、仮にも貴族院の私が、文治君に劣る様なことが有っては

末代までの恥だと思った。」

客の面々は、軽く頷いて同感との意図を示している。

「そこで、文治君が行動の目的というものを常々考えている、また、周囲の

者に考えさせる行動をしておる。その考えさせることが、非常に有効に機能し

文治君の思惑通りに事が運ぶという結果をもたらして居る。

そこでだ、私にも、それができることを証明してみようと思った。私の周囲の

者で、私の話しを黙って傾聴してくれる者といえば、ここに居る職員諸君だ。

私が、彼らをして、職務の目的と期待する結果を考えさせ、また、相互に欠く

ことのできない存在であることを認識してもらって、何をすべきなのかを考え

行動してもらうことにした。

未だ、十分だとは言えないが、今日は、その成果が一つ出ておることに諸君は

気付いたかね。流石に文治君は気付いた様だが。」

5名の客は、互いに顔を見合わせ、何の事なのか全く分からない様だった。

「文治君、気付いた事を、この頭の硬くなった連中に披露してやってくれんか」

文治は苦笑しながら、それでも、使用人達を褒めたくて口を開いた。

「流石としか言い様がありません。多くの気遣いがされていますので、私が

気付いた順に説明させていただきます。

先ず、乾杯の前ですが、皆様のお酒の好みを分かっていらして、酒と葡萄酒を

最初から注ぎ分けてあります。」

5人は、気付いて食卓を確認した。

「私が、皆様へ注いで回らせていただいた時も、お好みに合わせて私に手渡し

てくださいました。次に、神崎さんが望まれたグラスの壺についてですが、

即座に運び出され、今は、一輪挿しに代わっています。」

5人は、ギヤマンの壺が一輪挿しに代わっていることに気付いて感嘆の声を

上げた。實小路も代りに一輪挿しが置かれていることに、気付いて驚きの表情

となっていた。

「一輪挿しも、この部屋の雰囲気を壊す様なものではありませんので、その

一輪挿しを選んだ方の配慮が感じられます。」

使用人の中の女性がはにかんだ様に下を向いたので、選んだ者がすぐ分かる。

「他にも、料理の内容に配慮がされていると思っています。白井さんは、西洋

野菜がお好みではない様で、お肉が出てきた時に、付け合わせの野菜が白井さん

だけ、違う種類でした。實小路さんのお皿には、肉の代りに魚が載っていまして

渋い顔をなさった實小路さんが給仕の方に苦情を言われ、一旦、厨房へ行かれた

給仕の方が戻って来た後に、實小路さんが渋い顔のままで、魚を召し上がった

ことから、實小路さんの体を気遣っての料理だったのだろうと思いました。

如何ですか。」

これには、厨房の者も給仕の者も驚いた顔をした。

「おい、文治君。何で、そんな事まで分かるんだ。まるで探偵みたいだ。」

實小路が上ずった様な声で言った。客の5人は、隣同士で感想を言い合った。

「すいません、種明かしです。先に廊下へ出た時に、給仕台車が置いてあり

まして、そこに紙が貼ってありました。その紙には、席にお名前と、お好みの

お酒、料理、注意する内容が細かく書かれてありました。それを拝見させて

いただいたものですから、先の発言となりました。」

「おい、儂は實小路宅へは初見だぞ、何で好みだとかが分かるんだ。」神崎は

使用人達が自分の好みを知っていることに気持ち悪さを感じて声を荒げた。

執事の金丸が一歩前に出て、深々と礼をしてから、釈明をした。

「神崎様、出しゃばったことをしてしまい申し訳ありません。

本日、神崎様がいらっしゃることを主人から伺いまして、我々、使用人の間で

初めての方にご満足いただくためには何をしたら良いのかを話し合いました。

気持ち良くご歓談いただくためには、お客様の好みに合わせて酒や料理を提供

させていただくのが我々の目的の一つです。ですが、神崎様の好みが分かり

ませんので、どうしたら良いのかということです。

我々の中に、神崎様へお仕えする者の知り合いが居りまして、その者が神崎様

のご邸宅へ伺って、神崎様の使用人に聞いてきた内容で対処させていただいた

ということで御座います。」

神崎は、そんな事か、という顔をした後、

「だが、儂が来ることにしたのは、2時間程前だ。そんな短時間で拙宅へ来て

話しを聞いて、それに合わせた対応ができるものなのか。」神崎は率直な疑問

を投げ掛けた。

「正直申し上げて、我々も間に合うのか心配でした。神崎様のご邸宅の近くに

電話局がありますので、電話局で電話を借りて、お好み等の内容を素早く伝え

られましたので、間に合わせる事ができました。」

その後、使用人を金丸が一人ずつ紹介し、各々が何を担当したのかを簡単に

報告していった。

5人の客も、實小路も感心しきりといった表情で、彼らの報告を聞いた。

そして、これが文治の考えさせるという効果であることを改めて実感したので

あった。

「諸君、如何かね。神崎君のくだりは私も知らなかったことだが、我が職員に

皆で目的達成について考える事をしてもらった結果だ。」

實小路は、得意満面となっている。

「ご主人様、もう宜しいでしょうか。酒の燗が冷えてしまいますし、食後の

果物などの準備もありますので。」給仕の女性が言い出した。

「おう、済まなかった。戻ってくれたまえ。」

「はーはっは。實小路、仕事の邪魔は、程ほどにしないと、御主が職員に指導

されることになるぞぉ。」と、佐々。

「まったくだ。負うた子に教えられるとは、このことだ。」と白井。

5人は、顔を見合わせて笑った。

文治は、笑顔で一言、「それも、實小路さんが、彼らに自ら考えて行動する

という習慣を与えられたからですよね。素晴らしい集団に育てられたと思って

おります。」

この言葉に5人は顔色を無くし、真顔に戻っていた。

「おい、實小路。儂にも、そのやり方を教えろ。」「俺にも」「儂が先だ」

今度は、文治と實小路が顔を見合わせ、苦笑する番だった。

その後、實小路が全員の前でやってきた事を披露して、単純だが、なかなか

できないことをやってきた自慢話となった。その間にも、給仕の者が酒の肴を

運んでくると、給仕の仕種や応対に一々感心し、大げさに感動する面々が居た。

普段なら、酒が進み大半の者が客間に泊まっていくと言い出すのだが、今日は

酒量もそこそこに、一人が帰ると言うと、他の者も全員が帰ると言い出した。

早く帰って、實小路の使用人と同じことを自分の使用人にも施して、他の4人

よりも早く成功させ、自慢したいと競争心が出てきたからなのだろう。

ここでも、實小路家の使用人は気を回し、車を用意した上で、当然の配慮なの

だが、早く降りる者を後から乗ってもらうために、それを意識させない様に

上着や帽子、杖などを、順に用意して渡す、車に乗せるという対応をした。

中には、先に上着を出す事を要求する者も居たが、使用人の対応としては、

上着の塵落としの時間を調節することで、車に乗せる順は、当初の予定通りと

なっていた。

このとき、5人は、その対応に気付いていなかったが、車を降りる段になって

「やられた」と微笑むのだった。


「さて、文治君、今日は私も疲れたので、これで休ませてもらう。今日は用意

した客間が無駄になってしまうので、君だけでも泊まっていきたまえ。」

「では、お言葉に甘えまして、客間を使わせていただきます。」

「金丸に言えば、宿屋に予約取消連絡をしてくれるから。じゃ、お休み。」

酒も入って、自慢話を心行くまでして、心地良い疲れで、實小路は寝室へと

消えていった。

「文治様、今日は、色々助け舟を出していただいて有難うございました。」

金丸は、文治を客間に案内しながら、礼を言った。

「ひと月前でしたら、主人が期待する内容以上のことをすると、怒っており

まして、今日も、怒ってしまわれるのではないかと、心配していました。」

「金丸さん、實小路さんへ何度か耳打ちをされていまいたよね。そのことで

實小路さんは、大部分が報告されていた、また、實小路さんの意図通りの対処

ができたいたと思われたのではないでしょうか。細かなことで、ご相談される

と、そんな事まで相談するのかと疎ましがられますし、ご相談無しで対処され

ますと、勝手に処理をしたと、ご立腹になります。適度に、ご報告なされば、

意図に反しなければ受け入れられます。また、そうした対応が続けば、金丸

さんのご対応に信頼を置かれ、お任せになるると考えられる範囲が広がって、

余程のことが無い限り、ご立腹になることは無いと思います。」

「そうですか、今迄、良かれと思って対処して参りました事柄でも、お気に

召さない場合がありましたのは、ご報告を差し上げずに行ってしまった事に

あるのですね。」

「そうですね。更には、實小路さんが、皆さんに考えて行動をして欲しい、

皆で話し合って行動を決めて欲しいとのお考えですので、今後は、簡単な報告

をされるだけで、色々、受け入れてくださる筈です。」

「分かりました。有難う御座います。」金丸は、納得が行ったと微笑んだ。

「文治様、主人が申しておりました様に、宿の宿泊予約を取り消す連絡を致し

ますので、ご予約をされた宿を教えていただけますか。」

「金丸さん、実は、宿の予約をしていません。職を失っていますので、節約で

空きが有りそうな宿へ遅くに入って、値引き交渉をするつもりでした。宿も

空きにするよりも、少しでも稼働させたいと考えることが多いので、交渉次第

で、値引きに応じてくれる所が少なくありませんので。」

「左様でございますか。では、お部屋に案内しましょう。風呂は、部屋に有り

ますので、ご自由に使っていただいて構いません。それと、夜食に何か摂られ

ますか。」

「有難うございます。では、遠慮無くお願いします。夕方にいただいた紅茶が

とても美味しかったので、あれを頂けますか。」

「御褒めいただいて有難うございます。主人からも私が淹れる紅茶については

御褒めの言葉を頂いています。後ほど、お持ちします。では、ごゆっくり、

おくつろぎください。」

女中が風呂と寝床の準備をしてくれている間に、金丸が紅茶を淹れてくれた。

「文治さん、少し、お話を聞かせていただけますか。」

「金丸さん、何でしょう。」

「次の主人の洋行には、文治さんも同行されるのですよね。」

「いや、未だ、同行するかは決めていません。實小路さんには、暫く時間を

いただいています。」

實小路の策略の結果として、文治が逃げないと金丸は確信している。文治も

断れないことは百も承知なのだが、同行の返事は未だしていない現状を強調

することがせめてもの抗いだった。

「何れにしても、お屋敷へ足を運ばれることになるかと思います。そこで、

先の神崎様ではありませんが、常連の来客として、文治さんのことを伺って

おきたいのです。」

「はぁ。私見ですが、本日給仕されたことで、私の好みや癖等は既に観察され

お分かりになっていると思います。違いますか。特に、先程まで準備されて

いらした女中の方は、先々を考えて体が動く様ですので、私が自分の好みや

癖等を説明する内容以上のことを把握されているのではないかと思います。」

「流石に、文治さんには通用しませんですね。申し訳ありません、実は、主人

を、あそこまで変えた文治さんの人となりを伺いたくて、少し、お話をさせて

いただけたらと思いましたが、お客様に、その様なことをお願いする訳には

いかないと考え、見透かされるかも知れないとは思いましたが、言い訳にして

お話をしたいと申し上げました。大変、失礼を致しました。それでは、御体を

お安めください。」

金丸は、深々と頭を下げ、退室しようと後ずさった。

「ああっと、金丸さん。」

文治は、慌てて金丸を呼び止めた。

「私も金丸さんとお話をしたいと思っています。できれば、本日の職員の方々

全員とお話ができれば幸いなのですが。」

金丸は、目を丸くした。文治の真意が読めないからである。

「金丸さんがおっしゃった様に、こちらのお屋敷には、これから何度かお邪魔

することになると思います。本日のご対応の裏側を實小路さんが暴露されて

いましたが、私は、皆さんの素晴らしい連携ができていることに感心していま

して、その連携ができる理由を知りたくなりました。今までの経験では、ここ

迄上手く連携できていることを見たことがありません。それから、ご主人の

實小路さんのことを詳しく伺えると嬉しいと思っています。」

金丸は、合点がいったと頷いて、

「有難うございます。では、食堂へ集合させます。」と言って退出しようと

踵を返した。

そこで、また、文治は金丸を引き留めた。

「金丸さん。先にお風呂をいただきたいのですが、良いですか。」

「あ、そうでした。紅茶を召し上がって、お風呂を出られましたら、お声がけ

ください。私は、主人の寝室の隣に居りますので。」

文治は、手早く体を流し、冷めかけた紅茶を一気に飲んで、10分程で金丸の

部屋へ行った。確かに、隣の實小路の部屋の前を通った時に、いびきが聞こえ

寝ていることが伺える。

金丸は、たった10分程で文治が来たことに少々驚きつつも、職員を全員食堂に

集めると言って、文治には食堂で待つ事を求めた。

文治が食堂に入っていくと、既に料理服を着た二人が話し込んでいた。二人は

直ぐに文治に気付いて挨拶をした。

「文治さん、今晩は。」「今晩は、今宵の食事は、大変美味しかったです。

ごちそうさまでした。そして、有難う御座いました。」

料理人の二人は、文治の言葉に顔を見合わせた。美味しかったという感想は

普通なのだが、料理に有難うと言われた事は無い。

直ぐに、給仕をしていた女中や金丸が入って来た。

「文治さん、お待たせしました。どうぞ、お掛けください。」

文治は椅子の背もたれに手を掛けたが、他も者達は動こうとしない。周囲を

見回してみると、部屋の準備をしてくれた女中も居ない。

文治は、振り返って金丸に提案をした。

「金丸さん、私だけが腰掛けて皆さんが立ったままですと、話ができません。

恐らく、皆さんは、お客様用の椅子を遣うことに抵抗があるのだと思います。

そこで、皆さんが普段使われているお部屋を借りて、そちらでお話をさせて

いただけませんか。」

職員は全員、互いの顔を見合わせて、どう返答したものかと迷ってしまって

いることが分かる。

「分かりました。その様にしましょう。」金丸は、職員達が困惑している事で

時間を浪費することを嫌って、文治の提案を受け入れることにした。

「早苗、ハナに、女中部屋に行くことを伝えておくれ。それから、金井に食堂

に鍵をする様に言っておいてくれるか。」

金丸は文治を女中部屋に案内しながら、女中の早苗に指示をした。

實小路家は洋館であるが、女中部屋は、一段上げた畳敷きの部屋となっていた。

そこに、文治、金丸の他、料理人3名、女中2名が車座になって座った。女中

の横には、2名分の空きがある。先程の早苗とハナが座るのだろうと思われる。

「さて、自己紹介をすることにしようか。」金丸が隣に座る料理人に手を差し

発言を指示した。

「初めまして、料理長をしてます由井です。」「わ、和食料理、た、担当の

梶山です。」「中華、洋食担当の加藤です。」3人の料理人は、自分の役割を

含めて名乗った。

「・・・」

その横の女中は、かなり若く、食堂に入って来て、女中部屋に入ってもずっと

うつむいたままだった。何やら小さな声で言った様だが、文治には聞き取れ

なかった。

「ほら、のぞみ。もう少し大きな声で言わないと誰も聞き取れない。」金丸が

若い女中に向かって言った。

「文治さん、すいません。普段は普通にしているのですが、一輪挿しを置いた

事を文治さんに褒められて恐縮してしまっているのです。」

「ははぁ、貴女でしたか。実は、私も一輪挿しを置かれる所を見ていません

でした。気付いたら、置いてあって、まるで、最初から其処に有った様な調和

が取れていたものですから、思わず口にしてしまいました。何も恐縮される

ことはありません。事実のままを申し上げたのですから。余計なことをしたと

叱られるとか、それを私がかばったということではありませんので。」

「入るわよ。」そこへ、早苗がもう一人の女中と共に入って来た。

「あら、御免なさい。何時もの癖で、軽口で入っちゃいました。」

配膳台車を押して入って来た早苗が、文治が居ることを思い出して、詫びた。

配膳台車には、お茶の用意と焼き菓子が乗せてあった。

「本当に、早苗は御構い無しなんだから。申し訳ありません。失礼します。」

一緒に入って来た女中は、早苗をたしなめて、それでも、手早く皆の前に焼き

菓子を配って、お茶を入れると、職員全員に安堵感が生まれたことが感じられ

た。この女中、ハナが、職員の中で中心的な役割を担っていることが伺える。

「文治さん、御免なさいね。皆さん、未だ、夕飯を食べたないので、軽く焼き

菓子を用意させてもらったの。文治さんも宜しければ召し上がってください。」

「ハナさん、皆さん、夕食の時間を邪魔してしまって申し訳ありません。そこ

まで気が回りませんでした。先ずは、召し上がってください。お話は、その後

で構いませんので。」と、言いながら文治は自分の前に出された焼き菓子に

手を伸ばし、一口食べた、

客が、そう言って食べたのだから、職員達も食べ始めた。焼き菓子には、松の

実や落花生が入っていて、食感が良く、大きさも大人の拳二つ程もあるので、

食べがいがある。これだけの量を短時間で用意するというのは、大変機転が

利くということなのだろう。

少しの時間、皆が無口で焼き菓子を頬張っていたが、金丸が口を開いた。

「文治さん、そろそろ、御話しをしましょうか。」

「そうですね。では、最初に私の事からお話ししましょう。」そう言って、

文治は、實小路の家を訪れることになった切っ掛けや實小路の大物ぶり、その

後に起きた会社での出来事、会社を辞めて、實小路へ詫びに今日、ここに居る

という状況を掻い摘んで話した。

「文治さん、私達が知りたいのは、主人が私達の扱いを大きく変えた切っ掛け

となったのは、文治さんの影響を受けてということを主人本人が言っています。

その主人を変えた状況を聞いてみたいのです。」代表して、金丸が言う。

「金丸さん、そして皆さん。私は、特別なお話をしたつもりがありません。

先日、實小路さんへ会社の倉に置いたままになっている荷について、会社と

して何もしてこなかったことをお詫びしました。その後で、聞かれたのが、

私がこちらへお邪魔した理由でした。私は、船荷の番頭として働いていました

ので、船荷を扱う人足さん達の仕事を見ていました。船荷を一時入れておく倉

には、一番近い一番倉、最も遠い四番倉の4つがありまして、二番目に近い

倉は、使われることなく、人足さん達は毎日四番倉まで荷の出し入れをして

いました。二番倉が使われない理由が、何年も前に届け先が不明だったり、

受け取られないといった理由で放置された荷で一杯でした。人足さん達には

近い二番倉を使った方が良いに決まっています。それで、その荷の所有者の

實小路さんを訪ねた、という訳です。二番倉を使える様にしたいという思い

だけでした。その後、御話ししたのは、私一人が頑張っても全てが上手く回す

ことはできないので、人足頭の三吉さん、人足頭というのは、人足さん達の

中で、皆から信頼されている方に他の方々を束ねていただく役目をお願いして

いる人のことですが、その三吉さんと相談して、三吉さんが他の人足さん達と

色々なことを試しながら、自分達が楽に仕事ができて、それでいて、期限通り

仕事が進み、間違いも少なくなるという方法を見つける様にしている事をお話

しました。恐らく、この辺りのことを實小路さんは、お屋敷の中に入れ込んで

みようと思われたのではないでしょうか。」

「その三吉さんという方が私ですね。」金丸が凡その内容を理解したと、自分

の役目を言ってみせた。

「そうでしょうね。御話しには続きがあります。三吉さんが他の人足さん達に

ご相談される時には、何のために手順や手続きがあるのかを説明されていま

した。そうすることで、三吉さんが居ない所でも、人足さん達は何のために

手順を踏むのかをお話しされる様になりまして、人足さん達が三吉さんに相談

していただけるということも生まれてくるのです。私も、その事を三吉さん

から聞きまして、驚きました。」

職員の皆が、互いに顔を見合わせて、納得がいったという風に頷き合った。

「それでは、私からのお伺いです。何でも結構ですので、實小路さんについて

語っていただけますか。悪い事も良い事も、皆さんの愚痴でも結構です。最近

の出来事でも構いません。」

そこからは、皆が口々に實小路を肴に良いところ、止めて欲しい習慣、酒癖

女癖、家族、等を世間話をする様に話し始めた。金丸も、主人に対する不満を

口にして、文治が仲間であるかな様な、酒も入っていないのに、ほぼ宴会の

様相となっていった。


文治は、尾張名古屋に戻って、権座を訪ねた。亀蔵のことが気に掛かったから

である。権座は生憎不在だったが、若頭の辰吉が応対をしてくれた。

「文治さんだったな。暫らく振りだ。今日は何の用だい。」

「辰吉さん、ご無沙汰しています。先日の一斉撤収の判断は、凄かったでと

感じています。辰吉さんが、ご自身で判断されたのですか。」

「あれか。実はな、松風の対応の悪さ、横柄さには、かなり前から気に食わねえ

と思っていてよ、松風へ親分も何度か文句を言っていたんだが、ちっとも取り

合わなくてよ、組としても頭に来てたんだ。そこへ来て、内の人足が4人も

大怪我になる事故になってまって、俺が若衆を何人か連れて殴り込みに行こうと

したら、親分に言われてまってな。松風や剛太を殴ったって人足達の怪我は

治らねえ。松風が変わらねえのなら、そんな所に人足達を出している内の組が

あかんのだ。ってな。最後にもう一回変わるつもりがねえか聞いて、駄目なら

人足を引き上げてまえって。」

「そうですか。権座親分のご判断だったのですね。しかし、引き上げる時の

対応の素早さは、さすがに辰吉さんならではの事ではありませんか。」

「まぁな。」辰吉は、自分の仕事の手早さを褒められて、満更でもない表情で

笑顔を見せた。

「その後、人足さん達は、他の紹介先で上手くやっているのですか。」

「何人かは郷に帰ったが、殆どは、ちゃんと別の場所を紹介してやって、松風

以上に働いているぜ。」

「そうですか、安心しました。私も、松風を辞めてしまいました。当たり前

ですが、お金が入らなくなります。私は独り身なので、どうにでもなりますが

ご家族を持たれている方々には、お金が入らなければご苦労されてしまう事に

なると心配をしておりました。半年程、同じ職場に居りましたので、顔見知り

の方々が苦労されるのではないかと思いまして。」

「うちの親分は、先々を考えてるんだ。そんな事にはならんよ。」

「さすがです。辰吉さんも、人足さん達の事を考えていらっしゃいますよね。」

「おう、当たり前だ。」

「人足さんが、どちらの紹介先に変わられたのかを覚えてますか。」

「まあな。6人子持ちの源太は、鋳掛五郎。70のひい婆さんを抱えためで太

の奴は三座籠、双子の一太とニ助は窯元碁座衛門。それから、」

「辰吉さん、亀蔵さんは、どうなりましたか。」

「亀蔵か。あいつも変な奴で、一人だけでも松風に行けないかって言うんだ。

何でも、吉次とかいう奴の手助けをしてえとか。こっちから願い下げした手前

あいつを出す訳にはいかねえ。だから、駄目だって言ったんだ。そしたら、

親分と直談判なんかしやがってさ、結局、竹佐の組に移って、そっから、松風

の所に行ってるみたい・・・。いけねえ、亀蔵の事は他に喋るなって、親分

から言われてたんだ。ちょ、ちょっと今の話しは聞かなかったことにしてくれ

ねえか。」

「分かりました。聞かなかったことにします。ところで、少し前になりますが

三吉さんを覚えていらっしゃいますか。」

「三吉。」辰吉は、暫く口の中で繰り返して思い出そうとしている。「おー、

思い出した。亀・・の前に郷へ帰った。で、その三吉が、どうかしたのかい。」

「実は、・・」文治は、三吉と一緒に人足達の仕事が楽になる様に色々手を

尽くしていたこと、三吉が人足頭で、権座組の者以外も含めて信頼を得ていた

こと、文治が東京支社へ行っている間に、辞めてしまったことなどを掻い摘んで

辰吉に話した。

「あんたが首謀者だったのか。」辰吉は思わず大きな声を出してしまった。

「すまねえ、大きな声を出しちまって。松風の所に行かせた人足達の半分位が

何か、すげえ事を言うようになってくるじゃねえか。荷役の効率が良くなった

とか、一割の人足が減らせる工夫を思いついたとか、ってな。俺は、最初、

何を言っているのか、さっぱり分からんかった。最初は、三人位が、話込んで

いるだけだったし。そのうち、五人、七人と増えていくもんだから、親分に

言って、そいつらを集めて、話しを聞いたんだ。そしたら、三吉が知らん間に

人足頭をやっていて、店の番頭と一緒に、荷役が楽になる様に工夫を毎日の様に

する様になって、その内に、人足達が、こうしたらもっと良いのにって漏らした

感想が、直ぐに、その通りになったとか。自分の言ったことで、自分達が楽に

なるって分かったら、どんどん、三吉に話しが行って、人足達自身が工夫だとか

効率だとか聞いたことも無え事を言う様になったって話だ。そんで、店の番頭

の中に、そんな奴は居ねえ筈だがなあ、って思ってたんだ。それが、あんた

だったとは、思ってもみなかったぜ。」

「でも、店を辞めてしまいましたので、もう番頭ではありません。」

「松風も馬鹿だぜ。こんな有能な人に暇を出すなんて。」

「ところで、辰吉さん。三吉さんの近況をご存知ですか。」

「俺っちも、親分も、三吉なら、どこでも十分にやっていけるし、何なら組の

若衆になってもらっても良いって言ったんだが、郷に帰るって決めてたみたい

なんで、結局、郷に帰っちまった。権座組は、去る者追わずなんで、それ以上

聞かれても、何も分からねえな。」

「そうですか、残念です。では、当時、三吉さんと親しかった方はご存知で

しょうか。」

「亀蔵は、一番親しかった。後は、同じ長屋に居た恭介、祐二くらいかな。」

「その恭介さんや祐二さんは、今も働いていらっしゃるのですか。」

「恭介は、ほれ、荷崩れして大怪我をした奴だ。先週、ようやく松葉杖が要ら

なくなったばかりだから、未だ、働けてはいねえな。でも、未だ、同じ長屋に

住んでるぜ。祐二は、小銭が溜まったとかで、暫く郷に帰って親孝行の真似事

をするとか言ってた。」

「そうですか、では、恭介さんを訪ねてみます。ところで、その長屋は何処に

あるのですか。」

「直ぐ裏の勘次郎長屋だが、恭介が居るかどうかは知らねえぞ。」

文治は、礼を言って、裏手に回り、勘次郎長屋へ入って行った。井戸端で洗い

物をしている年配の女性に声を掛けた。

「すいません、ちょっとお尋ねしたいのですが、宜しいですか。」

文治が、洋服を着こなして立っているのを見て、その女性は胡散臭そうな顔を

して文治を見上げた。

「こちらに恭介さんが住んでいらっしゃると伺ってきたのですが、恭介さんの

お住まいをご存知ですか。」

「なんだい、あんた。借金の取り立てかい。」

「いえ、権座組の辰吉さんの紹介を受けまして、恭介さんと御話しをしたいと

思いまして、参りました。」

「あぁ、権座親分のとこの紹介かい。そんじゃ、大丈夫だな。恭介の家は、

そこのすだれが半分切れかかっているとこだ。」

文治は、女性に礼を言って、恭介の家の前で立ち止まり、一旦、中を伺おうと

いた。だが、後ろから女性が大声で恭介を呼んだ。

「恭介よ。権座親分のとこから、変な格好をした奴が来たぞ。ちょっと、顔を

出しな。」

「うるせえなあ、いつも。長屋じゅう丸聞こえだあ。」恭介が障子を開けて

文句を言いながら出てきた。

「どっかで見た顔だな。あんた、誰だ。」文治を見て、恭介が胡散臭そうな者

だと感じていることが分かる。

「恭介さん、初めまして、文治と言います。先日まで松風の所に勤めてまして

三吉さんと懇意にさせていただいていた者です。」

「おお、あんたが文治さんかい。そう言えば、松風の所で見かけた。」恭介の

顔が明るくなって、外に居た女性に声を掛けた。

「お袋、この人が文治さんだ。三吉が、いつも言っていた人だ。」

外で洗い物をしていた年配の女性は、恭介の母親だったらしい。その女性も

驚き半分で戻って来た。

「へえ、若くしか見えないけど、そんなに知恵が回るひとなんだねえ。」

恭介の母親は、覗き込む様に文治の顔を見て、腕、胸、背中を触って、値踏み

する様に、文治という人物を確かめた。

「あ、あの、恭介さん。御話しさせていただいて良いでしょうか。」

「ああ、悪いね。半年ばかり、三吉が家に来るとあんたの事ばかり話すもんで

どんな人なのか会ってみてえって、俺もお袋も話してたんで。で、何だい。」

「三吉さんが、今、何処にいらっしゃるかご存知ですか。」

「なんでも、三吉のお袋さんの里が名張で、そこに親類が居て、子供の頃に

世話になったんだが、最近、調子が悪いとかいうことで、暫く、面倒を見る

とか言ってた。名張に居るんじゃねえかな。そんな事より、どうだ飯でも食って

いかねえか。お袋も、あんたの事を聞きてえみたいだし。」

と、そこへ、辰吉が、えらい剣幕で走り込んできた。

「恭介ええ、文治さんは未だいるかああ。」

「辰吉さん、どうしたんだ。文治さんなら、ここに居るぜ。」恭介は、辰吉の

大声に表に出て答えた。

「あー良かった。」高々、裏手に回っただけの筈なのに、辰吉は息を切らして

一言口にしただけで、暫く息を整えるのに時間が掛かった。

「文治さん、済まねえが、親分が会いてえってんで、もっかい組に来てくれ

ねえかい。」

権座が辰吉に強く文治と面会したいと指示したことが、辰吉の行動から分かる

ので、恭介も恭介の母親も何も言えなかった。

文治は、微笑みながら「辰吉さん、分かりました。権座さんの所に参ります。

恭介さん、御母さん、また、ご挨拶に参ります。お邪魔しました。」

辰吉は、恭介に片手を上げて詫び、文治を促して権座組へと帰って行った。

「辰吉の奴、親分から何て言われたんだろうねえ。あんなに血相を変えてさ。」

恭介の母親は、興味津々といった風で恭介に言った。

「さあ。でも、俺らと同じで、文治さんと話しをしてえって、親分が言って、

直ぐ呼んで来いとか言われたんじゃねえのかな。」


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