三
書類を手に取り、記入を開始する。いい加減、手書きとデータでバラバラに寄越さずに統一してほしいものだ。
真面目に机に向かっていれば、静かで気まずい生徒会室の空気も、段々と気にならなくなってきた。
そうだ、このまま烏谷迅とは関わらない方向で行こう。俺は生徒会役員なんだから、私語を慎んで粛々と作業に勤しむべきだ。
普段からサボりがちで尚且つお喋りな自分を棚に上げつつ、そう心に決めた。
さて、次の仕事を進めなければ……って。
手をつけた次の書類に、少々面食らった。それはまさに、先日の事件の始末書そのものだった。
先日の事件ーーつまり、会長の親衛隊隊長の白石と烏谷迅、その他数名が起こした暴力沙汰のことである。
白石隊長の丸字で書かれた始末書があるのは勿論のこと、すぐそこで仕事に向かっている烏谷迅が書いたものもあった。
始末書の内容としては、『愉快さを求めて白石隊長の謀略に協力したことを深く反省し、反省文と生徒会活動への参加、つまり奉仕活動を一ヶ月間する』などといった、事件の全容と処分についてが記されていた。
白石隊長は、副会長を嵌めるために今回の事件を起こした。それを知った上で烏谷迅は、白石隊長に協力したのだろう。
それは何故?ーー副会長に、興味があった……?
烏谷迅はいつも、副会長にちょっかいを出している。それは副会長や会長をからかうための挑発行為なのだと思っていた。でも本当は、副会長に本気で気があるのではないかーー。
「ゆさ」
「うわあっ!?」
突然、目の前にドアップで現れたわんちゃんの顔。あまりの近さに俺は素っ頓狂な声を上げた。いつの間に接近したのか、わんちゃんの鼻は俺のそれに今にもくっつきそうな勢いだ。
「び、びっくりしたあ……わんちゃんどうしたの?」
わんちゃんは前々から俺を苦手視していたはずだ。こんな目と鼻の先まで近づいてくることなんて初めてである。
わんちゃんは俺の問いにぱちくりと目を瞬かせ、それからすんすんと鼻を鳴らし始めた。
「え。な、なに?」
どこぞの国とのハーフであるらしいわんちゃんの、眠たげだが曇りひとつない碧眼がじっとこちらを見つめている。
「ゆさ。いいにおい、する」
「い、いい匂い?」
犬かよ!と内心叫ぶ俺。
確かに俺は狗飼をわんちゃんと呼んでいる。だがそれは、ただ単に名前が犬っぽいからという安直な理由からである。
しかし、わんちゃんのこの行為は明らかに犬そのものだ。なんだ匂いって。お前は警察犬か何かか。
「いいにおい。でも、わるいにおい」
「へ?」
「わるいにおい。ゆさ、ふあんなにおい、する」
「不安な、匂い?」
不安に匂いなんてあったのか。初耳だ。
どう返事するべきか答えあぐねている間も、わんちゃんは休むことなくすんすんと匂いを嗅いでいる。
別に匂いを嗅ぐぐらいなら構わないんだけど……なんかわんちゃん、段々距離が近くなってきてない?
「ちょっと、わんちゃん?」
「におい、もっとかぐ」
「いや、別にそれはいいけど、なんか距離近くない?ちょっ」
「ゆさ、いいにおい」
「待って待って!……ってうわっ」
わんちゃんを避けようとしてバランスを崩す。俺の座っていた椅子はぐらりと傾いた。
やば。これ、頭から強打するやつじゃん。
倒れていく椅子に身を預けたまま、衝撃に備えてぐっと歯を食い縛った。ーーが、衝撃はいつまで経っても訪れない。その代わりに、柔らかな人の体温にふわりと包まれる。
「ったく、危ねえなあ」
「………………からす、たに」
思わず瞠目してしまった。
倒れかけた俺を後ろから抱き締めて支えたのは他でもない、烏谷迅だったから。
一瞬、思考が凍りついた。
誰が俺を支えている?烏谷迅だ。
……ああ、やめてくれ!反吐が出そうだ!
「………………あー、びっくりした!ありがとー、烏谷くん」
助かったよー、と烏谷迅に笑いかける。身体中に虫酸が走っていることをおくびにも出さずに。
本当はさっきから、寒気で鳥肌が立ってしまっているけれど。
「もう、わんちゃんも気をつけてよー?顔面強打して俺の鼻が潰れたら、学園中のチワワちゃんたちが涙に暮れることになっちゃうんだから」
冗談交じりにそう言えば、わんちゃんは素直にこくりと頷いて「ごめん」と呟いた。
そんなわんちゃんにへらへらと笑いながら何気なく烏谷から距離を置こうとしたのだがーーそれは叶わなかった。
「遊佐ちゃんって、なんかさあ」
烏谷が俺の手首を、掴んだから。
「作り笑いばっかでつまんねえ奴だよな」
つまらない。
つまらない、奴。誰が?……俺が。
「ーーーーっ!」
瞬間、脳裏に迫るフラッシュバック。断片的な映像が、ノイズ混じりの声が、迸る。
血のような夕日。肺に充満する夏の匂い。生暖かく湿る空気。
四角い無機質な部屋の奥で、こちらを見つめている、彼の姿。
彼は心底興味がないといった風な、気怠げな目で俺を見た。心が急速に冷えていく。
『飛羽、お前さあ。つまんねえこと言って俺を失望させるの、やめてくれる』
胸を抉るような言葉に自分の死体を見たあの日を、俺は嫌になる程鮮明に思い起こしてしまった。
「うるさいっ」
気づけば俺は、予想以上に切羽詰まった、冷え冷えとした声で拒否を示しながら、烏谷の手を払っていた。
こいつとは、表面上はしっかり付き合っていこうと思っていた。でも、やっぱり無理。生理的嫌悪はどうしても抑えきれない。
俺は数歩後退って烏谷から距離を置きつつ、顔を歪めた。
「やっぱ無理。俺、あんたと仕事なんて出来ないよ。あー、反吐が出そう」
「へえ?そりゃあ酷い言いようじゃねえの。会長サマに言いつけちゃおっかなあ?」
「どーぞご勝手にー。わんちゃん、俺しばらく生徒会室に来ないから。自室で仕事処理するって会長に伝えといて」
「んじゃあ言っとくわ。遊佐は俺と仕事したくないから引きこもるそうでーす、ってな」
「あっは、面白いこと言うねえ?俺、あんたに伝言頼んだ覚えなんてないんだけど?そういうことだからわんちゃん、よろしくね」
わんちゃんは何か言いたげに瞬きをしていたが、それを気遣う余裕など、俺が持ち合わせているはずもない。
俺は不快さに顰まる眉を隠しもせずに、乱暴な手つきで椅子を蹴り、生徒会室から出て行った。
烏谷迅がそのとき、どんな表情をしていたか、俺は知らない。振り返っていないから。
……別に、気になってるわけじゃないけど。




