六章 弧月先輩
日も沈み始め、緋色に染まっていく夕方前。
たくさんの車に紛れて中央通りを走る杉野の車。二つ隣の市にある病院へと向かうその車の助手席に座っていた孤月は話を始めた。
「私が、初めてまじないを使ったのは、中学一年生の時でした。当時の私には、同じクラスに親友と呼べるとても仲のいい友達が居ました」
友達の名前は尼野ゆう子。彼女は優しくて、後輩たちの面倒見もよく、自分という強い芯を持ちながら、周りを認めることのできる人だった。
ある日の放課後、彼女は私にこう言ってきた。
「ねぇ、流夜。ちょっと面白いことやってみない?」
「面白いこと?」
授業中も、休み時間も、給食も、放課後も、休みの日も、私たちはずっと一緒に居た。
べたべたとくっ付いていて気持ち悪いって思うかもしれないけど、当時の私たちにとっては〝何をするのも一緒〟というのが当たり前だった。それくらい仲が良かったのだ。
「じゃじゃーん!〝チョーカンタン!おまじない一〇〇選!〟」
いつもの様に明るい声で彼女は一冊の本を私の目の前に出した。
「ちょっとした道具と手間で出来るおまじない集なんだって。おまじないって、気休めとかそういうだと思っていたんだけど、これに面白いのが載っててね」
そういって、半分よりやや後ろのページを開いてみせた。私はそのページに書かれタイトルを声に出して読む。
「〝寂しいときに最適!お人形をお友達に♪〟……って、どういうおまじないなの?」
「簡単に言っちゃうと、人形がひとりでに動くんだって」
彼女が楽しそうに話すので、私は快く承諾した。彼女と一緒に居ると、何をするのも本当に楽しかったから。次の日、私と彼女はそれぞれ手のひらサイズの人形を学校に持ってきて、放課後に教室で試すことにした。
「えーと、人形とお水と白い紙と、あと何が要った?」
「赤色の筆記用具と八つの小道具……鉛筆とか消しゴムでいいみたいだよ」
「おっけい!」
そう言って彼女は、兎のストラップがついた筆箱を開け、消しゴムや定規などを取り出した。
白い紙を手で長めに千切り、そこに赤いマジックで「魂」と書いて人形のお腹の中に詰め込む。それから「代」と書いた紙を八つ用意して、鉛筆や消しゴムに巻きつけた。
「えーと、あとはお水を右手で掬って、右手で掬ったお水を左手の人差し指と中指の先にちょこっとだけつけて……〝代〟って書いた紙につける、と」
私と彼女は本とにらめっこしながら、八つの紙にお水を付けていった。
「それで、えー?右手で掬ったお水をこぼさないように気を付けながら左手に移し替えるって……ちょっと難し過ぎるでしょう!どこが簡単なのよ!」
「あ、ちょっとこぼれちゃった……これってだめかな?」
「えーと、こぼしたときは――………あ、大丈夫みたい、ちょっとでも残っていれば出来るって。全部こぼすな、ってことみたい。だったら、初めからそう書いておけって。この左手に移したお水を人形の頭にかけるとおまじないの完成だって」
私たちは顔を見合わせて一度頷き、人形の頭にお水をかけた。
「………………って、やっぱり動くわけがないかー」
「……そうだね」
少し濡れてしまった人形をしばらくの間見つめていた。
「あー、これじゃ人形が濡れただけじゃない……」
彼女は人形を摘み上げ、口をへの字に曲げながらそう呟いた。私は彼女の方を見ながら人形に手を伸ばした。
「ティッシュでふかないと、鞄に入れられ―――」
いつまで経っても人形に触れられなかった私は、視線を彼女から人形に向けて絶句する。
人形はなぜか机の真ん中ではなく、左上に移動していた。
「どしたの?」
彼女も私の人形の方を見る。
「あ、ううん。なんでもないよ」
そう言って私は人形に手を伸ばす。すると人形はすくりと立ち上がり、転びながら机の右上へと走って行った。そして、私の方をじっと見る。
「え?嘘、どういうこと?なにこれ、なんなの?嘘でしょ?冗談きついって……」
彼女は僅かに後ろに下がり、人形の方を見ていた。
私は何故か、動き出した人形から目をそらすことも、その場から動くことも出来なかった。
「る、流夜!これ、どういうこと?本当にまじないが出来たって言うの?」
「わ、わからない……わからないよ、ゆう子ちゃん。わ、私、どうすればいいの?」
「…………流夜、これは私たち二人の秘密にしよう!誰にも言わないの、いいね?」
彼女の言葉に私はただうなずくことしか出来なかった。
私の地獄は、次の日から始まった。次の日、学校に行くとクラスの人たちが私の方を見て何かを話していた。
(……?な、なんだろう?寝癖でもついてるかな?)
私は教室に入り、自分の机を見て手に持っていたシューズを床に落とした。
「…え?」
魔女、ばけもの、近づくと呪い殺される、悪魔の手先、そんな言葉がマジックで書き殴られていた。
「おーい、みんなー!悪魔が学校に来たぞー!」
クラスの男子がそう叫んだ。それが合図だったかのように、周りの人たちが私に罵声を浴びせた。こっちにくるな、ばか、しね、二度と話しかけて来るな。黒板消しや靴を投げつけられた。どうしてこんなことをされているのか、全くわからなかった。
静かな音を立てて教室の扉が開く。ゆう子ちゃんと数名の女子が教室に入ってきたのだ。
「ゆ、ゆう子ちゃん……!」
助けを求めて、私は彼女の名前を呼んだ。
彼女は私の眼を真っ直ぐと見据えていた。そして、にこりと笑うと彼女は手に持っていたシューズを思いっきり私の左側の窓に投げつけた。
「……ゆ、ゆう子、ちゃん?」
私に向かって投げたのかと思った。しかし、
「寄って集っていじめてんじゃないわよ!」
少し間を置きそう叫ぶと、彼女は私に罵声を浴びせていたクラスの人たちに殴り掛かった。
初めて、だった。彼女が誰かに暴力を振るうところを見たのは。近くにあった椅子や机を投げたり、窓ガラスに叩き付けたり。教師が来たころには、数名が流血するほどの怪我をしている状態だった。
私たちは生徒指導室に呼ばれ、説教され、学校は両親に連絡をした。
私は被害者ということになり、彼女はそれを止めようとしたと話したが、彼女はクラスメイトに怪我をさせたこともあり、その日は自宅に帰ることになった。
「流夜!」
靴箱で、彼女が私の方へと駆け寄ってくる。彼女は目を赤くしながら泣いていた。
「流夜、ごめん、ごめんね……」
「どうしたの、ゆう子ちゃん?」
「ごめん、本当ごめん……私が………、ごめん……」
次の日から彼女は学校に来なかった。何日たっても彼女が学校に来ないので、学校側に尋ねてみたが何も答えてくれなかった。メールを送っても返事は無くて、彼女がどうなったか母に尋ねてようやく知った。彼女は引っ越したのだと。
彼女が居なくなって私をいじめる人たちを止める人は居なくなった。教師ですらも見て見ぬふりをするのだ。
彼女が居なくなって二ヶ月ほどが経ち、私は彼女が謝っていた理由を知ることが出来た。
「ですから、孤月さんが人形を動かしたって言ったのは尼野さんだったんです」
同じクラスの想真という白髪の男子――クラスの学級委員でかなり真面目な子なのだが、体が弱いとかいう理由で初めの数日だけしか来ていなかった男子だ。彼は久々に学校に来ると、身体が弱というのが嘘の様に運動をし、クラスの子たち以上に働いた。
そして、昼休みに〝どうしても話したいことがあるから、放課後に屋上へ来て下さい〟と言ってきた。
「え…?」
「相談されたんです。誰に言えばいいか分からないから学級委員の僕に、って。でも、教室で話していたので、もしかしたらクラスメイトの誰かに聞かれたのかもしれません。言ったのは確かに尼野ですが、広めたかったわけではないと思います」
卒業するまでの三年間、私はずっと苛められてきた。しかし、想真くんは私をかばってくれた。ゆう子ちゃんは転校してしまって、あれ以来一度も会っていなかった。
「中学校は悲しいことが多かったんですが、辛いながらも想真くんのおかげで無事に卒業して、明日希高校に行くことが出来ました」
「なるほど。確かにそれは辛い経験だ」
淡々と相槌を打つ杉野さんを見ながら、私は明日希高校に入ってからのことを話し始めた。
「私、あなたの同僚さんが異名に襲われたお店で、アルバイトをしているんです」
「ほう」
「アルバイトを始めたのは、今から二年前の六月ごろです。高校にもだいぶ慣れてきたので、高校の近くにあったお店でバイトを始めました。最初は失敗ばかりでよく怒られていましたけど、一か月もすればすっかり慣れて接客するのが楽しくなってました。その頃に、一人のお客さんが来たんです」
物語の終止符にやってきた客は、四十代の威厳ある男性だった。雰囲気が、かなりの上役をやっている人に思えた。だからといって、近づきがたいような印象は全くなく、むしろ親しみやすそうな人だった。
「いらっしゃいませ。どうぞカウンターの方へ」
その人を初めて見た私は、決まりに則りカウンターに案内をした。
「おうおう、随分と若い子を雇いやがったなぁ!」
男性は大きな声を上げてカウンターへと座った。その声を聞いてか、調理場から店長がやってくる。
「ずいぶん久しぶりだねぇ、相甲斐警視長。二ヶ月ぶりかい?最近忙しいみたいだねぇ。孤月もこっちにおいで、すこぉし休憩にしようじゃないか」
そう言われた私はカウンター席に座ることにした。すると相甲斐さんは「うぅむ」と困ったような声を上げる。
「ちぃとばかり、厄介な話をしたいのだが…」
「このままでどぉぞ?」
「まったく、昔からお前さんは変わっとらんな。まあお前さんがそう言うならよい。先日、科学以外の力を持つものを見つけてな。まじない師だったのだが、上に引き渡したらしい」
そういわれて私はどきっとした。
(…ま、まじない師、ですって?)
自分はまじないが出来る。もしかしたら、私みたいな人のことかもしれない。上に引き渡した、というのはどういうことだろう。私は店長以上に真剣に話に耳を傾けた。
「へぇ?彼が引き渡したのかい?」
「いや…あやつは司書を辞めちまったよ」
相甲斐さんはひどく落ち込んだ表情になった――実際、相甲斐さんが心底悲しんでいることが伝わってくる。
「…その、なんだ、まぁ…奥さんを亡くしてな。強制的に位を剥奪されたのだ…」
「強制的?」
コーヒーを淹れながら店長が聞き返す。
「あぁ、あやつのことはよく知っていたが……奥さんを亡くして人が変わったように狂っちまったんだ」
「…おやおや、怖い話もあったもんだねぇ」
店長は淹れたてのコーヒーを私と相甲斐さんの前に置く。置かれた熱々のコーヒーを、相甲斐さんは気を紛らわすように一口飲んだ。
「…狂っちまうのも分からなくはないのだがな」
「んん~?どういうことだい?」
「…あやつの奥さんは、あやつ目の前で、上に、紫香楽に殺されたのだ。科学以外の力が使える、と言いがかりをつけられてな」
その事を聞いて私は酷く気分が悪くなった。
(科学以外の力が使えるから、殺された?もしかして、わ、私も〝紫香楽〟という人に、科学じゃないまじないが使えるから、こ、殺される…?)
科学以外の力というものが、どんな力を指すかは分からないが、まじない師は上に引き渡された。それから先、どうなったかは言わなかったが察しはつく。〝紫香楽〟に見つかれば自分の命の保障は出来ない。それに、〝紫香楽〟に見つからなくても、警察も危険だ。引き渡される可能性がある。
(も、もしかして、私ってとっても危ない状況に居るのかも……!)
そう考えると、手足がかすかに震え始めた。
「しかも、管理司書を辞めてからぱったりと、あやつの居所が分からなくなっちまった」
「後追いした可能性があるって思うのかい?」
「いや、それはないと思うのだ。……これからも、あやつの居所を探ろうと思っておる。すまんな、随分とあやつの居場所が掴めなくて、少しばかり誰かに話したくなったのだ」
そう言って警視長は笑った。
何気ない世間話になった二人の会話など、私には聞こえていなかった。
(今後は絶対にまじないを使わない方がいいわ…人にも話せない…!)
例えどんなに辛くとも、まじないができるなどと口が裂けても言ってはならない。やむを得ず使う場合は、周りに人が居ない事を絶対に確認しなくてはならない。今までよく〝紫香楽〟に見つからずにすごせてきたものだと、運がよかったと私は思った。
「そして、最近になって私と同じワベクの人を知りました」
私は井水戸くんのことを思い出しながら呟いた。
「同じ悩みを共有できる、って思いました。でも、彼は紫香楽と知り合いで、特例で見逃されていると言われたんです」
ぴくり、と微かに杉野さんから動揺が感じられた。
「紫香楽と知り合いだと?」
「知り合い、ではないかもしれません。でも、紫香楽と繋がりのある人でした」
「そいつの名前は?」
今までと違い、声に感情が籠っていた。
(あ、れ?杉野さん、何か、焦ってる――いや、喜んでる?)
どこに反応したのかが分からず、少し戸惑いながら答えた。
「井水戸、玄奥くんです」
答えを聞いた杉野さんは、確かに喜んでいた。しかし、杉野さんが言う言葉は、喜びからくる言葉ではなく、心配や憂いからくるはずの言葉だった。
「その、井水戸という者。もしかすると、騙されているのかもしれない」
「騙されて、いる?どういうことですか?」
どうして、こんなことを言うのだろう。杉野さんは心配しているのではなくて、喜んでいるのに。何を喜んでいるのかわからないが、どうして自分の気持ちにそぐわないことを言うのだろう。
私には、他人の感情や気持ちが分かる。分かると言っても、人間観察が得意で他人の長所や短所によく気が付く、という訳ではない。どういう人なのかわかるのではなくて嬉しいとか悲しいとか、そういう感情だけが分かるのだ。
多分、まじないが使えることに深くかかわっている。
そもそも、まじないというものはやり方さえ知れば誰にでも出来るものらしい。まじないの基本は想いを籠めること。自分が何を望んでいるかを想いにして籠める。お守りならば安全にいて欲しいと、呪いなら不幸になって欲しいと。しかし、大抵の人は想いの籠め方が理解できないそうだ。
常に感情や思いを気にしていた私は、人が思う想いや感情、物に籠った思い出などが分かるようになった。
だから、杉野さんが自分の感情とは違うことを口にしたことに違和感を覚えた。こういう人
はよく居るのだ。怒っているのに笑って『楽しいね』と言う人が。
私はその時に感じる違和感が嫌いだった。
「………」
杉野さんは私が尋ねてもなかなか答えようとしなかった。
ふっと再び感情が無くなった杉野さんは、漸く答える。
「異なる世界の力を持っている者が特例で見逃されている、などということは断じてない。油断させておいて、然るべき機会をうかがっている可能性がある。そうなれば、彼の命の保証はない」
こういう人も極稀にいる――感情を殺す人。
「そ、そんな……!」
感情が読めない以上、私は杉野さんの言う言葉を信じるしかなかった。
少しの間をおいて、杉野は告げる。
「どうしてもというならば助ける方法がある。彼が殺される前に我々で紫香楽を殺すのだ」
人を殺す――考えるだけで手が震える。足が震える。心が震える。
「そうしなければ、彼だけではなく君も殺されてしまうかもしれないのだ」
恐怖という物は冷静さを失わせるには十分な感情である。
孤月は恐怖に呑まれ、助けたい、助かりたいという想いからさらに目の前の男を信じ切ってしまうのであった。
「そこで、君に協力してもらいたい」
「私は何をすればいいんですか?」
「出来る限り、数を集めて貰いたいのだ。君なら猫などの動物を意のままに操れるだろう?数で翻弄している間に決着をつけて、彼を助け出す」
「……わかりました」
杉野が浮かべる邪まな笑みに気付くことも無く、厳しい表情で彼女はそれを承諾した。
孤月は井水戸へと、電話をかける。
****
オレは井水戸玄奥、またの名をグレイ・パラドックス。どちらも偽名である。
共通の敵と呼ばれる組織、国際単位――通称・SIのリーダーであり、グレイ先生の名を語って人の願いを叶えるちょっと悪くて、ちょっといい人だ。
初めに言っておくが、彼女と何かあったという訳ではない。
井水戸玄奥の名を語って小学校と中学校を卒業し、適当な高校として選んだのが明日希高校で、部活を見ていたらたまたま昔の同志と同じ様な名前の部活があって、覗いてみたら副部長が彼女で笑顔が可愛いなと思っただけだ。
彼女はバイトを紹介してくれて、そこの店長が面白い人で、店に集まる部活の仲間がこれまた面白くて、ただそれだけだった。それだけだったが、ずっとこのまま過ごしたいと思うには十分な理由だった。
こんな風に思うのは、グレイ先生の所で助手をして以来だった。
弟子の三人で互いを高め合い、競い合い、協力し合ってグレイ先生の手伝いをする。当時は世界際条約が結ばれておらず、師も弟子もバラバラの世界の住人だった。だからこそ、色々な観点からあの式を検証し、研究し、そして――解いてしまった。
大通りに停車した車から降りる――日は傾き、空は赤い。
「さっき話した通り、三人はこの路地の奥で待機ね。井水戸として先輩にあってくるから、隙をついて杉野と引き離してみるよ」
「うむ、気を付けるのだぞ。杉野の奴は何をするのかわからんからな」
頷き、大通りから路地へと一人入っていく。少し離れて三人は路地裏に入る。
路地を抜けたところで聞きなれた声が呼ぶ。
「あっ、井水戸くん!」
今にも泣きそうな彼女に、オレは苦笑いをしながら近づく。
「先輩、遅くなってすみません。………そっちの人は誰ですか?」
先輩の後ろに居た杉野に対して、あくまで初対面を装い尋ねる。
「あ、この人は杉野さんよ。この人も私たちと同じ、なの。私達みたいな人のこと、ワベクっていうんだけど……知ってる、かな?」
「ええ、アナザーに訊きました。でも、電話で言っていた先輩の話だと、紫香楽はオレのアナザーを使ってこっちの位置を調べている可能性があるんでしょう?どこに居ても見つかっちゃいますよ」
「いや、その心配はない」
杉野は静かにそう告げた。
「どうしてですか?」
「こうするからだ――」
杉野の手元に円と六芒星の魔方陣が浮かぶ。
僅かな殺気に反応してしまい、ぱちんと指を鳴らして後退する。指を鳴らすとバッジの沢山ついた真っ黒なコートがオレを包んでいた。
先程までオレが居たところには、渦を巻く風ががりがりと地面を削り取っていた。
「何を――」
「おやおや、君はアナザー・ワールドの力を持つワベクではなかったのかな?その黒いコートと無数のバッジは何かな」
――しまった。
こういう時、優秀な他の弟子二人ならうまく対処したのだろうな、と思う。
「えっ?杉野さん?井水戸くん?」
「今の魔法に当たって死んでいたはずだが、どうして躱すことが出来たのかな?」
オレは自分の力に気付いてないようなそぶりを見せていたし、先輩の前では喧嘩もしないような真面目な学生だったのに、素早い動きで避けちゃまずい――抉れた地面を見る――いや、避けないのもまずい。
「井水戸、君は本当にワベクかな?誰かが井水戸に化けているのではないか。その無数のバッジは世界際資格と世界際称号の証――世界的に実力を認められた者に贈られるものであり、最近まで何も知らなかったはずの井水戸に得られるものではない」
世界際外交条約第一――一世界の人間が異なる世界の力を使う場合でも、定期的に開催される世界際試験を受験し、使うに相応しいと判断され合格した時にのみ発行されるそれぞれの力に対応した世界際資格の所持が認められた場合は条約違反にならない。
世界際外交条約第二――三大勢力より、個人の功績が称えられた場合、それに対応した称号を授け、その称号の信頼と栄光により世界の境界線を越えること及び重要建造物への立ち入りを許可する。
ざわっ、と、周りから無数の視線――いつの間にか周りには無数の犬と猫と鴉が居た。犬にも猫にも烏にも、どの生き物の背にも白い紙に赤い文字で〝魂〟と書かれたものが貼り付けられている。
――これは、まじないだ。特定の動物を操るまじない、どちらかと言えば呪い。
「あっ!だ、誰か居るっ!」
先輩は視線を路地の方へと向ける。
――ああ、あっちには警視長さんと紫香楽とアナザーが。
「おやおやおや、これはこれは、紫香楽と警視長とアナザーじゃないか!」
数匹の大きな犬に追いやられて路地から出てきた三人に対し、杉野はわざとらしく名を呼んだ。
「えっ?し、紫香楽って………」
「孤月、さっき言った通りやれば大丈夫だ」
僅かに震える手をぎゅっと握り、先輩はうなずいた。それを合図にしたかのように、構えていた犬と猫と鴉は一斉に三人に向かって襲いかかる。
〝おいグレイ――こいつらをどうにかしろ〟
紫香楽が言うか言わないか――そのタイミングで既に右手を翳し、クロを操り襲いかかる犬と猫と鴉を捕まえていた。
「……井水戸くん?グレイって、どういうこと?」
先輩がそう口にすると、
「グレイだと!なんてことだ、まさか君がグレイだったとは!あぁ、まずい。グレイは本当にまずい!グレイは無差別に人殺しを行うようなやつではないか。紫香楽よりもたちが悪い奴だ!」
と、杉野は態とらしく言った。
「えっ?人、殺し?」
ここまで知られているのに、まだ嘘を吐く必要は――無い。
「まあ、そういうことになるかな」
「い、井水戸くん――私を騙していたの?紫香楽と同じように、私を殺そうとしていたの?」
困惑した先輩は、オレから少しずつ離れていく。
「先輩、落ち着いて話を聞いてくれるかな?紫香楽はともかく、オレは――」
「あぁ、孤月。彼はどうやら紫香楽の仲間だったようだ」
オレの言葉を遮る様に杉野が孤月の耳元でささやく。
「初めから、君を殺すために近づいてきたのかもしれない」
「――いやあぁぁああぁぁあぁぁ!」
先輩の叫び声に反応するように、無数の犬が牙をむく。前から、後ろから、右から、左から、上から――四方八方バラバラのタイミングで攻撃を仕掛けてくる。
「ちっ、面倒くさい」
犬の猛攻を交わしながら、ぱちん、と左の指を鳴らす。すると、頭上から真っ白な氷柱の様なものが落ちてきて、犬の頭部へと突き刺さる。身動きが取れなくなった犬たちは、その場で暴れ続けたが、そのうち疲れ果ててその場にぐったりと倒れ込んだ。
「なに、なに?」
「なんだあれ?」
ざわざわと、異常に惹き付けられるかのように野次馬達が集まり始めた。
「杉野、お前さん嘘を教えるでない!青年も紫香楽も彼女にどうこうするつもりはない!」
すると、杉野は孤月にこう言った。
「警察は紫香楽の手下だ。迂闊に信頼しない方がいい」
慄然とした表情で周りを見る孤月は、パニック状態になっていた。どれが敵で、どれが味方なのか。冷静な判断を失った彼女に反応し、鴉も猫も犬も徐々に凶暴さをまし、騒ぎの様子を見ようとして集まる者に襲いかかり始めた。
「むぅ!いかん!」
警視長はいち早く野次馬達の方へ駆け寄り、襲いかかってくる犬たちを、腕を精いっぱい振って近づけないように踏ん張った。
「うわああああ」
「きゃああああ」
しかし、迫ってくる異常に対し、野次馬達は我先にとその場から逃げ出そうとして、さらに混乱していく。しかし、野次馬の中、はっきりとした意志を持った一人の女性が声をあげた。
「流夜、あなたは私が守ってあげる!だから、怖がらないで!」
一人野次馬の流れに抗って、騒ぎの中心へと姿を現した。見知らぬ女の登場に、杉野は静かに尋ねた。
「君は誰だ。関係者か?」
「……私は関係者、じゃないかもしれない。何も知らないし、たまたま通りかかっただけ。どっちが悪いか分からないけど、流夜は悪いことするような子じゃない!」
「お、お前さん!」
彼女は迷うことなく流夜たちの方へと駆け寄った。咄嗟のことに、犬たちの相手をしていた警視長は彼女が通って行くのを許してしまった。
「来ないでぇぇええぇぇえええぇ!」
叫び声をあげた先輩に反応した大きな犬が、先輩の方へ駆け寄った彼女の顔面へと牙をむけ、襲いかかった。
「うぐっ!」
大きな犬に飛びつかれ、額に牙が食い込んだ女性は、飛びつかれた勢いで倒れ込んだ。倒れた拍子に、彼女の携帯が宙を舞い、先輩の前に、かつん、と落ちた。
女性が倒れてもなお止まない犬たちの攻撃に、仕方なく自らの影に右手を埋める。すると、足元から、ずもも、とクロが溢れ出し、凶暴になった犬と猫と鴉たちを捕らえる。クロから逃れようと動物たちは暴れたが、埋めた手をぐっと握りこむとクロの拘束が強くなり、次第に大人しくなった。
動けなくなった動物たちに狙いを定め、ぱちん、と左手を鳴らすとどこからともなく無数の白いナイフが現れ、寸分違わず〝魂〟と書かれた紙を貫いた。
自らの影から右手を抜き、もう一度左手を鳴らすと、クロは煙の様に消え去り、白いナイフは砕け桜の花びらの様に風に舞っていた。砕けたナイフの破片と一緒に動物たちに貼り付けられていた紙も舞っていたが、そこにはもう〝魂〟の文字は無かった。
統率を失った犬と猫と鴉は、その場から逃げるように散り散りに去って行く。
自分の操る動物が居なくなったにもかかわらず、孤月は声をあげず、抵抗もせず、目の前に落ちている携帯を見つめていた。
携帯には、古びた兎のストラップがついていた。
「こ、れ……」
孤月は携帯を拾うと、倒れた女性に駆け寄った。
「ゆう子ちゃん?ゆう子ちゃんだよね?しっかりして!ゆう子ちゃん!」
「る、流夜。よかった、落ち着いたんだね。怖くないから、だいじょ――ぶっ!」
彼女は、見えない力に弾き飛ばされ、ひゅう、と宙を舞い、鈍い音を立てて地面にたたきつけられた。
「――え?」
孤月は何が起こったのかわからず、その場から動くことが出来なかった。
「まったく、私の邪魔をするとは実に腹立たしい女だ」
すぐ後ろから聞こえた声に、孤月は振り返った。
「まぁいい。グレイも随分消耗しただろう。ふはははっ!今日は本当についているぞ。私の邪魔をした同僚を始末でき、探していた者と繋がりのある者と巡り合え、紫香楽を始末する条件がそろっているのだからな!」
「同僚を――始末、した?」
孤月には、この男が何を言っているのか理解できなかった。
「そうだ、君のバイト先に行ったあの医者に異名を入れたのはこの私だ!お前の後輩であるあの男、グレイは人の願いを何でも叶えるのだ!彼に会い、紫香楽を殺すために君を利用しただけだ!」
逃げようとした先輩を素早く捕らえると、こめかみに拳銃をつきつけた。
「動くな、僅かでも動けば即頭を撃ちぬく」
「ひっ!」
先輩は小さく悲鳴を上げ、恐怖から目に涙を浮かべた。
手出しができなくなったオレと警視長は大人しく杉野の言うことに従う。紫香楽とアナザーは、少し後ろから様子を窺っていた。
――まいったな。これじゃあ手出しが出来ない上に、無駄に浪費するだけじゃないか。
くらり、と、僅かに平衡感覚を失ったことに、相当エネルギーを消費していることを自覚する。動物たちを解放するためにモノクロを使ったからだろう。何せ、数が多いのだからやむを得ない。
確かにオレは、全てを手に入れられる数式を解いた。
∞≠±一=0の答えは〝モノクロームコントラディクション〟。白と黒の矛盾だ。
∞≠±一=0の、∞というのはオレ達のいる輪廻転生を繰り返すこの世界のことであり、±1=0というのは、全ての公理が成り立たない世界――何もない世界。すべてが有るこの世界に対して、全てが無い世界が存在するという、式である。すべてが有る世界とは、すなわち絶対の世界。すべてが無い世界とは、すなわち虚無の世界。矛盾の世界とは、絶対と虚無を合わせたこの世界すべてを指す言葉であり、絶対以上の完全であり、虚無以上の欠如である。
モノクロームコントラディクションはすべての法則を無視することが出来る力。故に、オレには何をすることも可能なのだ。しかし、オレ達の住むすべてが有る世界でこの力を使い、世界の法則を無視し続けると世界は消える――絶対の世界が消えたように。
だから、オレは一つの法則だけは律儀に守っている。
最も基本的になること――無から有を生まない。モノを使うにしても、クロを使うにしても、その他さまざまな異なる世界の力を使う時、必ず自分のエネルギーを消費すること。
「くっくっくっ、紫香楽、貴様が我々に手出しできないことは知っているぞ。この女はワベク、私は司書だからな。まさに今の状況は、貴様に逃げ場がないことを示しているのだ」
そんなの当たり前じゃないか、と思うだろう。だが、モノクロームコントラディクションはそれさえも無視してしまう。何のリスクも無しに無限に際限なく使える力なのだ。
「グレイ――紫香楽を殺せ。これは私の願いだ」
「な!お、お前さん、ちぃとばかり待ってくれ!」
「相甲斐、貴様に私の何が分かるというのだ。愛するものを目の前で殺されたこの痛み、貴様に分かるものか!」
オレは左手でモノを掴み、真っ白なナイフを手にした。
「オレは人の願いをなんだって叶えるグレイさまさ。ただ、オレは正義の英雄じゃないし、悪の親玉でもない。善行だってするし、悪行だってする」
――他人の名を語るのは他でもない、オレが臆病だからだ。グレイ先生の名を語れば、少し強く成れたような気がする。
「人殺しであろうと、時間を巻き戻すことであろうと、どんなに小さくて些細な願いでも叶える。もちろん、相手が嫌いな奴でも、好きな奴でも、知り合いでも、今日会ったばかりの奴でも、分け隔てなく願いを叶える。基本的に一度しか願いを聞かないけどね」
――全てを持っているのに、何もないオレ。だから、矛盾。
「貴様のことはどうでもいい。早く紫香楽を殺してくれ!貴様なら容易にできるのだろう!」
「いいのか?オレは一人につき一つの願いしか叶えない。紫香楽を殺す――それがお前の願いでいいのか?最愛の妻を生き返らせる、とかじゃなくて本当にいいのか?オレなら死者を蘇らせることなんて、造作もないことだ。それなのに、誰かを殺すという自然の摂理で補えることをしてしまうのか?人生をやり直すとか、神様になるとか、物理的に不可能なことでもいいんだぞ?まぁ、それがあんたの一番の願いならいいんだけどさ」
初めて杉野に動揺の表情が浮かんだ。
(最愛の妻を生き返らせる?あやめが、戻ってくるだと?五年前に死んだあやめが――――!)
「グレイさま、お願い流夜を助けて!」
澄んだ声が響き、我に返った杉野は目を疑った。十数メートル先に居た男が、いつの間にか自分の目の前に居るではないか!
左手に握った純白のナイフで急所である喉元めがけて孤を描く。
「キミには言ってなかったけど、オレって嘘つきでわがままで、目の前で知り合いを人質に取っている奴の願いを聞くほどお人好しでもないんだよ!」
杉野が銃口を先輩からオレへと向けるのが分かった。
「遅い!」
杉野の喉に触れる7㎝前――杉野の後ろから、両手が伸びてきてオレの視界を塞いだ。
その一瞬の間に、杉野は後ろにごろごろと転がり、致命傷と追撃を防いだ。
(今のは何だ?)
杉野が目の前で転がっている頃には、自分の視界は戻っており、両手も無かった。あの一瞬の間に、杉野が力を使った形跡は見られない。脳内では先ほどの手のことを考えながら、身体は先輩を抱きかかえ、杉野から離れるように後退した。自分よりも背の低い先輩は女性ということもあり、何の苦も無く抱きかかえることが出来た。
「くっ!き、さま!はなから私の願いなど、叶える気が無かったのか!」
首筋に走った切り傷を押さえながらすぐさま起き上がり、口を開く杉野。
――そういう訳じゃ、ないんだけどな。その願いは叶えられない、それだけだよ。
先輩を警視長へと預ける。
「オレは正義の英雄じゃないし、悪の親玉でもないよ。だからって、善悪の区別がつかないわけじゃない。先輩はきちんと助けたし、これでキミの願いは叶ったわけだ」
ぽたり、と、頭から血が流れるのも気に留めず、尼野は孤月に近づいた。
「あ、りがと。よかった、流夜、無事で」
「ゆう子ちゃん……ご、めんね。ごめんね」
先輩は涙をこぼしながら、彼女を優しく抱きしめた。尼野は優しく笑う。
「私さ、あんな事言うんじゃなかった、って、今でも後悔しているんだ。流夜が人形を動かした、なんて、相談でも言うんじゃなかった、って…さ……。結局、そのことちゃんと謝れなかった。私が引き起こしたことなのに、流夜のこと助けてあげられなかった……。ずっと、ずっと後悔してて………何度も流夜に会う為に、家に行ったんだけど…、怖くなって、会えなかった。ごめんね……」
先輩は何度も首を横に振りながら言う。
「ううん、ううん、私こそごめんね。ずっと、ゆう子ちゃんが何か言ったのかも、って、疑ってたの。悪いのは私の方だよ。ずっと助けてくれたゆう子ちゃんに、怪我まで、させて……ごめんね、ごめんね。助けてくれて、ありがとう」
その様子を見ながら、オレは杉野に語りかける。
「ああいうの、何だかいいよね。友情って言うの?うらやましいなあ……、オレにもあんな風にいろいろ語れる人が欲しいものだよ。あんたはどう?あやめさんのこと、どれだけ知っていた?」
――この世界に居る人たちは、オレのことをどれだけ受け入れてくれるだろうか。オレも、嘘をつかなければ仲良くしてもらえるだろうか。グレイ先生たちと居た時のように。
「全てだ!彼女のすべてを知っている!」
くるり、と方向を変え、杉野の方へと身体を向けた。
「本当に全て?オレみたいに嘘をついて騙して悪いことしていたのかもしれないよ?」
「管理司書をなめるな!あやめがいつ、どこで、何をしていたかなど、把握している!」
左手の人差し指で杉野を指す。
「それだよ――あんたの知っているは、しょせん事象だけに過ぎない。なにをした、どこでした、いつだった。彼女が心で何を考え、何を想い、何を知っていたか、あんたは知らない。司書が知り得ることなんてその程度だ」
自分に言い聞かすように、言葉を吐く。
――そうだ、オレは人の心まで見ちゃいない。自分だけを守って生きてきた。
夕焼けによって赤く染まった空を仰ぐ。終わりへと向かう色に染まった空は、見る者すべてに悲しい印象を与える。
(救われない、な)
空から杉野へと視線を向ければ、その後ろに一人の女性が立っていた。
――ああ、さっきの眼隠し手は彼女か。
「どうして気づかないんだろうね?それだけ近くに居るっていうのにさ。どうして気づいてもらえないんだろうね」
声をあげて泣く女性は、後ろからゆっくりと杉野を抱きしめていた。声を上げ、言葉を叫び、何度も何度も訴える。しかし、杉野はそれに何の反応も示さなかった。
「何ていうか、今日は自分が思うままに動きたいんだよね。これって結構珍しい事なんだよ。オレが自分の欲に従って何かをする、っていうのはさ」
オレは誰かの言うことしか実行しない――それは、時に酷いことではないだろうか。
例えばアナザーの時。
オレは山頂に溜まる雲を見て、雨が降り水かさが増すことを知っていた。だが、言葉でいうばかりで行動でアナザーを助けようとしなかった。本当に助けたいなら、その場で彼を抱えて安全なキャンプ場へと連れて行けばよかったのだ。
どうして、そうすることが出来なかったのだろう。
「とりあえず、オレはキミのこと八つ裂きにしたいと思うから、そうさせてもらうよ」
言い終わるか、終わらないか。純白のナイフを左手に取り、杉野の左眼めがけて投げた。
「!」
眼球まであと2㎝というところで右に躱し、直撃だけは逃れた。しかし、目のすぐ横を斬ったナイフは、地面に突き刺さると派手な閃光と共に炸裂した。
「がはっ!」
そこまで想定していなかった杉野は、無防備な背中に閃光をまともに喰らい、その場に倒れ込んだ。
「白体、って知っているか?黒体と合わせることで〝無〟になる物質さ。黒体が吸収できる限界量のエネルギーを有しているのが白体。矛盾のモノは白体の上位種なんだよ。躱しても、受け止めても、はじいても、呑み込んでも、何をしても絶対に防御不可能な攻撃なんだよね。ちなみに矛盾のクロは黒体の上位種。すべてを呑み込むブラックホールよりも質が悪く、傷を癒す力を持っている絶対の守りなんだ。ああ、でも――絶対を殺したのはモノでもクロでもないよ」
井水戸玄奥の名は本当にアナザー・ワールドへ返そう。
グレイ・パラドックスは大人しく眠ろう。
もう、自分を偽るのは止めよう。
「解いてはならない式〝∞≠±一=0〟の答え――モノクロームコントラディクション。そうさ、オレがグレイ先生の最後の弟子で、数式を解いた張本人だよ」
衝撃によって杉野の手から吹き飛んだ拳銃を拾い上げ、杉野の頭につきつける。
「最、後、か――なる、ほ、ど」
やめてヤメテ止めてヤメテ!殺さないで殺さないでヤメテ殺さないでやめてヤメテ止めて殺さないで殺さないで殺さないでヤメテ止めてヤメテ止めてヤメテ殺さないでお願いやめてころさないでお願い殺さないでやめて、深夜さんを殺さないで!
目の前の男に覆いかぶさる女性は、必死に懇願してくる。それでも杉野は女性に対し、何の反応も示さなかった。
この女性の様に大事な人のために命を張れる人になれれば、オレのために命を張ったグレイ先生も許してくれるだろうか?
無言のまま彼女を見つめていると、重さ三十㎏以上もある側溝蓋が飛んできて、頭部に直撃した。
「ぐっ!」
頭蓋骨が砕けそうなほどの衝撃を受け、その場に倒れ込む。
側溝蓋に纏わる力の流れ――念動力。
目の前で地に伏せていた男はすぐさま体を起こし、背を向けて走り出した。
「大丈夫か、青年!」
慌てて駆け寄ってきた警視長は、救急車を呼ぶために携帯を取り出した。のろのろと起き上がったオレは、警視長の携帯を左手で閉じて阻止した。
「大丈夫、大した怪我はしていない。少し切れて血が出ているだけだから」
右手を、くい、と動かし、クロを呼びだした。クロは長細くなり、包帯の様にくるくると頭に巻きついた。
「本当に大丈夫か?念のため、病院へ行った方がよい」
「それよりも先にやることがあるだろ」
そう言われた警視長は、杉野が走り去った薄暗い道へと視線を向けた。
「うむ……そうだな、あやつを追いかけねば!」
立ち上がって追いかけようとした警視長の右手を掴んで引き留める。
「あれは放っておけ。オレが手を貸さない以上、復讐は二度と出来なくなったんだ。そのうちWPが捕まえるさ――それに、怪我をした人を放って行く、っていうのはどうかと思うしね」
そう言って先輩たちの方へと視線を向ける。警視長も納得したように頷き、彼女たちの方へと歩み寄った。
「頭部の傷っていうのは、小さな傷でもかなり出血するんだよ。でも、あれだけ喋れているし、うん、脳への異常もほとんどないな。打撲はしているけど、それほどひどい物じゃない。クロで止血と消毒をしておけば問題ない」
そう言って長細いクロを尼野の額にくるくると巻きつける。
「ありがと。助かったよ、私も流夜も」
尼野は笑顔でお礼を言う。
「お前さん、どうして救急車を呼ぶのを止めたのだ?」
「ここら辺りで救急車を呼ぶと、搬送先はスギノ医院になるだろう?敵地のド真ん中に入るなんて、オレはごめんだ。………さて、彼女たちをお家へ返してあげないと、ね」
「うむ、そうだな。さぁ、お前さんら、私が家まで送ってやろう」
「ああ、この人は警視長の相甲斐正則さん。こっちに居るのは紫香楽。先輩、紫香楽からきちんと話を聞けば、長年の恐怖は消えるよ」
先輩は尼野と一緒に警視長さんの車に乗った。
〝では僕は助手席に乗るか――相甲斐――運転しろ〟
「青年と少年が乗れないではないか」
五人で乗るのが精いっぱいの車。一人乗れなくなってしまう。
「青年、すまんが詰めて乗ってもらわなくては―――」
あたりを見回すが、青年と少年の姿はどこにもなかった。